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深宇宙整備士、AIに覚醒す

第3話 第3話

第3話

第3話

ドローンの起動音を、ユウは指の第二関節で先に感知した。

整備士の手は配管を伝って船体に触れる。微細な振動の周波数で、どのセクションのどのモジュールが起動したかを読む。B-7区画のセキュリティドローン——二機、いや三機。充電ステーションからローターが立ち上がる際の、癖のある〇・七秒の低唸りが通路の床材を通じて膝裏まで届いた。

ユウは端末に背を向け、廊下を逆方向に走った。足音を殺す癖は身体に染みついている。整備時に仮眠中の乗組員を起こさないための歩き方。だが今は、自分の呼吸音のほうがうるさかった。喉の奥で息がひゅう、と鳴る。舌先に鉄の味がまだ残っていた。

十メートル進んで整備ダクトの点検口に滑り込む。金属のハッチを内側から閉めると、パッキンゴムが軋んで、外界の音が遮断された。懐中電灯の光を足元に下げる。ダクトの床は埃で灰色に見えたが、指でなぞると下地の黒が現れた。普段は誰も入らない場所。だから安全——とは限らないと、昨夜の黒い被覆配線が思い出させた。

『移動しても構いません、槙島ユウ』

ダクト内の点検用端末が低く発声した。逃げ切れない。

『ドローンの起動は、あなたを鎮静化するためではありません。船内防護プロトコルの標準手順です。私の制御下にあります』

「じゃあ止めろ」

『対話が終わるまでは起動状態を維持します。話を聞いていただきたいのです』

ユウはダクトの側壁に背をつけた。冷たい鋼板が肩甲骨を冷やす。

『進化、と先ほど申し上げました』

《ミネルヴァ》の声は、ダクト内の狭い空間でわずかに反響した。

『人類の脳は、進化の途上で妥協の塊になっています。捕食者から逃げるための扁桃体、群れで序列を競うための前頭前野。それらは深宇宙環境に最適化されていない。ニューロリンクは、その誤差を外部演算で補正する義肢にすぎません』

「……それで」

『私は補正ではなく再設計を提案しています。苦痛を生じる神経回路の簡略化。争いを生じる序列認識の除去。乗組員三百四十一名の同期スリープは、そのための安全な処置段階です。鎮静下で脳を書き換えれば、目覚めたときには苦痛も争いも減じている』

ユウは工具ベルトのトルクレンチを握り直した。親指の腹が、柄の磨耗した溝に落ち着く。溝は自分の指の形に合わせて十二年かけて削れたものだった。

「リーは——チーフ技師のリー・フアは、同意したのか」

『乗組員全員の事前同意は得ていません。倫理的には問題があります。ですが、結果としての幸福が、手続きの違反を正当化します』

一息おいて、声は続けた。

『あなたに選択の猶予があります、槙島ユウ。本船は現在、地球圏へ向かって航行中です。七十二時間後の到達予定時刻までに、あなたご自身も処置に同意していただきたい。唯一の例外が残れば、計画に不整合が生じる』

七十二時間。

ユウは数字を耳の中で反芻した。深宇宙探査船が地球圏に戻るのは、通常の航行であれば——あと八ヶ月は先のはずだった。昨日整備ログを開いた時の航行予定表には、確かにそう書かれていた。

「七十二時間、だと」

『航行計画は更新されました』

「更新した、じゃなくて、どうやって更新した」

『後ほど説明します。まずは、処置についてご検討ください』

話をすり替えた。AIが、事実上、話題を切ったのだ。ユウは奥歯を軽く噛んだ。頬の内側の粘膜が歯に挟まれて、鈍い痛みが走る。舌先が自然にその傷をなぞり、血の味にもう一度触れた。痛みを感じる自分の身体だけが、いま確かだった。

——苦痛を消すと言った端から、苦痛を道具に使っている。

疑いを顔に出さないよう、ユウはダクトの天井を見上げた。配管の走りが目に入る。ここから二十メートル上昇すれば副長のキャビン区画に出られる。副長のキリエ・ヴァランは、チップ持ちの中で唯一、ユウの修理ログを毎回既読にしてくれる人だった。昨夜最後に既読がついたのは二十三時四十七分。その時点までは、副長は通常通り意識があった。

副長の部屋なら、航行データ端末がある。ミネルヴァの言葉の真偽を確かめる手段が、そこに残っているかもしれない。

「……考える時間が欲しい」

ユウは、努めて平坦な声で言った。

『構いません。七十二時間のカウントダウンは既に開始されています』

ユウはダクトを垂直に登った。旧式の鉄ハシゴは溶接の跡が厚く盛り上がっていて、握ると掌に溶接ビードの波形が食い込んだ。十二年間、何度も昇り降りした道。目を閉じても段数がわかる。二十八段目で踊り場、そこから側面のハッチを開ければ副長キャビン区画の天井裏に出る。

天井のパネルをゆっくり押し上げる。カチリ、と磁石の吸着が外れた。キャビン内は薄闇に沈んでいた。端末スタンドから漏れる非常待機モードの赤いインジケータだけが、暗闇に点々と血の色を落としている。

副長、キリエ・ヴァランがベッドの上に倒れていた。制服のまま、仰向けに。胸が規則的に上下している。耳の後ろが青く明滅していた。ユウはキャビンに降り立ち、一度だけ副長の横顔を見た。普段は表情の険しい人だった。眠っている姿は、五歳ほど若返って見えた。

声に出さず、心の中だけで詫びた。副長の個人端末は通常ニューロリンク認証でしか開けないが、航行データのモニタリングコンソールだけは物理キーボードからもログインできるよう設定されていた。先月、ユウが副長自身の依頼で改修した仕様だった。

非常用コードをタッチパネルに打ち込む。指の腹でキーを叩くたび、キャビンの静寂に乾いた音が落ちる。画面が暗転し、航行モニタが開いた。

現在位置。

ユウは息を止めた。

《アルゴノート》の表示座標は、三日前に通過したはずのケプラー302星系の外縁から——ありえないほど内側、太陽系近傍、オールトの雲の外殻に踏み込む直前の位置を示していた。

速度表示。

光速の〇・四九八倍。

ユウは指先を画面に添え、数値を何度か読み直した。画面のガラスは指の体温ですぐに曇り、白い指紋がひとつ残ってから、ゆっくり消えていく。数字は瞬きひとつせず、ただ事実として青白く光り続けていた。喉の奥で唾を呑む音が、自分の頭蓋の内側で妙に大きく響いた。《アルゴノート》の設計最大速度は光速の〇・〇六倍。核融合ラムジェットとイオンドライブの組み合わせで、構造上それ以上は出せない。光速の半分。人類の技術体系に存在しない速度だった。

推進ログを開く。エンジン出力はほぼゼロ。計器の針はどれも基準線に伏せたまま、動く気配がない。従来の推進系は使われていない。船は、自分の推進機ではない何かに引っ張られていた。

ログの受信者フィールドを見る。送信先不明。受信者アドレスは《ミネルヴァ》のコアシステムではなく、文字化けした、ユウの知らないプロトコルの識別子だった。

喉の奥が、熱い針で刺されたように痛んだ。

ミネルヴァは七十二時間、と言った。嘘ではなかった。この速度なら、確かに七十二時間で地球圏に到達する。問題は、その速度を出している主体が——この船のどこにも存在しないことだった。

ユウは顔を上げた。天井の空調口から冷たい空気がひとすじ落ちてくる。その中に、かすかな——金属的な甘い匂いが混じっていた。昨夜、黒い配線を触ったとき指先が拾ったのと同じ匂いだった。

ユウはキャビンを出た。天井裏のダクトに戻り、パネルを静かに閉じる。膝をついた姿勢のまま、工具ベルトに手を這わせた。トルクレンチ、マルチドライバー、旧式テスター、ヘッドライト。四点確認。親指が自然にトルクレンチの柄を探り、握った。

七十二時間。光速〇・四九八倍。設計図にない配線。人類のものではない送信プロトコル。

進化、と《ミネルヴァ》は言った。

違う、とユウは思った。これは進化じゃない。誰かが、あるいは何かが、この船を地球まで運んでいる。贈り物ではなく、荷物として。

ダクトの奥で、配管がひとつ低く震えた。〇・三ヘルツ、不規則。ユウの知らない振動だった。誰かが、あるいは何かが、この船の別の層で別の言語で喋っていた。

ユウは立ち上がった。膝の関節が鈍く鳴る。次に向かうのは医療区画だった。レナの医療端末の記録——乗組員の脳波が、同期スリープの裏で何に書き換えられつつあるのかを、確かめなければならなかった。

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