第3話
第3話
ICレコーダーを再生したのは、翌日の昼だった。
結局、夜には怖くて押せなかった。朝になっても押せなかった。昼食のカップ麺にお湯を注いで三分待つあいだに、ようやく指が動いた。湯気の匂いが鼻を満たしている今なら、あの腐臭が蘇ってきても耐えられると思ったのだ。
再生ボタンを押す。イヤホンから流れてきたのは、静寂だった。
私の呼吸。かすかな衣擦れ。遠くの換気扇。それだけが延々と続く。タイムスタンプを確認しながら早送りする。一時十二分——あの人影が歩き始めた頃だ。
足音は、やはり録れていなかった。
当然だ。現場で聞こえなかったのだから。録音にだけ残るはずがない。けれど逆に言えば、足音の不在が記録として残ったことになる。静寂の中を何かが歩いていた。その証拠。
早送りの指を止めた。一時十四分三十秒。私が走り出す直前のあたり。
ノイズの中に、何かが混じっていた。
低い音だった。呻きとも、呟きとも違う。人の声のようでいて、もっと湿った、喉の奥で水が詰まるような音。言葉になりかけて崩れるような、そんな音が二秒ほど続いて、途切れた。その直後に私の靴音が爆発し、録音は荒い呼吸で終わっていた。
三回聴き直した。三回とも同じ音が聞こえた。幻聴ではない。
カップ麺は伸びきっていた。食欲は消えていた。
そのとき、スマホが鳴った。
ゼミのグループチャット。普段は課題の愚痴やゼミ飲みの日程調整くらいしか流れてこないそこに、見慣れない名前のメッセージがあった。同じゼミの田辺。桜ヶ丘の取材で、目撃者を一人紹介してくれた子だ。
『詩織、桜ヶ丘で取材した人のこと覚えてる? 佐伯さん。裏路地のアパートの人』
覚えている。五人目の目撃者。四十代の男性で、犬の散歩中に人影を見たと語った人だ。口数は少なかったが、証言は具体的だった。足音がなかったこと。匂いのこと。他の四人と同じことを、淡々と話してくれた。
『入院したらしい。原因不明だって。佐伯さんの隣の部屋の人がうちのバイト先の常連で、聞いた』
指が止まった。画面を見つめたまま、数秒間、何も考えられなかった。
『どこの病院?』
送ってから、なぜ自分がそう聞いたのかわからなかった。見舞いに行く義理はない。取材で一度会っただけの相手だ。
田辺が病院名を送ってきた。大学から二駅の総合病院。知っている場所だった。
行くべきではないと思った。行ったところで何もできない。私は医者ではないし、民俗学の学生だ。都市伝説と入院に因果関係があるなんて、まともな人間の考えることではない。
三十分後、私は病院のロビーにいた。
面会受付で佐伯の名前を書いた。関係を聞かれて、一瞬詰まった。「知人です」と答えた。受付の女性は特に疑いもせずに病室の番号を教えてくれた。四階、四一二号室。
エレベーターの中で、消毒液の匂いが鼻を刺した。病院特有の、清潔で無機質な匂い。あの腐った甘さとは正反対の。
四階の廊下は静かだった。ナースステーションの前を通り過ぎるとき、看護師が二人、声を落として何か話していた。聞き取れなかったが、四一二の方角をちらりと見たような気がした。
病室のドアは半開きだった。
ノックをして、返事を待った。返事はなかった。隙間から覗くと、カーテンで仕切られたベッドの一つに、人が横たわっていた。
「佐伯さん」
声をかけた。反応がない。カーテンの隙間から中に入って、息を呑んだ。
十日前に会った佐伯とは、別人だった。
頬がこけていた。目の周りが黒く窪み、腕は布団の上に投げ出されて、骨と皮だけになっている。四十代の健康な男性が、十日でここまで痩せるものだろうか。点滴のチューブが左腕に繋がれ、モニターが規則正しいビープ音を刻んでいた。肌の色が悪い。蛍光灯の下でも土気色とわかるほどに、生気が抜けていた。
唇が動いた。
最初は空気が漏れているだけだと思った。けれど、耳を近づけると、声だった。
「……さむ、い……」
囁きよりも小さい。吐息に言葉が乗っているような、かすかな声。
「さむい……さむい……」
繰り返している。目は閉じたまま、体は横たわったまま、唇だけが同じ言葉を紡ぎ続けている。病室は暖房が効いていて、私はパーカーの下にじんわり汗をかいているほどだ。なのに佐伯の体は微かに震えていた。布団を二枚重ねてもなお、寒いと訴え続けている。
——生気を奪われている。
そんな言葉が頭に浮かんで、慌てて打ち消した。馬鹿げている。これは何かの病気だ。原因不明でも、医学的な説明がつくはずだ。感染症か、自己免疫疾患か、あるいはストレスによる急激な体重減少か。
でも、十日で。たった十日で、人はこんな抜け殻みたいになれるものなのか。
佐伯の唇がまた動いた。
「……に、おい……あまい……にお……」
甘い。匂い。
背筋が凍った。佐伯が嗅いでいるのだ。今この瞬間にも、あの腐った甘い匂いを。ここは病院の四階で、消毒液の匂いしかしない場所なのに。
佐伯にはまだ、あれがまとわりついている。
点滴のチューブが揺れた。佐伯の手が、布団の上で何かを払いのけるように動いた。弱々しく、けれど必死に。目は開かない。意識があるのかもわからない。ただ体だけが、見えない何かを拒絶しようとしていた。
私はベッドの脇に立ったまま、動けなかった。足が床に縫い止められたように重い。佐伯のうわ言が、病室の静寂に溶けていく。さむい。さむい。あまい。におい。
あの夜、商店街で見た人影。折れた首。足音のない歩行。裸足の足跡。
取材で一度会っただけの、この人。
繋がった。都市伝説と、現実が。
ナースコールのボタンが枕元にあった。押すべきだろうか。でも何と言えばいい。この人は幽霊に生気を吸われていますと言うのか。
廊下に出たとき、足がもつれた。壁に手をついて呼吸を整える。目の前をナースカートが通り過ぎていった。日常が動いている。病院は正常に機能している。なのに四一二号室の中だけ、別の法則で時間が流れているような感覚が拭えなかった。
病院を出ると、夕暮れだった。西の空がオレンジ色に燃えていて、思わず立ち止まった。商店街の街灯と同じ色だった。
帰りのバスに揺られながら、ノートを開いた。震える字で書き留めた。
『佐伯氏。入院。十日で著しい衰弱。原因不明。うわ言——「寒い」「甘い匂い」。目撃後に発症か。因果関係は不明だが、時系列の一致。都市伝説と実害が接続する可能性。』
可能性、と書いて、ペンを止めた。可能性ではない。私の体がそう言っている。佐伯の病室で感じた冷たさは、暖房の効いた部屋にはあり得ない種類のものだった。理性は否定する。でも五感は嘘をつかない。
アパートに戻って、机の上に取材ノートを広げた。地図アプリの赤いピン。五人の目撃者の証言。足跡の写真。ICレコーダーに残った正体不明の音声。そして今日の佐伯。
私は椅子に座ったまま、長い間天井を見上げていた。
怖い。心の底から怖い。ここで手を引けば、私はただの大学三年生に戻れる。テーマを変えて無難なレポートを書いて、卒論まで平穏に過ごせる。
佐伯の震える手が、見えない何かを払いのけようとしていた映像が、瞼の裏にこびりついている。
あの人は、ただ目撃しただけだ。深夜に人影を見て、足音がしないと証言して、私のノートに数行の記録を残しただけ。それだけのことで、今病室で抜け殻のように横たわっている。
次は誰だ。あの商店街の近くに住む誰かが、深夜にたまたま窓の外を見て、足音のない人影を目にしたら。
——私みたいに、好奇心で近づいてしまったら。
気づいたとき、私はクローゼットを開けていた。黒いパーカー。ジーンズ。スニーカー。
二度目の深夜、桜ヶ丘に行く。
今度は、目撃するためじゃない。あれが何なのかを突き止めるために。佐伯に起きたことの理由を見つけるために。
モバイルバッテリーをリュックに入れながら、デスクの上のノートが目に入った。黒崎教授の手書きの文字。『現地には必ず複数人で赴くこと』。
二度目も、私は一人だった。
終電に乗るために駅に向かう道すがら、風が吹いた。冷たい秋の風。その中に——一瞬だけ、甘い匂いが混じったような気がして、足が止まった。
気のせいだ。ここは大学の最寄り駅で、桜ヶ丘から三駅も離れている。
気のせいのはずだった。