第2話
第2話「後部座席の呼吸法」
タクシーの後部座席で、神崎は呼吸を整えていた。
心拍数を意識的に落とす。吸って四秒、止めて四秒、吐いて四秒。戦場で身につけた呼吸法が、六年経った今も体に染みついている。革張りのシートが汗ばんだ背中に貼りつく。エアコンの乾いた風が首筋を撫でたが、肌の内側から湧き上がる熱は収まらなかった。指先がかすかに震えている。アドレナリンの残滓だ。体が戦闘態勢から降りきっていない。運転手はバックミラー越しにちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。深夜の客など、どれも事情を抱えている。
窓の外を流れるネオンが、暗い車内を断続的に照らす。赤、青、白。その光の明滅が、つい数分前の炎の色と重なった。まぶたの裏に焼きついた橙色。鉄と煙の混じった臭いが、まだ鼻腔の奥にこびりついている。
あの男は何者だった。元防衛省情報本部——それだけ聞いて、声が途切れた。胸を撃ち抜かれて。弾丸が肉を穿つ音。映画のような派手な音ではない。湿った、短い破裂音。あの音を、神崎は何度も聞いてきた。聞くたびに慣れると思っていた。慣れない。あの男の目が最後に映したのは、神崎の顔だったはずだ。伝えるべきことを伝え終えた安堵と、伝えきれなかった無念が、同時に浮かんでいた。
情報本部の人間が、わざわざ地下格闘場まで来た。それはつまり、正規のルートでは動けなかったということだ。組織の中に、動きを封じる力が働いている。
バックミラーに目をやる。後続車両。白いセダンが二台後ろについている。三十秒、観察する。車間距離が一定。車線変更のタイミングが不自然に合っている。
尾行だ。
腹の底が冷えた。恐怖ではない。認識だ。状況が一段階、悪化した。
「運転手さん、次の角を右に」
「お客さん、行き先は——」
「変更です。右に曲がってください」
声を低く、しかし明瞭に。命令口調にならないぎりぎりの線。相手を従わせるが、記憶に残らない声。それも訓練の残滓だった。
タクシーが右折する。バックミラー。白いセダンも右折。確定。
「もう一回、右」
運転手が怪訝な顔をしたが、従った。二度目の右折。セダンは直進した——が、代わりに黒いワンボックスが後方に現れた。交代制の追跡。二台以上で連携している。
プロだ。倉庫の制圧部隊と同じ系統。手際が良すぎる。
「次の信号で降ります」
「え、ここ?」
千円札を二枚シートに置き、車が減速した瞬間にドアを開けた。交差点の横断歩道を早足で渡る。走らない。走れば目立つ。信号が変わり、タクシーと追跡車両の間に横断する歩行者の波が壁を作った。
その隙に、左手のコンビニに入る。蛍光灯の白い光が目を刺した。レジの店員が顔を上げかけたが、神崎はすでに棚の陰を通り抜けていた。店内を突っ切り、従業員用の裏口から外へ出た。生ゴミの甘く腐った臭いが鼻を突く。廃棄物置き場の横を抜け、一本裏の路地に出る。ここから先は徒歩だ。
路地裏を南へ。大通りを避け、住宅街の細い道を縫う。自動販売機の明かりだけが足元を照らしていた。電柱の影に身を寄せ、三十秒間、耳を澄ます。追手の足音はない。エンジン音も遠い。一時的に撒いた。
だが時間の問題だ。あの連中が防犯カメラのネットワークにアクセスできるなら、この街を歩いているだけで居場所は割れる。
タクシーに告げた行き先は、土屋の住所とは別の方角だ。偽の行き先を運転手に聞かれている以上、まずそちらを捜索するだろう。稼げる時間は、長く見積もって一時間。
住宅街の奥にある小さな公園。街灯が一本だけ立っている。錆びたブランコが夜風に揺れ、軋んだ音を立てていた。砂場の湿った匂いが、どこか場違いな日常の気配を運んでくる。ベンチに腰を下ろし、ジャケットの内側から紙片を引き出した。
三枚の死亡記事を、改めて読む。
松永大輔。四月二日、都内の交差点でトラックに轢かれた。記事によれば、信号無視の歩行者として処理されている。松永が信号を無視するような男だったか。突入班の先頭を六年間走り続けた男だ。周囲の状況を確認せずに一歩も踏み出さない。それが体に刻まれている人間だ。
野口修一。三月十八日、自宅マンションの八階から転落。「自殺の可能性」と書かれている。通信担当。どんな状況でも冷静に無線を飛ばし続けた男が、自殺。あの低い声で「了解」と応答し続けた野口が。銃弾が頭上を掠めるなかで、一度も声を震わせなかった男だ。
中島亮太。三月二十九日、自宅の火災で死亡。漏電が原因とされている。爆発物処理の専門家が、漏電に気づかない。あり得ない。配線一本の異常を指先の感覚で見分けた男が、自宅の電気系統に殺される。冗談にもならない。
三件すべてが、この二ヶ月以内。三件すべてが「事故」。三人すべてが、燐光作戦の参加者。
そしてあの男が言った。記録が先月、丸ごと消去された、と。
順序を組み立てる。まず記録を消す。次に、記録の内容を知っている人間を消す。組織的な口封じ。しかも、事故に見せかける技術と権限を持った組織による。
あの倉庫の制圧パターン。三方向からの同時接近。サプレッサー付きの狙撃。証拠隠滅のための放火。すべてが軍事オペレーションの手順そのものだった。
民間の犯罪組織じゃない。国家レベルのリソースが動いている。
スマートフォンは持っていない。除隊後、追跡されるリスクを考えて契約していなかった。格闘場の連絡用に使い捨ての端末を一台持っていたが、あの倉庫に置いてきた。今の自分にはデジタルの足跡がない。それだけが有利な点だった。
先ほど飲み込んだメモの文字が、脳裏に焼きついている。
土屋誠。住所は神奈川県横須賀市。燐光作戦から生還した、自分以外の唯一の人間。
あの作戦で何があったのか。最終日の記憶の空白に何が埋まっているのか。なぜ記録が消され、仲間が殺されているのか。答えを持っている可能性があるのは、土屋だけだ。
だが、直接向かうのは危険すぎる。あの男が土屋の住所を神崎に渡したということは、敵も土屋の存在を把握している可能性が高い。すでに監視下に置かれているかもしれない。先に確保されているかもしれない。
罠の可能性も捨てきれない。
街灯の下で、自分の手を見た。テーピングを剥がした右拳。皮膚が裂け、乾いた血が黒く固まっている。ファイトマネーで食いつなぐだけの日々。何も考えず、何も思い出さず、ただ殴り、殴られる。そうやって六年間、記憶の空白から目を逸らしてきた。
拳を握る。痛みが走った。この痛みだけが、六年間の自分を繋ぎ止めていた唯一の実感だった。裂けた皮膚の奥で、鈍い疼きが骨まで響く。生きている証拠。それ以外に、自分が人間であることを確かめる手段を、神崎は持っていなかった。
もうその日常には戻れない。あの倉庫が燃えた時点で、神崎蓮という人間の痕跡は灰になった。格闘場の登録名も、近隣のアパートの契約も、すべてあの倉庫を起点に辿れる。今の自分は、戸籍上は存在しない人間だ。
追手は来る。カメラに映った顔が解析されれば、数時間で居場所は特定される。
動くなら今しかない。
ベンチから立ち上がった。紙片をジャケットに戻す。公園の出口は三方向。南へ抜ければ、二駅先に始発前のネットカフェがある。身分証不要の店を一軒知っている。そこで態勢を整える。移動手段、装備、情報。何もない状態で突っ込めば、松永たちの二の舞になる。
南の路地に足を踏み入れた瞬間、遠くでサイレンが鳴った。消防車だ。倉庫の火災に駆けつけたのだろう。あの炎の中に、名前も聞けなかった男が横たわっている。神崎に情報を届けるためだけに、命を賭けた男が。
その命を無駄にはしない。
住宅街の暗い道を、影のように進む。足音を殺し、角を曲がるたびに背後を確認する。追手の気配はまだない。だが油断はしない。アスファルトの冷たさが靴底を通して伝わってくる。どこかの家から漏れるテレビの音声が、やけに遠い世界のもののように聞こえた。
頭の中で、横須賀までのルートを組み立てていた。鉄道は使えない。駅にはカメラがある。車も借りられない。身分証がない。徒歩と、場合によっては——別の手段を考える必要がある。
まず、生き延びる。次に、土屋を見つける。そしてあの空白を埋める。
夜明けはまだ遠い。だが闇の中にこそ、動ける時間がある。