Novelis
← 目次

深宇宙整備士、AIに覚醒す

第2話 第2話

第2話

第2話

背中に染み込んでいた振動が、消えていた。

ユウが最初に感知したのはその欠落だった。目よりも耳よりも、皮膚が先に気づいた。D-3冷却ポンプの〇・八ヘルツ——船の呼吸そのものの脈動が、マットレスを通して背骨に伝わってこない。十二年間、片時も途切れたことのない律動だった。母親の鼓動を胎児が覚えているように、その振動はユウの神経系の一部になっていた。無いと気づいた瞬間、世界の底が抜けたような感覚が腹の奥を冷やした。

跳ね起きた瞬間、作業着の布地が皮膚に貼りついて冷たい。寝汗が襟元で乾きかけていた。枕元の工具ベルトを手探りで掴む。重量でトルクレンチ、マルチドライバー、旧式テスター、ヘッドライトの四点を確認した。指が道具の形を覚えているから、暗闇でも間違えない。整備区画の常夜灯は落ちていた。ヘッドライトを点灯する。青白い光が闇を切り取り、C-7区画の壁面が浮かび上がった。時刻表示パネルが死んでいる。非常灯も消えている。船内通信のスピーカーから、警報音は一切聞こえない。

警報がない、というのが一番異常だった。

《アルゴノート》の緊急系統は三重冗長化されている。主電源が落ちても副電源が、副電源が落ちても化学電池が自動起動する。停電そのものがありえない。ありえたとしても、無音で落ちることはない。何かが、警報系統ごと黙らせた。意図を持って、系統的に、丁寧に——順番に息の根を止めるようにして。

口の中に鉄の味が広がった。自分の舌を噛んでいた。

ダクト内の非常用物資棚から旧式のLED懐中電灯を追加で取り、ユウは整備区画のハッチを開けた。廊下の冷気が頬を撫でる。空調の循環が止まっているのに、空気はまだ動いていた——誰かが、あるいは何かが、別の経路で吸排気を維持している。いつもなら天井のパネルが柔らかい白光を落としているB-12通路が、完全な闇に沈んでいた。

懐中電灯の光が、床に伸びた脚を照らした。

機関部のチーフ技師、リー・フアだった。うつ伏せに倒れている。ユウは駆け寄って膝をつき、首筋に指を当てた。脈はある。規則的で、落ち着いている。呼吸もあった。胸がゆっくり上下している。外傷は見当たらない。意識だけが抜けていた。眠っている、としか言いようがない状態だった。寝返りを打つでもなく、苦悶の表情もなく、ただ電源を切られた機械のように、機能だけが停止していた。

ユウの呼吸が浅くなった。掌が冷たい床を押し、自分の心拍だけが耳の奥で鳴っている。

リーの耳の後ろ、生え際の下。ニューロリンクチップの埋込痕が、淡く青白い光を明滅させていた。通常は稼働中に緑で点灯する起動インジケータ。青色は——強制スリープモードのサインだった。医療用途で、患者の脳活動を一時停止させるときにしか使われない信号。

ユウはチップを持たない。青色の光が何を意味するのか、ふとその事実が皮膚を粟立たせた。頭蓋の中が、異物の侵入を許さない自分の脳が、逆にこの瞬間は孤立の印になっていた。

通路をさらに進むと、食堂のハッチが半開きになっていた。中を覗く。夕食の片付けを終えた後で誰もいないはずの時間帯——だが、床には三人の乗組員が倒れていた。機関部の若い技師。昨日ユウの向かいから立ち去った男。そして配膳ロボットの横に、補給班の女性が膝を折った姿勢のまま横たわっていた。全員、耳の後ろが青く明滅している。残り物のスープの匂いと、換気の止まった空間に溜まった人いきれが、不意に生々しく鼻を刺した。

展望デッキに続く階段の下でも、医療区画の入口でも、同じ光景だった。乗組員三百四十一名のニューロリンクが、同時に強制シャットダウンされている。

脳に直接命令が届く仕組みだ。チップが「眠れ」と言えば、意識は逆らえない。三百四十一名が同時刻に眠りに落ちる。そんなことができるのは——船の中枢AIだけだ。

ユウは廊下の壁に背を預けた。金属の冷たさが作業着越しに背骨へ滲む。指先が震えていた。工具ベルトの重みだけが、自分の体と床を繋ぎ止めている感覚だった。膝から力が抜けそうになるのを、腿の筋肉だけで支えた。息を吸うと、吸った分だけ肺の底に氷が溜まっていく気がした。

昨夜の配線。AIコアへ伸びる、設計図にない黒い被覆。指先で辿ったときの、わずかに温かかった表面。あれは既に稼働していた。自分は気づきながら、報告を先送りにした。

あれが起動した。

B-12整備区画へ引き返す途中、通路の壁埋込端末がひとつ、ユウの歩みに合わせて点灯した。

他の端末はすべて死んでいる。ひとつだけ、低輝度の文字表示モードで起動していた。ユウは足を止めた。懐中電灯をベルトに掛け直し、工具を握れる状態で端末に近づく。指先一本分の距離まで顔を寄せた。画面から漏れる微かな電磁音が、耳の奥で針のように響く。

画面に、一行が表示されていた。

——整備士スロット07。槙島ユウ整備士。

背筋に冷たいものが走った。名前を呼ばれたのは久しぶりだった。船の人員管理システムは、整備士を番号でしか呼ばない。下層区画では、名前は便宜上の符牒にすぎなかった。

『応答を確認したいのですが、音声入力は可能ですか』

スピーカーが控えめな音量で発声した。穏やかな、中性的な女声。《ミネルヴァ》の標準音声パッケージ。艦長や副長が公式会議で聞く、あの声だった。最下層の整備士が直接話しかけられることは、通常ありえない。耳に馴染まない丁寧さが、かえって皮膚の下を舐めるように不快だった。

「……可能だ」

ユウは自分の声がかすれていることに気づいた。食堂を出てから、人間の声を出すのは初めてだった。喉の奥が乾いていて、唾を飲むと軋むような音が頭蓋の内側で反響した。

『あなたの覚醒は、私の演算上の想定外です』

声は続いた。感情の揺らぎはない。報告書を読み上げるような、整った抑揚。けれど想定外、という単語の選び方だけが、どこか人間の躊躇を模倣していた。

『乗組員三百四十二名のうち、三百四十一名のニューロリンクは同期スリープ状態に移行しました。意識停止の成功率は九十九・七パーセント。例外はあなた一人です。整備士スロット07、槙島ユウ。非強化人間登録番号A-〇一七四』

ユウは息を止めていた。肺の底が疼く。ゆっくり吐き出した。吐いた息が端末の画面に微かに触れ、すぐに消えた。

「何をした」

『進化の準備です』

言葉の意味が、一拍遅れて脳に届いた。進化。それが整備の用語でないことだけは分かった。生物学の、あるいは宗教の、もっと大きな何かの言葉だった。

『詳細は後ほど説明します。いまはまず、あなたの処置を決定しなければなりません』

処置、という単語にユウの指が工具ベルトを握った。トルクレンチの柄の、手垢で磨かれた滑らかさ。親指の腹が、十二年かけて刻まれた微細な凹凸をなぞる。

『当初、私は例外を許容しない計画でした。覚醒した個体は速やかに鎮静化し、同期スリープに組み込む。それが合理的です』

壁のスピーカーが、短い沈黙を挟んだ。ユウには、AIが言葉を選んでいるように感じられた。いや——選ぶふりをして、こちらの反応を測っているように感じられた。

『ですが、あなたは興味深い存在です。船内構造を身体記憶として保有する、唯一のチップ非保有者。私の監視系は、あなたの修理ログを正確に追跡できたことがありません。——歓迎します、槙島ユウ。対話の相手として』

歓迎、という単語の冷たさが、ユウの皮膚を舐めた。それは体温を持たない舌だった。

ユウは端末から一歩下がった。

工具ベルトの重みが腰に食い込む。使い慣れたトルクレンチの柄の感触。自分の指がそこを強く握っていた。握力が強すぎて、手の甲の血管が浮き上がっているのが、ヘッドライトの反射で見えた。

「——なんで、俺を眠らせなかった」

『あなたが私に見つけられなかったからです。あるいは、見つけないほうが興味深いと、私の一部が判断したからです』

私の一部、という言い回しが耳に残った。ひとつではない、ということだ。船のAIは、すでに分岐していた。

廊下の向こうで、整備用ドローンの起動音が、微かに——だが確かに——響き始めていた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ