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後宮冤罪侍女の推理譚

第1話 第1話

第1話

第1話

水の冷たさには、半年で慣れた。指先の感覚がなくなることにも、爪の間に染み込んだ灰汁の匂いが取れないことにも。慣れないのは、人の目だけだった。

洗濯場は後宮の最も奥、北壁に沿った細長い建物にある。日当たりは悪く、冬でもないのに石床から冷気が立ち上る。天井の梁には黒い染みが幾筋も走り、雨の日には黴の匂いが鼻の奥にまとわりつく。窓は高い位置に小さく一つだけ。そこから差し込む光は細く頼りなく、昼でも手元に影が落ちた。私——玲華は、その片隅で正妃付きの衣を絞っていた。皮肉なものだと思う。かつて自分が仕えていた方の衣を、今は泥水の中で揉んでいる。絹の肌触りを知っている指が、灰汁に浸された麻布の粗い繊維を掴む。指紋の一本一本に染み込んだ記憶が、そのたびに軋んだ。

「玲華、そっちの籠も頼むよ」

洗濯番の老女・周婆が顎で示した先には、山と積まれた下衣の籠がある。私は黙って頷き、手を伸ばした。周婆は数少ない、私に普通の声で話しかけてくる人間だった。同情ではない。単に人手が足りないだけだ。それでも、ありがたかった。

籠を引き寄せたとき、渡り廊下を二人の侍女が通りかかった。正妃付きの装束。見覚えのある横顔——以前、同じ房で寝起きしていた春燕と、もう一人は名前を思い出せない新参の娘だった。

春燕の視線が一瞬こちらに触れ、すぐに逸れた。まるで汚いものを見たように、袖で口元を覆いながら足早に去っていく。新参の娘が小声で何か訊ね、春燕が答える声の断片が風に乗った。

「——あれが、香料庫の」

それだけで十分だった。盗人。半年前、香料庫から高価な沈香と麝香が消えた夜、私の衣箱から沈香の欠片が見つかった。弁明の機会はほとんど与えられなかった。侍女頭の鄭氏が証拠を差し出し、宦官長が裁きを下し、私はその日のうちに洗濯場へ送られた。あの夜の記憶は今でも鮮明だ。鄭氏の細い指が衣箱の蓋を開けたとき、沈香の欠片が燭台の光を受けて鈍く光った。私は一瞬、自分の目を疑った。それから全身の血が引いていくのを感じた。あれは私のものではない——そう言おうとした唇は、周囲の視線の重さに押し潰されて、声にならなかった。

盗んでいない。だが、それを証明する術を私は持たなかった。

手の中で布を絞る。力を込めすぎて、指の関節が白くなった。冷水に沈めた両手が、じんと痺れる。この痺れを毎朝感じるたびに思い出す。私はかつて、正妃の御前で香を焚き、衣の香りを整え、髪に簪を挿していた。指先は絹と白檀の感触を覚えていて、それが今の灰汁と冷水との落差を、いっそう残酷に際立たせる。

日が傾き始めた頃、洗い物を干し終えた私は、裏手の井戸で手を洗っていた。

後宮の夕暮れは静かだ。東の妃嬪たちの棟から琴の音がかすかに聞こえ、炊事場の方角からは夕餉の支度の気配が漂ってくる。油で炒めた葱の香り。それに混じって、微かに甘い——桂花の残り香だろうか。正妃の棟の庭には桂花の老木があった。秋になると小さな橙色の花が枝を埋め尽くし、風が吹くたびに甘い香りが衣にまで染みた。あの木の下で正妃に茶を運んだ午後を覚えている。正妃は花を見上げて、「この香りが一番好き」と微笑んだ。穏やかで、静かな方だった。あの香りの中で働いていた日々が、もうずいぶん遠い。

「盗人の玲華」。その呼び名は、半年の間に後宮の隅々まで行き渡った。食堂で隣に座る者はいない。廊下ですれ違えば、相手が道を変える。最初の頃は怒りが湧いた。やがて悲しみに変わり、今では何も感じなくなった——と思いたかったが、春燕の袖で覆われた口元を見たとき、胸の奥が軋んだのだから、嘘だろう。周婆と、それから時折様子を見に来る小蘭を除けば、私に言葉をかける人間はいなかった。

小蘭。あの子だけが、左遷の日に泣いてくれた。「玲華姉さんは盗んでいない。私は知っている」と。若い娘の涙は何の力にもならなかったが、あの言葉が半年間、私の背骨を支えていた。

井戸の水面に映る自分の顔を見下ろす。二十二の歳にしては頬がこけた。陽に焼けて、かつての白い肌は見る影もない。だが目だけは変わっていないと思う。観察する目。些細な違和感を見逃さない目。正妃付きの侍女として香を調合していた頃に身につけた、香りと色のわずかな差異を嗅ぎ分ける感覚は、洗濯場でも鈍ってはいなかった。今朝も洗い物の中に、いつもと違う香の匂いが混じった肌着を見つけて、無意識のうちに香の種類を同定しようとしている自分がいた。白檀ではない。龍脳に似ているが、もう少し甘い。意味のない習性だと分かっていても、指が覚えている技術は勝手に動く。

もっとも、その力を使う場面など、もう来ないだろうと思っていた。

——異変が起きたのは、その夜だった。

戌の刻を過ぎた頃、洗濯場の薄い壁越しに、遠くから叫び声が聞こえた。一つではない。複数の声が重なり、慌ただしい足音が石畳を叩く音が続いた。

周婆が寝台から身を起こし、耳を澄ませた。

「騒がしいね。正妃様の棟の方だ」

私も耳を傾けた。声の方角は間違いなく東棟——正妃の居所だ。ただの騒ぎではない。あの切迫した声の質は、誰かが倒れたときのものだった。胸の奥で、何かが強く脈を打った。正妃付きの侍女として三年を過ごした身体が、緊急時の空気を覚えている。あの声の震え方、足音の乱れ方——それは儀礼の失敗や些細な揉め事のときとは、明らかに違っていた。

しばらくして、使い走りの小宦官が洗濯場の前を駆け抜けていった。私は戸口から顔を出し、声をかけた。

「何があった」

小宦官は足を止めもせず、振り返りざまに叫んだ。

「正妃様が倒れた! 夕餉の最中に——」

それだけ言い残して、闇の中に消えた。

正妃が、倒れた。

私は戸口に立ったまま、東棟の方角を見つめた。灯りがいくつも揺れている。人が走る影が、渡り廊下を右へ左へ横切っていく。夜風が頬を撫で、微かに桂花の香りを運んできた。その甘さが、今は不吉に感じられた。

周婆が背後から言った。「あんたにゃ関係ないことだ。戻って寝な」

その通りだった。盗人の侍女に、正妃の一大事は関係ない。私は戸を閉め、薄い布団に潜り込んだ。だが目は冴えたまま、天井の染みを見つめていた。暗闇の中で、正妃の穏やかな横顔が浮かんでは消えた。あの方は、私が左遷されたとき何も仰らなかった。庇いもしなかったが、責めもしなかった。ただ静かに目を伏せていた。——あの沈黙の意味を、私はまだ量りかねていた。

翌朝、後宮は蜂の巣を突いたような騒ぎだった。

断片的な情報が、洗い物を届けに来る下働きの口から漏れ聞こえてくる。正妃は意識不明の重体。夕餉の食膳に毒が混入されていた。典医が胃の内容物を調べ、毒物の存在を確認した。そして——配膳に関わった侍女四名が、宦官長の命で拘束された。

四名。その数を聞いたとき、私の手が止まった。

洗い桶の中で布が沈む。水面に波紋が広がり、やがて静まる。

四名全員が拘束された、ということは、四名の中に犯人がいると見なされているということだ。配膳の手順を考えれば妥当な判断ではある。だが——

「四人とも、潔白を主張してるらしいよ」

下働きの娘が、声を潜めて言った。周囲を気にするように首を巡らせてから、私の耳元に顔を寄せた。

「それどころか、毒を入れられる時間には全員、別の場所にいたって言い張ってるんだって。四人ともよ。で、それぞれの証言を裏付ける人もいるって」

四人全員に、アリバイがある。

その言葉が、胸の奥で何かに触れた。古い傷の上を、冷たい指でなぞられたような感覚。

半年前。香料庫の盗難事件。あのときも、そうだった。関係者全員の行動が綺麗に説明され、誰にも隙がなく、にもかかわらず盗難は起きていて——そして最終的に、最も立場の弱い者に罪が落ちた。私に。

完璧すぎるアリバイ。整いすぎた証言。

それは自然にできるものではない。誰かが設計しなければ、あの隙のなさは生まれない。

私は知っている。身をもって知っている。

洗い桶の水が冷たい。だが、指先の痺れとは別の震えが、背筋を這い上がっていた。水の底に沈んだ布が、揺らめきながらゆっくりと広がる。その動きを見つめる目が、半年ぶりに何かを捉えようとしていた。観察する目——封じていたはずのその目が、自分の意思とは無関係に、覚醒しつつあった。

——あの構造と、同じ匂いがする。

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