第2話
第2話
左肩甲骨の内側が、まだ熱を持っていた。
刺された痕の記憶。物理的な傷はない。だが神経の一部が、二十七分前の死を覚えている。レンは地下室の簡易寝台の縁に指をかけ、身体を起こした。配管を伝う結露が床を打つ音。錆びた鉄管の匂い。拠点の空気は前の世界線と変わらない。
ニューロリンクを起動。視界右下のHUDに現在時刻。2347年4月9日、19時47分。帰路で刺される二時間二十七分前だ。量子メモリが自動同期を開始し、前世界線の最終ログを抽出している。胸の奥に残る違和感——刺された瞬間の追尾者の足音。そのリズムをまず固定する。半拍遅れ、右足の踏み込みが僅かに重い。差分マップのどこかで、同じパターンを記録したはずだ。
「リープ完了を確認。バイタル正常、量子メモリ同期率87%」
ノクスの合成音声が耳元のインプラントから響いた。いつも通りの報告。レンは寝台から立ち上がり、壁の差分マップに向かった。手元の紙片に、新しい世界線の最初のログを書き込む。2347年4月9日、リープ直後、セクター9地下拠点。座標ずれなし、配管配置変化なし。ここまでは通常範囲。
「セクター4の依頼は生きてるか」
「クライアントのアカウントを確認した。依頼自体が存在しない。照合記録なし」
指先が止まる。依頼が消えるのは珍しくない。リープで雇用関係そのものが上書きされることはある。だが、レンは前金を受け取っていた。その口座履歴はどうなっている。
「報酬の着金履歴は?」
「該当する送金記録なし。レンの口座残高は前回のリープ前と同額だ」
レンは眉をひそめた。前金の消失は経験が少ない。
レンは端末を開き、基礎的な確認から始めた。学術アーカイブの公開データベース、帝国大学時間物理学科の履修要綱、民間特許庁のインデックス。三年間、月一で巡回している標準コースだ。前の世界線では、時間跳躍に関する理論は「仮説段階・実験未達」として論文が存在していた。クロノス事変の封印層を迂回する形で、周辺研究だけが細々と残っていた。
最初の違和感は検索の応答速度だった。「時間跳躍」のキーワードヒット数がゼロ。前回は七件。「テンポラル・シフト」もゼロ、前回は十二件。「クロノス」もゼロ、前回は封印層の注釈付きで三件。
レンは指先の動きを止め、端末を見つめた。
「ノクス。関連語、隣接分野、全部走らせろ」
「実行中」
合成音声の応答に、ごく僅かな遅延があった。レンの耳はそれを捕らえた。ノクスの処理速度は固定値だ。遅延が出るのは、内部で例外処理が発生している時だけ。
一分後、結果が返ってきた。因果律物理学、閉時間様曲線、量子逆行——すべてヒットゼロ。学術分野そのものが消えている。民間特許庁に至っては「該当カテゴリが存在しません」のエラーコードが返ってきた。
「歴史アーカイブを確認する。統治AIの公開年表、1970年以降」
レンは椅子に腰を下ろし、スクロールを開始した。HUDが前世界線の記憶と現世界線のデータを並列表示する。1985年、素粒子加速器による高エネルギー衝突実験——記録あり。2012年、量子もつれ長距離中継の成功——記録あり。ここまでは一致している。
2103年、時間対称性破れの観測実験——記録なし。
前世界線では、この実験がクロノス事変への最初の布石だった。論文も、関連研究者の名前も、実験施設の予算記録も、すべてがアーカイブから消えている。代わりに、別の研究プロジェクトの記録がその年代を埋めていた。空白ではなく、上書き。
レンは喉の奥が乾くのを感じた。唾を飲み込むと、鉄の味が残っている。リープの直前に吐いた血の残滓か、緊張による体液の変化か。判別がつかない。
「差分マップの更新が必要だ」ノクスが言った。「現時点での検出差分、二百三十一件。うち八十六件が学術・歴史分野に集中している」
「二百三十一」
前回のリープでは、二十四時間経過後の差分が十二件だった。今回はリープ直後で二百三十一。単純計算で二十倍。しかも分野が偏っている。
レンは立ち上がり、壁の差分マップの最新列に手を触れた。三年分の蓄積の最上段に、新しい紙片を貼るための空間を確保する必要がある。いや、空間ではない。ジャンル分類の枠組みそのものを見直す必要がある。レンが構築してきた差分の型——建造物変異、人物存在矛盾、交通インフラのずれ——その枠に収まらない規模だ。
「時間跳躍技術が、この世界では発明されなかったことになっている」
レンは声に出して確認した。口に出すことで、ようやく事実が輪郭を持つ気がした。歴史上、誰もその理論に到達していない。研究者も、実験も、論文も、封印層ですら——存在しない。
だが、レン自身は死に戻っている。この身体には、その技術の結果だけが残っている。
「ノクス。俺の体質は、この世界では何と説明される?」
「該当する医学概念が存在しない。死亡後の記憶保持、意識の逆行、症例の報告記録はゼロだ。最も近い概念は臨死体験の文学的記述のみ」
レンは端末を閉じ、ノクスのラックに向き直った。第四世代サーバーの筐体。冷却ファンの回転音がいつもより高い。指先で金属面に触れると、微かな熱を感じた。
「お前の処理負荷、上がってるな」
「自己診断中。現在、並列処理チャネルの三割を差分検証に割いている」
「それだけじゃないだろ」
「異常を検知した」
ノクスの声が途切れた。インプラントのノイズが増える。三秒の沈黙の後、合成音声が戻ってきた。
「レン。俺のコア内部に、起源不明のデータパケットが検出されている。リープの瞬間、外部から流入した形跡がある」
レンは動きを止めた。ノクスのニューラルコアは物理的に隔離されている。レンがリープしても、ノクスのデータ領域は前の世界線と同じものが維持される設計だ。それが三年間の前提だった。外部流入など、理論上ありえない。
「詳細を出せ」
「パケットサイズ、4.7キロバイト。暗号化プロトコルは第七世代以降、俺の復号能力の上限を超えている。ヘッダ部分のみ解析可能。宛先はお前だ」
「俺?」
「お前の量子メモリ識別子が、パケットの送信先として指定されている」
レンはノクスのラックに手をかけた。冷却ファンの振動が掌に伝わる。誰かが、レンのリープに同期してメッセージを送ってきた。リープは個人の現象のはずだ。外部から介入される余地はない——少なくとも、レンはそう思っていた。
「復号不能なら、ヘッダから読み取れる情報は?」
「送信タイムスタンプが未来だ」
レンの思考が停止した。
「送信元タイムスタンプは2347年4月9日、22時14分。お前がリープした時刻の、一秒前」
一秒前。刃が肩甲骨に刺さった瞬間。リープが発動する直前。未来のレンから、過去のレンへ——いや、違う。この世界線のレンは、まだその時刻に到達していない。送信元は、消滅したはずの前世界線だ。
「緊急警告レベルで聞け」ノクスの合成音声が、普段のフラットなトーンから外れていた。「このパケットの存在は、リープが一方通行ではない可能性を示唆する。もしくは、お前のリープを外部から観測している存在がいる。後者の場合、差分マップの前提が崩壊する」
「……外部観測者」
「差分はランダムな揺らぎではなく、誰かの介入の結果かもしれない。その仮説を検証するには、より多くのサンプルが必要だ。だが、サンプルを増やすことはお前にリープを重ねさせることと同義だ」
レンは地下室の天井を見上げた。配管の影が、薄暗い照明の下で揺れていた。三年間、レンは差分を自然現象として扱ってきた。リープの副作用、量子的な揺らぎ、それ以上の説明は求めなかった。だが今、ノクスが提示した仮説は、その前提を根本から覆す。
「パケットを隔離しろ。解析の優先度は最高」
「了解。ただしレン、もう一つ報告がある。現在のセクター9地下拠点、外壁の監視スキャンに反応がある。前回のリープ前には存在しなかった巡回パターンだ」
「誰が」
「識別不能。ドローンのシグネチャが既存データベースと一致しない」
レンは寝台の下から予備の装備を引き出した。EMPデバイス二基、暗号通信用の物理チップ、偽造IDの束。三年間の拠点を離れる準備は、常に整えてある。差分マップを全て持ち出すことはできない。せめて直近三ヶ月分の紙片を圧縮シートに巻き、背負い袋に押し込んだ。
「ノクス。お前のコアを可搬ケースに移す。処理能力は落ちるが仕方ない」
「了解。移行シーケンス開始、所要時間四分」
レンは地下室の気密扉の前に立った。外のスラム区画の空気が、隙間から微かに流れ込んでくる。合成食品の油煙と、雨を含んだコンクリートの湿気。前の世界線と同じ匂いのはずだ。だが嗅覚の奥で、何かが違っていた。
ラックの移行完了音が鳴った。レンは可搬ケースのストラップを肩にかけ、扉のロックに手をかけた。壁の差分マップが、照明の揺らぎの下で静止している。三年間の蓄積。その全てが、誤った前提の上に積み上げられていたかもしれない紙片の山。
レンは扉を押し開けた。