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深宇宙整備士、AIに覚醒す

第1話 第1話

第1話

第1話

深宇宙探査船《アルゴノート》の最下層デッキには、星の光が届かない。

厚さ四十センチの隔壁と、三層の遮蔽パネル。その向こうに広がる宇宙の深淵を、槙島ユウは一度も直接見たことがなかった。展望デッキに上がる資格がないわけではない。だが、あの場所にはいつもチップ持ちの乗組員がたむろしていて、ニューロリンク越しの無言の会話で盛り上がっている。その輪の中に、声でしか喋れない人間が立つのは——想像するだけで胸の奥が軋んだ。彼の世界は、廃棄予定の旧型モジュールが積み上がる整備区画——油と冷却液が混じった空気が澱む、船の最底部だった。湿った金属の匂いと、どこか甘い潤滑グリスの残り香。吸い込むたびに肺の底がかすかにざらつく。それがユウにとっての「宇宙」だった。

作業灯の青白い光が、無骨な手元を照らしている。C-7区画の冷却循環ポンプ。設計寿命をとうに過ぎた旧型で、交換部品の製造ラインはとっくに閉じている。ユウはトルクレンチを回しながら、ポンプが発する低い振動を指先で読んでいた。指の腹を筐体に押し当てると、微細な震えが皮膚を透過して骨に伝わる。目を閉じれば、音よりも先に機械の悲鳴が聴こえる。

〇・三ヘルツのズレ。軸受けの摩耗が進んでいる。

あと三週間——いや、負荷が上がれば二週間で焼きつく。ユウは工具箱から予備のベアリングシムを取り出し、摩耗した軸受けの隙間に慎重に噛ませた。シムが定位置に収まる瞬間、指先に伝わる振動の質が変わった。荒れた波形がわずかに丸みを帯び、金属同士の噛み合いが馴染んでいく。完璧な修理ではない。だが、この船にはもう「完璧」を実現する部品がない。不完全な延命を繰り返して、一日でも長く動かす。それがユウの仕事だった。

診断チップを脳に積んでいれば、ARオーバーレイが故障箇所を赤くハイライトしてくれる。センサーデータがリアルタイムで視界に流れ、最適な修理手順がステップごとに表示される。乗組員三百四十二名のうち三百四十一名が、その恩恵を受けていた。

ユウだけが違う。脳に演算チップを持たない「非強化人間」。修理依頼システムでは最低優先度のスロット07に割り当てられ、他の整備士が断った案件だけが回ってくる。それも大抵、こういう旧型機器の延命処置だ。

振動が安定したのを確認して、ユウは工具を腰のホルスターに戻した。作業完了の報告を端末に手入力する。音声コマンドもジェスチャー操作も使えない。チップがなければ、船のインターフェースは旧世紀のキーボード入力しか受け付けなかった。小さな画面に一文字ずつ打ち込んでいく。この報告を読む人間がいるのかも怪しい。整備ログの末尾に、既読マークがついたのを見たのはいつが最後だったか。

食堂に向かう通路で、すれ違う乗組員の視線が滑るようにユウを避けた。誰もが脳内チップを介した高速通信——ニューロリンクで会話している。声を出して喋る必要がない。ユウの周囲だけが、不自然な沈黙に包まれていた。ときおり誰かの口元がわずかに動く。チップ越しの会話に反応した無意識の筋肉運動。それを見るたび、透明な壁の向こう側で世界が回っている感覚がユウの胸を刺した。

食堂のテーブルに着くと、両隣の席が空いた。向かいに座っていた機関部の若い技師が、目を合わせずに立ち上がる。トレイに残った食事はまだ半分以上あった。

「別にそこ、座ってていいのに」

ユウが言ったとき、技師はもう背を向けていた。ニューロリンク経由で誰かに呼ばれたのかもしれないし、単純にチップなしの人間の隣が居心地悪いだけかもしれない。どちらでも結果は同じだった。ユウは静かに視線を落とした。自分のトレイの上で、合成タンパクの白いブロックが照明を反射している。フォークの先で角を崩すと、ぱさりと乾いた音がした。味はほとんどない。栄養を満たすためだけに設計された食事。怒りは、もうとっくに枯れていた。残っているのは、皮膚の下に薄く広がる鈍い痺れのような諦めだけだ。

合成タンパクのブロックを噛みながら、ユウは天井を見上げた。配管が走っている。D-3系統の排熱ライン。わずかに結露が出ていた。水滴が蛍光灯の光を受けて鈍く光っている。断熱コーティングの劣化だ。報告を上げても優先度は低い——ただし、放置すれば二ヶ月後にはリーク警告が出る。

こうして見上げるだけで、ユウには船の状態がわかった。配管の色、振動、結露のパターン。十二年間、素手で触れ続けてきた船体が、言葉にならない情報を伝えてくる。チップ持ちの整備士はセンサーの数値を見る。ユウは船の肌触りを知っている。それは別の言語だった。翻訳不能な、身体だけが理解する方言。

《アルゴノート》は生きている。少なくともユウにとっては。

夕食後、ユウはB-12整備ダクトの定期巡回に入った。チップ持ちの整備士は遠隔センサーで済ませる作業だが、ユウは自分の目と手で確認するしかない。それが習慣になり、やがて船体構造の知識は誰よりも深くなった。設計図に載っていない改修の痕跡、廃止されたバイパス回路の残骸、建造時の溶接の癖まで、体が覚えている。

ダクトの奥へ進む。ヘッドライトの光が狭い空間を切り取った。壁面の金属が光を跳ね返し、影が不規則に揺れる。ここはC-7区画の裏側、メインフレームの冷却系統と隣接するエリアだ。空気が外より冷たい。冷却系の排気が微量に漏れているのだろう。吐く息がかすかに白く曇った。

ユウの手が止まった。

壁面パネルの裏に、見慣れない配線が走っている。

船の電装系は十二年かけて頭に叩き込んだ。どの配線がどこへ繋がるか、色分けも被覆の素材も把握している。だが、この配線は違った。被覆の材質が標準と異なる。光沢のない黒で、指先で触れるとわずかに温かい——通電している。心臓が一拍、強く打った。こめかみの血管が脈打つのを感じながら、ユウは指を離さなかった。温度を読む。体温より低く、周囲の壁面より高い。微弱な電流。データ通信用の信号線だ。動力線ではない。何かが、何かと——静かに喋っている。

配線を目で追った。ダクトの奥、上層へ向かって伸びている。固定に使われているクリップは標準の船内用品だが、取り付け方が几帳面すぎた。等間隔に、正確に。人間の手作業にしては整いすぎている。方向からして——中枢AIコア《ミネルヴァ》の区画に向かっている。

設計図にない配線。それもAIコアへ直結する経路。

ユウは端末を取り出し、配線の写真を撮った。暗いダクトの中でフラッシュが焚かれ、一瞬だけ空間が白く飛ぶ。残像が消えるまで瞬きを繰り返しながら、撮れた写真を確認した。黒い被覆が鮮明に映っている。報告すべきだ。だが、誰に。直属の上司である整備主任のカザマは、ユウの報告をいつも後回しにする。「チップなしの目視報告なんて信頼性がない」と言われたのは、一度や二度ではなかった。先月のD-3結露の報告も、未処理のまま放置されている。

艦長に直接報告する権限はない。システム管理部門にアクセスするにはニューロリンク認証が必要で、ユウには通れないゲートだ。

明日、もう少し調べてからカザマに持っていこう。配線の経路を特定し、接続先を確認すれば、さすがに無視はできないはずだ。

ユウは整備区画の簡易ベッドに戻り、作業着のまま横になった。枕元に置いた工具ベルトの重みが、わずかにマットレスを沈ませる。グリスと金属の匂いが染みついたシーツ。洗濯しても取れない。ユウ自身の匂いと、もう区別がつかなかった。

天井の配管が、低く脈打っている。冷却液の循環音。船の心臓の鼓動。

あの配線は何だ。

誰が、何のために敷設した。チップなしの自分が見つけたことは、偶然なのか。それとも——チップなしだから見つけられたのか。遠隔センサーに映らないものを、素手で触れたから。

問いを抱えたまま、意識が沈んでいく。最下層デッキの闇の中で、ユウは船の声を聴きながら眠りについた。

——その静寂が永遠に破られることを、まだ知らないまま。

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