第2話
第2話
朝の洗濯場には、普段とは違う足音が絶え間なく入り込んでいた。下働きたちが小走りに渡り廊下を往復し、桶を置く音と盆を重ねる音が乱れている。周婆が舌打ちして籠を積み直した。私は灰汁の壺の前で、取っ手の柄を握ったまま、戸の外の気配に耳を澄ませた。朝からこれだ。昨夜の正妃の一報以来、後宮は一晩中まともに眠っていない。
「宦官長様が自ら出張られたそうだよ」
洗い物を置きにきた下働きの女が、息を切らして言った。
「徐明様が、四人を一人ずつ別の房に分けて尋問するって。朝から既に二刻は続いてるって話だ」
徐明。その名を聞くのは半年ぶりだった。私を洗濯場へ送った裁きの場で、机の向こうに座っていた人である。痩せた頬、冷たい目、感情の読めない声。あの方は疑念を表に出さない代わりに、一度決めたことは撤回もしない。半年前、私はその目の前で自分の無実を訴える機会を、ほとんど得られなかった。
桶に張った水面に、高窓から差し込む光が細く揺れている。私は一度その揺れを見てから、指を沈めた。冷気が指先から骨まで登ってくる。この痺れだけが、今朝の現実を繋ぎ止めている気がした。胸の内側では、別の熱が静かに燻っていた。
「拘束された四人、誰だい」
周婆が訊く。下働きの女は周囲に人気のないことを確かめてから、声を落として四つの名前を並べた。
翠蘭。小蘭。芳月。紅花。
私の手が、水の中で止まった。
小蘭。
その名を口の中で繰り返すと、舌の奥が乾いた。半年前、私のために涙を流したあの子が、容疑者の一人として拘束されている。正妃付きの配膳役を任されるほどに働きが認められていたことは、風の噂で聞いていた。祝ってやれない立場のまま、私はそれを遠くで受け取っていた。——だが、その名の並びそのものよりも、私の頭を強く打ったのは「四人」という数だった。
下働きの女は、声を一段落として続けた。厨房から漏れた話が、洗濯場まで流れ着いてきていた。
翠蘭は年長の侍女で、薬草の扱いを心得ている。正妃の喉の弱りに薬湯を調えることが多く、毒物の知識という点では四人の中で最も疑わしいと見られているらしい。だが本人は、事の起きた時刻には後宮の外れの薬草園で侍女頭・鄭氏と話していたと言い、鄭氏もそれを裏付けた。
芳月は新参で、正妃の寵愛を一身に受けている。夕餉の少し前まで正妃の袖に刺繍を施しており、花弁の染色について二人きりで意見を求められ、配膳の時刻には自房で針を片付けていた。房に入る芳月を見た者が二人いるという。
紅花は古参の、口の重い女だった。私が正妃付きだった頃にもすれ違ったことがあるが、ほとんど声を聞いた覚えがない。紅花は配膳前後に炊事場から奥庭へ薪を運んでおり、炊事場の宦官が顔を見ていた。
そして、小蘭。
小蘭は配膳の直前、厨房から正妃の卓までの渡り廊下を盆を捧げて歩いただけだ、と言い張っているらしい。廊下で翠蘭と一度すれ違い、互いに黙礼して別れた。翠蘭もそれを認めた。
「つまり、四人とも誰かしらに見られてて、その相手の証言も噛み合ってるんだと。こんなに綺麗に揃うなんて、あたしゃ聞いたことがない」
下働きの女はそう言って、首を振った。
私は洗い桶の縁に指をかけ、湯気の立たない冷水の中で布を広げ直した。麻布が水を吸って、ゆっくりと沈んでいく。その動きを見つめながら、頭の中で四人の証言を並べた。
——翠蘭、薬草園で鄭氏と。 ——芳月、正妃の傍で刺繍、その後自房。見た者二人。 ——紅花、炊事場と奥庭の間で薪運び、宦官が目撃。 ——小蘭、渡り廊下で翠蘭とすれ違う。
妙だ、と思った。一つ一つは別段珍しい証言ではない。だが四人が四人とも、誰かと動線が重なり、互いを証人として利用できる位置にいた——それが揃いすぎている。
配膳の手順を思い出す。正妃の食膳は厨房で盛り付けられ、毒見役が一口含み、次に配膳の侍女が盆を正妃の卓まで運ぶ。厨房から卓までの動線は渡り廊下一本。その間に毒を混入できる機会は、極めて短い。機会が短いということは、犯人が動ける時間もまた短時間のはずだ。にもかかわらず、四人全員がその短い時間に、別々の場所で、別々の人物と噛み合って動いていたと言っている。
可能なのか。
理屈の上では可能だ。五人目がいれば。だが捜査は、四人の中から犯人を選ぶ前提で進んでいる。
「玲華、手が止まってるよ」
周婆に声をかけられて、私は我に返った。指先が冷たさを超えて痛くなっている。引き上げた布から水が滴り、石の床に落ちて小さく弾けた。その音が、耳の奥で妙に大きく響いた。
「すみません」
声が掠れた。慌てて別の布に手を伸ばしたが、指がうまく閉じない。握っているつもりなのに、滑る。灰汁の匂いの向こうから、古い記憶が滲み出てきた。
半年前のあの夜も、そうだった。
指が震えて、簪が持てなかった。正妃の髪を結い終え、衣箱を開けるまでの、あの数歩。その数歩を、私は何度も頭の中で歩き直した。私は盗んでいない。私の手は何も盗らなかった。沈香の欠片がなぜあの箱の底にあったのか、私は今も知らない。
そして——あのとき鄭氏が並べた証言の列も、今朝聞いたものとよく似ていた。
香料庫の盗難が発覚した夜、関係者の動きは整然と語られた。誰がどこにいて、誰と話し、誰に目撃されたか。鄭氏はそれを淀みなく述べ、宦官長は頷いた。私だけが、「私は香料庫の傍に近寄っていない」と主張する他なかった。証人はいなかった。私が一人で衣箱を拭いていた時刻、たまたま誰も私を見ていなかった。
——誰かと動線が重ならない者が、一人だけ。
あの夜の構造を、私は覚えている。他の者が互いに裏付け合い、一人だけがその網の外に残される。残された者の無実は、構造上、証明できない。盗人の烙印は、そこに落ちる。
今朝の四人の証言は、ちょうど逆の形に見えた。四人が互いに裏付け合い、網の外に残された者がいない。
だとすれば、どうなるか。
配膳に関わった者が四人きりのはずはない。厨房の宦官、毒見役、正妃の傍にいた女官、渡り廊下を横切った雑用——その誰かは、四人のアリバイを裏付ける証人の位置にいる。証人の位置にいながら、四人の動線の隙間を知っている者。四人の証言が「綺麗に揃う」よう差配できる者。
そこまで考えて、私は息を止めた。
そんなことを考える権利が、私にあるか。洗濯場の盗人に。
だが、止められなかった。布を絞る手が勝手に動き、頭の中には後宮の略図が描かれていく。渡り廊下、薬草園、炊事場、正妃の卓。四人が配置され、その間を見えない第五の線が繋いでいる。
「もう一つ、聞いてない話はあるかい」
周婆が何気なく下働きの女に訊ねた。女は声を更に一段落として、
「——証言を裏付けてる一人に、侍女頭の鄭氏がいるってさ」
指が、また止まった。
鄭氏。半年前、私の衣箱を開けた手。沈香の欠片を取り上げ、宦官長に差し出した、あの細い指。その指が今朝は、翠蘭のために薬草園にいたと証言している。
偶然かもしれない、と自分に言い聞かせた。侍女頭は後宮のあちこちに顔を出す。あの人が証言台に立つこと自体は、不自然ではない。だが、この符合は胸の奥で冷たい針のように刺さって、抜けなかった。
私は冷水の中から手を引き上げ、濡れた指で眉間を押さえた。灰汁の匂いが鼻を打ち、目の奥に青い光が散った。布を絞る動きを止めたまま、壁を見つめる。黒い染みが走る梁の下で、半年前に殺したつもりでいた感覚が、勝手に身を起こしつつあった。
観察する目。並べて比べる目。
これはただの一致ではない。整いすぎた証言、網の外に残らない者、そしてあの細い指。——半年前に私を網の外へ追い出した構造が、今度は網の中で誰かを犯人に据えるために、裏返しに組み直されている。そんな匂いがする。
戸口の外で、また足音が複数、東棟の方角へ駆け抜けていった。正妃はまだ目を覚まさない。小蘭は今、尋問房の一室に押し込められている。
私は布を桶の縁に掛け、指の水気をゆっくりと拭った。
気づかなければよかった、と思った。だが、もう気づいてしまっていた。
——同じ手が、触れている。