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鏡守の亡霊

第2話 第2話「蝋のような女の頸」

第2話

第2話「蝋のような女の頸」

蓮は銃を下ろし、廊下に膝をついた。

蛍光灯が一本切れかけていて、不規則に明滅している。その断続的な光の下で、女の顔色は蝋のように白かった。

左手で女の頸動脈に触れる。脈拍は速く、浅い。毎分百二十以上。出血性ショックのステージII。猶予は長くない。

周囲を確認した。階段の下に人の気配はない。追手がいるなら、もう来ているはずだ。少なくとも今この瞬間は、女一人。蓮は銃をウエストバンドに挟み、女の身体を抱え上げた。軽い。五十キロあるかどうか。血の温もりが蓮の腕に伝わってくる。生きている人間の温度だ。まだ間に合う。廊下の床に残った血痕が、女がここまで自力で辿り着いたことを示していた。這うようにして、最後の力を振り絞って。

事務所の中に運び込み、ソファに横たえた。ドアを閉め、鍵をかける。窓のブラインドを確認。隙間なし。

デスクの下段の引き出しから救急キットを出した。市販品ではない。止血帯、クイッククロット、胸腔穿刺針——スパイ時代の名残で、戦場レベルの応急処置セットを常備していた。三年間、使う機会がなかったことに感謝すべきか。

パーカーの裾をめくり上げた。右脇腹の創傷を確認する。

切創。刃渡り十五センチ前後のコンバットナイフ。刺入角度は下方四十五度。肋骨の下縁を滑るように侵入し、腹斜筋を裂いている。だが腹膜には達していない。肝臓の手前で止まっている。

蓮の顎が強張った。

偶然じゃない。計算された一撃だ。臓器を傷つけずに大量出血を引き起こし、対象の行動能力を時間をかけて奪う。特務班の尋問技術。蓮自身が訓練で何度も教わった手口そのもの。つまりこの女を刺した人間は、蓮と同じ場所で同じ教育を受けている。

止血にかかった。クイッククロットを創口に押し込み、圧迫する。女が苦痛に顔を歪めたが、意識は戻らない。止血帯で固定し、脈拍を再確認。やや安定。出血は収まりつつある。処置が間に合った。

蓮は血に濡れた手を見下ろした。

三年ぶりだ。他人の血で手が染まるのは。指の間に入り込んだ血液が、室温で急速に粘度を増していく。鉄錆の匂いが鼻腔にこびりつく。忘れていたわけではない。忘れられるはずがなかった。ただ、もう二度と嗅ぐことはないと思っていた匂いだ。

女の身体を手早く検索した。財布なし。身分証なし。スマートフォンは液晶が割れて起動しない。ポケットにはUSBメモリと、折りたたまれた紙片が一枚。蓮はそれを開いた。走り書きの文字。

『影宮蓮。新宿区歌舞伎町1丁目──ビル4F』

この事務所の住所だ。偽名で登録した、表向きには存在しない事務所の正確な所在地。誰かがこの女に教えた。蓮のことを知っている誰かが。

USBメモリに目を落とした。黒い樹脂製の筐体。八ギガバイト。市販品に見えるが、端子の部分に微かな加工痕がある。物理的な暗号化チップが内蔵されているタイプだ。情報機関で使用されるもの。

蓮はデスクに戻り、ノートパソコンを開いた。ネットワークから切断されていることを確認してから、USBを挿した。

パスワード入力画面。

蓮の指が止まった。情報機関の暗号化USBには標準プロトコルがある。初期パスワードは所有者の個人識別コードだ。だがこの女の識別コードは知らない。

試しに自分のコードを入力した。

ロックが解除された。

心臓が跳ねた。このUSBは最初から、蓮に開かれることを前提に設定されていた。

フォルダが一つ。名前は「MIRAGE」。

蓮の呼吸が止まった。

オペレーション・ミラージュ。三年前、蓮の人生を破壊した作戦のコードネーム。作戦終了後、関連ファイルは全て完全消去されたと聞いていた。三重上書き消去。物理メディアは焼却処分。デジタル痕跡は一切残さない——それが特務班の標準手順だ。

存在しないはずのファイルが、ここにある。

フォルダを開いた。ファイルが二十三個。作戦計画書、通信記録、要員リスト、事後報告書。日付は三年前の五月から七月。蓮が地獄を見た、あの三ヶ月間の全記録。

最初のファイルを開く。作戦計画書の表紙。

『内閣情報調査室 特務班 極秘 オペレーション・ミラージュ 作戦計画書 作成日:20XX年5月12日 分類:EYES ONLY』

蓮はスクロールした。作戦概要。目的。投入要員。タイムライン。すべて記憶にある内容だ。東南アジアの武器密輸ネットワークの中枢を叩く。蓮を含む五名の工作員が潜入し、証拠を押さえて拠点を制圧する。単純明快な作戦のはずだった。

だが蓮の記憶にないページがあった。

作戦計画書の末尾。添付資料C。蓮が見たことのない区分だ。

『添付資料C:事後処理計画(作戦開始前承認済み)』

蓮の目が文字を追った。

『作戦完了後、以下の要員について処分を実行する。 対象001:水瀬拓真(排除) 対象002:影宮蓮(排除) 対象003:神崎沙耶(回収・再配置)』

文字が滲んだ。蓮は目を擦った。滲んでいない。視界が揺れているのは、自分の手が震えているからだ。

読み直した。何度読んでも同じだ。

処分対象。作戦が始まる前から、蓮たちは死ぬことが決まっていた。裏切り者に仕立て上げられたのではない。最初から、消される計画だった。作戦は餌だ。蓮たちを合法的に始末するための舞台装置。

そして沙耶は「排除」ではなく「回収・再配置」。殺されたのではなく、回収された。別の任務に再配置された。つまり——

蓮は椅子の背に叩きつけられたように仰け反った。

沙耶は最初から知っていたのか。それとも、沙耶もまた駒だったのか。あの夜、作戦が崩壊したとき、沙耶が見せた恐怖は演技だったのか。銃声の中で蓮の名を叫んだあの声は。——考えるな。今はまだ早い。感情で判断を歪めれば、三年前の二の舞になる。

頭が回らない。三年間信じていた構図が根底から崩れていく。裏切り者の汚名。仲間の死。沙耶の消失。すべてが、誰かの計画通りだった。

ソファの上で、女がかすかに呻いた。

蓮は画面から目を離した。震える手でウイスキーの瓶を掴み、一口飲んだ。胃に落ちた酒が、かえって寒気を呼んだ。安物のバーボンの焦げた甘さが舌の上で不快に残る。身体が拒絶している。アルコールではなく、現実そのものを。

誰だ。この処分を承認した人間は。

蓮はファイルを遡った。添付資料Cの承認欄。電子署名が二つ。一つは特務班の班長・桐島のもの。もう一つは——

識別コードだけで、名前がない。だがコードの接頭辞が示す所属は、蓮の知る組織の階層を超えていた。内閣官房直轄。特務班のさらに上。蓮が存在すら知らなかった指揮系統。

この女は、どこからこのファイルを持ち出した。そして誰に届けろと言われた。

蓮は立ち上がり、ソファの横にしゃがんだ。女の顔を見る。初めてまともに観察した。頬骨が高く、鼻筋の通った顔立ち。どこかで見た気がした。記憶の底を探る。見つからない。だが既視感が消えない。網膜に焼きついた誰かの面影と、目の前の女の輪郭が、重なりそうで重ならない。その微かなずれが蓮の胸を不規則に掻いた。

女の左手首に細い傷跡があった。手術痕ではない。拘束具の痕だ。長期間、手首を縛られていた人間に残る特徴的な擦過痕。蓮は同じ痕を、捕虜になった工作員の手首で何度も見てきた。古い傷と新しい傷が幾重にも重なり、皮膚が変色している。数ヶ月ではない。年単位の拘束。

この女は、どこかに囚われていた。

USBメモリの中のファイルと、血まみれの女と、蓮の抹消された名前。三年間空振りを続けた標的のない銃に、弾が装填された感覚があった。

蓮はノートパソコンの画面に戻った。ファイルはまだ二十二個残っている。答えはこの中にある。

左肩の疼痛が嘘のように消えていた。代わりに、胸の奥で三年間凍りついていた何かが、静かに溶け始めていた。それは怒りだ。輪郭を失いかけていた怒りが、今、明確な形を取り戻そうとしている。

蓮はファイルを開き続けた。夜はまだ長い。

そして次のファイル——通信傍受記録の冒頭に、自分の名前がもう一度現れた。

『処分対象002・影宮蓮 状態:未完了 再執行承認:済』

日付は、二週間前だった。

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