第1話
第1話「影宮探偵事務所の雨」
左肩が疼いた。
雨の匂いが滲む新宿の夜。湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、アスファルトから立ち上る生温い水蒸気が街全体を霞ませている。雑居ビルの四階、「影宮探偵事務所」と印刷しただけの安いプレートが貼られたドアの向こうで、影宮蓮はデスクに突っ伏していた。手元にはセブンイレブンの安ウイスキーと、完成したばかりの浮気調査報告書。蛍光灯が一本切れかけていて、不規則に明滅するたびにデスクの上の書類が青白く浮かび上がっては沈む。
依頼人は四十代の主婦。夫が新宿二丁目のビジネスホテルに週二回通っていることを突き止めるのに三日かかった。張り込みの間、蓮はコンビニのおにぎりと缶コーヒーだけで過ごした。雨に打たれながらビジネスホテルの非常階段の陰で三時間立ち続けた夜もあった。報酬は十五万。かつて国家の暗部で命を張った男の値段としては、笑えるほど安い。
銃創が、また痛む。
蓮は左肩を押さえた。三年前に受けた九ミリパラベラムの貫通痕。骨と筋肉は繋がったが、神経が天気に反応するようになった。雨の夜は特にひどい。鈍い疼痛が肩から首筋へ這い上がり、こめかみの奥で脈打つ。まるで弾丸がまだ体内に留まっているかのように、鉛の重さが肩関節の奥に居座っている。痛みとともに、あの夜が蘇る。
地下室。炎。仲間の叫び声。
目を閉じると、映像が網膜に焼きつく。内閣情報調査室・特務班。表向きには存在しない部署で、蓮は六年間を過ごした。潜入、情報奪取、時には排除——国家のためと信じて。任務のたびに人間らしさが少しずつ削り取られていくのを感じていた。それでも蓮は歩みを止めなかった。守るべきものがあると信じていたから。
あの作戦の夜まで。
「オペレーション・ミラージュ」。東南アジアの武器密輸ルートを断つはずだった作戦が、地獄に変わった。安全保障局の地下施設で待ち伏せを受け、班員五名のうち三名が死亡。最初の銃声が響いた瞬間、蓮は状況を理解した。情報が漏れている。だが理解したところで、すでに遅かった。コンクリートの壁に囲まれた地下通路で、四方から交差射撃を浴びた。硝煙と血の匂いが充満する闇の中、仲間が一人、また一人と倒れていく。蓮は左肩を撃ち抜かれながら一人だけ脱出した。排水管を伝って地上に出たとき、左半身は自分の血でぬるぬると濡れていた。
そして二日後、蓮は「裏切り者」になった。
情報を売り渡した二重スパイ。仲間を殺した裏切り者。そんな報告書が上がり、蓮の身分は即座に抹消された。弁明の機会すらなかった。そして恋人の沙耶——同じ特務班の工作員だった沙耶も、消えた。連絡は途絶え、住居は空になり、まるで最初からこの世に存在しなかったかのように、沙耶の痕跡は一切合切消し去られていた。
蓮はウイスキーを煽った。喉が焼ける。安い酒特有の刺すようなアルコールの刺激が、思考を鈍らせてくれる。胃の底がかっと熱くなり、その熱がゆっくりと全身に広がる。酔いたかった。何も考えずに眠りたかった。だが脳は静まらない。いつだってそうだ。
デスクの引き出しを開けた。奥に隠した一枚の写真。色褪せかけたポラロイド。訓練施設の庭で撮った集合写真。蓮の隣で笑う沙耶。風に揺れる髪を押さえながら、目を細めて笑っていた。その後ろに立つ大柄な男——水瀬拓真。右端で腕を組む黒田教官。みんな笑っていた。あの頃は、自分たちが何を守っているのか疑う必要がなかった。
この中の三人は死に、一人は蓮を裏切り者に仕立てた側にいる。
「……馬鹿だな」
呟いて、写真を引き出しに戻した。指先に残る写真の手触りが、妙に生々しかった。
三年間、手がかりを探した。元同僚に連絡を試み、情報機関の裏ルートを当たり、フリーの情報屋に金を払った。すべて空振りだった。組織は蓮の痕跡を完璧に消し去っていた。戸籍さえ書き換えられ、影宮蓮という人間は公的には「存在しない」。
探偵免許は裏ルートで取得した偽名のもの。住所も偽装。ゴーストとして生き延びる日々。
復讐だけが生きる理由だった。だが、復讐の相手が見えない。標的のない銃は、ただの鉄塊だ。三年という時間が、怒りの輪郭を少しずつ曖昧にしていく。それが何より恐ろしかった。怒りを失ったら、自分には何も残らない。
蓮は窓際に立った。四階から見下ろす歌舞伎町の夜景。ネオンが雨に滲んで、安っぽい極彩色が路面を染める。酔っ払いが怒鳴り、客引きが声を張り上げ、パトカーのサイレンが遠くで鳴る。窓ガラスに映る自分の顔は、三十二歳にしては老けて見えた。目の下の隈が深く、無精髭が影を落としている。かつて切れ者と呼ばれた眼光は、今は濁った疲労の色を帯びていた。
かつて蓮が守ろうとした国の、剥き出しの夜。
缶コーヒーの空き缶が散乱したデスクに戻り、椅子に深く沈む。スプリングが軋んで情けない音を立てた。壁に掛けた時計は午前一時を回っていた。秒針の音だけが、静まり返った事務所に規則正しく響いている。明日の朝は別の依頼人との面談がある。ペット探し。元国家工作員がチワワを追いかける。笑い話にもならない。
目を閉じた。
いつもの悪夢が来るだろう。地下室の炎と、倒れた仲間と、自分だけが生き延びた罪。三年間、一晩も欠かさず繰り返される罰。
だが今夜は、悪夢よりも先に別のものが来た。
物音。
蓮の目が開いた。全身の神経が瞬時に切り替わる。酔いが消える。三年のブランクがあっても、身体に刻まれた反応は消えない。背筋が伸び、指先の震えが止まり、聴覚が研ぎ澄まされる。事務所の外の空気が変わったのを、肌で感じた。
階段だ。誰かが這い上がってくる。
時刻は午前一時十七分。このビルの他のテナントはとっくに閉まっている。一階の居酒屋も深夜一時で店じまいだ。ビルに用がある人間はいない。
蓮は音を立てずに椅子から立ち上がった。デスクの裏に貼り付けてあるベレッタM9を剥がし、スライドを引く。冷たい金属の感触が掌に馴染む。三年間毎日手入れを欠かさなかった銃は、滑らかに動作した。弾倉は満タン。十五発。
足音ではない。這う音だ。手と膝で、一段ずつ階段を上がっている。不規則なリズム。負傷者の動き。階段のリノリウムを爪が引っ掻く微かな音が、静寂の中で異様に鮮明に聞こえる。
蓮はドアの横に立ち、背中を壁につけた。右手に銃。左手でドアノブに触れる。
呼吸を止めた。
音が近づく。三階を過ぎ、四階の踊り場に到達する。廊下を、何かが這ってくる。重い呼吸。時折漏れるかすかな呻き。呼吸の間隔が短い。出血性ショックの初期症状。訓練で何度も聞いた、命が零れ落ちていく音だ。
そして蓮の事務所のドアの前で、音が止まった。
沈黙。五秒。十秒。
弱々しいノックが一つ。
蓮はドアを開けた。銃口を向けたまま、廊下を見下ろす。
女が倒れていた。
二十代半ば。黒いパーカーは血で濡れ、右の脇腹を押さえた手の隙間から鮮血が滴り落ちている。廊下のリノリウムに赤黒い筋が点々と続いていた。一階のエントランスから、ここまで這ってきたのだ。顔面は蒼白。唇の色が失われている。出血量が多い。刃物による切創——いや、これは。
蓮の目が細まった。
傷の位置、深さ、角度。これは訓練を受けた人間の攻撃だ。急所を狙いつつ即死を避ける、プロの仕事。肝臓の手前で刃を止めている。殺すためではなく、苦しめながら時間を奪うための一撃。蓮はこの手口を知っていた。特務班の尋問マニュアルに記載されている技術だ。
女の唇が動いた。かすれた声が、血の泡とともに漏れる。
「影宮……蓮……」
蓮の本名を知っている。偽名ではなく、抹消されたはずの本名を。心臓が跳ねた。三年間、誰にも呼ばれなかった名前。この世界から消し去られたはずの名前が、血まみれの唇から発せられた。
女の握り締めた左手が開いた。血に濡れた掌の中に、小さなUSBメモリが一つ。
「これを……渡せと……」
声が途切れた。女の目が裏返り、身体が床に崩れ落ちる。
蓮はUSBメモリを見つめた。
左肩の銃創が、激しく疼いた。