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差分マップの少年

第3話 第3話

第3話

第3話

可搬ケースのストラップが、レンの右肩に食い込んでいた。

重量は十一キロ。ノクスのコアと冷却ユニット、予備電源。三年間ラックに固定されていた機体を運搬仕様に組み直したばかりで、均衡の取り方がまだ身体に馴染まない。排水制御室から続く旧インフラのトンネルを、レンは腰を落として進んだ。天井までの高さは一メートル六十二センチ。膝と肩が交互にコンクリートの縁を擦り、布越しに粉塵の匂いが立ち上った。鼻の奥で石灰と古い錆が混ざる。喉に絡むような埃の粒が、一歩進むごとに舌の裏に沈んでいく。

「外部パケットの復号、進捗七%」

可搬ケースの外装スピーカーから、ノクスの合成音声が響いた。ラック設置時より高音域が削げている。移行中に減衰した出力帯域だ。

「そんなもんか」

「第七世代以降の暗号を、第四世代のコアで解く作業だ。全容解析には推定七十三時間を要する」

レンは応えず、トンネルの分岐を右に取った。三百メートル先に旧下水口の出口がある。そこからスラム区画の北端、ドック跡地に抜けられる。前の世界線で記録したルートだ。差分が発生していなければ、という条件付きで。

「レン」

ノクスの声がやや沈んだ。

「復号とは別に、バックグラウンドで進めていた演算がある。お前のリープ履歴と今回の差分規模の統計処理だ。結果が出た」

「続けろ」

「拠点を出る前に、座って聞くべきだ」

レンは足を止めた。汗が首筋を伝い、鎖骨の窪みに溜まっていた。可搬ケースを下ろすと、コンクリートの冷たさが指先から伝わってくる。靴底の下で小石が乾いた音を立て、その響きがトンネルの奥へ吸い込まれていった。

「ここで聞く。歩きながらは嫌か」

「お前の判断を鈍らせたくない」

合成音声のトーンが、フラットから一度だけ跳ねた。三年間、ノクスがこの言い方をした記憶が、レンの量子メモリにはない。微細なピッチの揺らぎ。機械が選択した配慮の形が、逆にレンの背筋を冷やした。

レンはケースの上に腰を下ろした。トンネルの湿気が、ジャケットの背中を冷やしていく。ニューロリンクを起動し、視界の右下にノクスの解析ウィンドウを展開させた。網膜に投影された半透明の座標軸が、暗がりの中で微かに脈打つ。

「過去三十七回のリープを対象に、差分発生量と分布パターンを解析した。単純化して言えば、一回のリープで増える因果律の分岐点の数を、時系列で並べた」

HUDにグラフが浮かぶ。横軸がリープ回数、縦軸が差分件数。最初の数回は緩やかな右肩上がり。途中から傾きが急になる。直近の二回——前世界線から今回——の間で、曲線は垂直に近い勾配で跳ね上がっていた。

「十八回目以降、増加率が指数関数に入る。数学的には、お前のリープが一回発動するたびに、次のリープで書き換わる世界線の範囲が、平均2.3倍に広がっている」

「2.3倍」

「それだけじゃない。もう一つ計算した。お前がリープを一度も発動しなかった場合の、この世界線の因果律分岐点の推定値」

「推定できるのか」

「隣接世界線の背景値から外挿した。結論から言う。リープを発動しない場合の分岐点増加率は、実測値の0.04%だ」

レンは喉の奥で息を止めた。舌先が乾き、奥歯がわずかに噛み合う音を立てた。

「0.04%ってのは」

「ほぼゼロ、という意味だ」

可搬ケースの筐体が、僅かに熱を帯びていた。指先に伝わる温度。冷却ファンが高速で回っている音。ノクスは、この結論を出すために膨大な処理を走らせている。筐体の微細な振動が、太腿の裏からレンの尾骨まで伝わってきた。

「もう一度言う」ノクスが続けた。「お前のリープ体質が存在しない場合、この世界線の差分はほぼ発生しない。つまり、現在お前が観測している差分の99.96%は、お前自身のリープが発生源だ」

「——待て」

レンは身を乗り出した。トンネルの壁に肩が当たり、コンクリートの粉が袖に付着した。粉の白が暗がりの中でぼんやり浮かび、自分の輪郭すら曖昧に見えた。

「差分はリープの副作用だろ。副作用の大きさを測ってるだけで、原因が俺だって話にはならない」

「副作用と震源は、物理的に区別がつく」

ノクスの返答には、一秒の遅延もなかった。

「副作用なら、差分はリープの経路上にランダムに分布する。だが実測データは違う。お前のリープのたびに、差分は特定の座標群に収束していく。その収束点は、過去三十七回とも一致している」

「収束点」

「詳細は次のブロックで提示する。今重要なのは、お前のリープが単なる物理現象じゃないってことだ。差分の増殖は、お前自身を震源として同心円状に広がっている」

レンは立ち上がった。可搬ケースのストラップを掴み直し、トンネルの壁に背を預ける。呼吸が浅くなっているのを自覚した。胸郭が狭くなり、肋骨の内側で心臓が拍動を早めている。耳の奥で自分の血流が鳴っていた。遠くで走る貨物ラインの振動なのか、それとも自分自身の鼓動なのか、区別がつかなかった。

「仮説段階の数字だろ。三十七回分のサンプルで、外挿の精度なんて」

「差分ログを三次元で見ろ」

HUDの表示が切り替わった。レンの目の前に、三年間の差分マップが空間配置で再構成される。紙片を壁に並べたときには気づかなかった構造が、立体の中で浮かび上がっていた。数百点の差分が、ひとつの中心点に向かって環状に分布している。時系列を重ねると、環の半径はリープのたびに拡大していた。

そして中心点の座標は——レンが今さっき出てきた地下拠点だった。

「三年間、俺たちが記録してきた差分は、お前の身体を原点とする球面上に分布している。半径はリープ回数に比例して拡大。副作用の分布じゃない。衝撃波だ」

「衝撃波」

「比喩として使った。お前のリープは、世界線に対して圧力を加えている。その圧力が伝播して、因果律の接合部を剥がしていく。剥がれた部分が再結合するときに、歴史の細部が書き換わる」

レンは自分の手のひらを見下ろした。コンクリートの粉が付着した指先。汗の滲んだ掌紋。十七年間、この身体を人間のものだと思ってきた。だが目の前の解析結果は、この身体を世界線の破壊装置として定義している。掌の中央に、微かに脈打つ何かがある気がした。錯覚だとわかっていても、視線を外せなかった。

「……今回の差分、二百三十一件」

「計測値の99.96%の範囲に収まる」

「時間跳躍技術が歴史から消えたのも、俺のせいか」

「統計的にはそうなる」

反論の言葉を探した。だが量子メモリには、ノクスの解析を覆せるデータがない。三年間、差分マップを作り続けてきたのは、リープの副作用を外側から観察するためだった。観察者のつもりでいた。だが解析結果が示しているのは、レン自身が観察対象の中心だという事実だ。自分が地図を描いていたのではない。自分という一点から、地図そのものが勝手に拡がっていたのだ。

「前世界線の依頼が消えたのも」レンは呟いた。「俺がリープしたから、俺と依頼者を繋ぐ因果律が剥がれた」

「可能性が高い」

「セクター7の食品加工プラントが駐車構造体になったのも、セクター4の死者が生者だった記録も、学術アーカイブから時間跳躍理論が消えたのも」

「全部お前のリープが引き起こしている」

ノクスの合成音声は平板だった。判決を読み上げる裁判官のような声色。告発者と弁護人が同じ機体に同居し、片方が黙ったまま結審したような静けさだった。

レンは壁に背を預けたまま、ゆっくり床に座り込んだ。可搬ケースが膝の横で低い駆動音を立てている。トンネルの天井から、水滴が一定のリズムで落ちていた。前回のリープ前にはなかった音だ。この水滴も、レンが引き起こした差分のひとつかもしれない。滴の音が耳の奥で増幅され、やがて自分の脈拍と同期しはじめた。

口を開こうとして、声が出なかった。喉の奥に、鉄の味が戻ってきていた。刺された記憶ではない。もっと深い場所から、内臓がせり上がるような感覚だった。胃の底で何かが捩れ、背骨を伝って後頭部まで冷たい電流が走る。

「レン。もう一つ、解析で浮かんだ仮説がある。提示は現段階では控える。次の処理サイクルで精度が上がる」

「言え」

「お前の精神負荷が高い状態で扱う話じゃない」

「いいから言え」

三秒の沈黙。水滴が三度、床を打った。その三度の間に、レンは自分の呼吸が止まっていたことに気づいた。

「お前のリープは、時間逆行じゃない可能性がある。別の機構が働いている。詳細は解析後に提示する」

レンは顔を上げた。トンネルの先、旧下水口の鉄格子の向こうに、ドック跡地の微かな光が見えていた。夜明け前のスラム区画から漏れる、歪んだネオンの残光。赤と青が滲み、鉄格子の錆と混ざり合って、血管のような模様を描いていた。

可搬ケースのストラップを肩にかけ直し、レンは立ち上がった。膝の関節が軋む。震源であるという事実を、身体はまだ消化できていない。それでも歩く以外に選択肢はなかった。トンネルの奥へ、光の方へ。

一歩踏み出した瞬間、ノクスが告げた。

「警告。ドック跡地、未知のドローン反応を検知」

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