第2話
第2話
三つ先の街灯。距離にして三十メートルほど。
オレンジ色の光の輪の中に、人の形をしたものが立っていた。
最初は酔っ払いだと思おうとした。深夜の商店街にいる人間なんて、そんなものだろう。終電を逃した誰かが、ふらふらと帰り道を探している。そう思いたかった。
けれど、動かない。
街灯の真下で、まるでそこに生えたかのように微動だにしない。服装は判然としない——暗い色の何か。背格好からすると小柄な人物に見えた。女性か、あるいは腰の曲がった老人か。
息を殺した。シャッターに押しつけた背中が震えているのが、自分でもわかった。リュックの中のICレコーダーが回り続けている。録音ランプの赤い点滅だけが、私がまだ現実にいることを示していた。
匂いが、濃くなった。
腐った甘い匂い。さっきまで波のように強弱があったそれが、今は一定の濃度で鼻腔を満たしている。まるで発生源が近づいてきたかのように。
あの人影が匂いの元なのだと、頭のどこかが冷静に告げた。同時に、そんなはずはないとも思った。人間がこんな匂いを発するわけがない。
見ていれば、やがて立ち去るだろう。そう思って、じっと待った。
一分が過ぎた。二分が過ぎた。
人影は動かない。
三分を過ぎた頃、それが動いた。
——歩き始めた。
足音がしなかった。
アスファルトの上を人が歩けば、どんなに静かでも靴底が地面を擦る音がする。スニーカーでもヒールでも。この静寂の中なら、なおさら聞こえるはずだ。
なのに、無音だった。人影はゆっくりと、街灯の光の輪から次の暗がりへと移動していく。歩いているのに、足音がない。証言通りだった。私の耳には自分の心臓の音と、どこかの換気扇の唸りだけが届いていた。
人影が二つ目の街灯の下に入った。距離が二十メートルに縮まった。
光に照らされて、輪郭がわずかに鮮明になる。小柄な体。丸まった背中。髪は白い——いや、色が抜けている。着ているのは薄い上着のようなもので、裾が膝のあたりまで垂れていた。
その姿を確認して、私は息を呑んだ。
首が傾いていた。
人間の首が傾く角度には限界がある。肩に耳をつけるくらいが精一杯だろう。けれど、その人影の首は、肩を越えていた。まるで首の骨が途中で折れたまま、かろうじて繋がっているような角度。頭が肩の外側にまで垂れ下がって、長い髪が腕に沿って揺れていた。
人間じゃない。
その認識が落ちた瞬間、体の中で何かが弾けた。思考より先に足が動いた。しゃがんでいた体を起こし、来た方角に向かって走った。音を立てまいとする配慮など、すでに吹き飛んでいた。スニーカーがアスファルトを蹴る音がアーケードに反響する。自分の足音がうるさい。うるさいのに、振り返りたくない。背後に足音がないことが、追いかけてこないことの保証にはならないと本能が叫んでいる。
走った。息が切れても走った。アーケードを抜け、駅前のコンビニの明かりが見えたときに初めて足を止めた。膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。コンビニの自動ドアが開いて、暖かい空気と蛍光灯の白い光が肌に触れた。店内のBGMが現実の音として耳に戻ってきた。
振り返った。
誰もいなかった。
商店街の入口はただ暗いだけで、何も見えなかった。
始発電車が来るまでの三時間を、私はコンビニのイートインコーナーで過ごした。温かいカフェオレを両手で握りしめて、震えが止まるのを待った。止まらなかった。
スマホの画面を開いて、録音データを確認しようとした。ICレコーダーのアプリに触れる指が、まだ震えていた。再生ボタンを押す勇気は出なかった。
始発に乗って帰ろう。レポートのテーマは変えよう。桜ヶ丘のことは忘れよう。
何度も、そう自分に言い聞かせた。
朝六時の電車に乗った。大学に向かうサラリーマンや学生に混じって座席に座ると、深夜のことが夢だったように思えた。蛍光灯に照らされた車内は明るく、隣に座ったおじさんが居眠りをしている。普通の朝の風景。
けれど鼻の奥に、あの甘い腐臭がこびりついていた。
アパートに戻ってシャワーを浴びた。髪を二度洗っても匂いが取れない気がした。三度目で諦めて、布団に潜り込んだ。疲労と恐怖で泥のように眠った。
目が覚めたのは午後二時だった。
カーテンの隙間から秋の日差しが差し込んで、フローリングに白い線を引いていた。スマホには未読の通知が溜まっていたが、ゼミのグループチャットだけ確認して閉じた。
——もう関わらない。
声に出して言った。自分の声が部屋に響いて、少し安心した。
昼食を作りながら、テレビをつけた。ニュースは天気と経済の話をしていて、深夜の商店街に首の折れた何かが歩いている話はしていなかった。当たり前だ。あんなものを見た人間は、普通なら誰にも言わない。言っても信じてもらえない。
パスタを茹でながら、不意に思った。
——あの場所に、まだ何か残っているだろうか。
フォークを持つ手が止まった。
馬鹿な考えだとわかっていた。ホラー映画なら真っ先に死ぬタイプだと、昨夜も思ったばかりだ。
けれど。
民俗学のフィールドワークで最も重要なのは、証拠の保全だ。目撃証言は時間とともに曖昧になる。物的な痕跡があるなら、それは日光と風と通行人によって刻一刻と消えていく。
昼間なら安全だ。日が高いうちに行って、すぐ帰ればいい。
——言い訳だ。昨夜と同じ。わかっている。
私は茹で上がったパスタを皿に移して、まだ湯気が立っているそれを食べ終えるより先に、靴を履いていた。
午後三時の桜ヶ丘商店街は、穏やかだった。買い物帰りの老人がカートを引いて歩き、惣菜屋の前で主婦が二人立ち話をしている。昨夜のことが嘘のような日常。
アーケードに入り、昨夜身を隠していた不動産屋の軒先を通り過ぎた。心臓が跳ねたが、日差しの下ではただの空き店舗だった。
あの人影が立っていた場所——三つ先の街灯の下に向かう。昼間は街灯が消えていて、ただのコンクリートの地面があるだけだ。特に変わったものはない。
ない、と思った瞬間、足元に目が止まった。
濡れた足跡があった。
アスファルトの上に、水を含んだ靴の跡。いや、靴ではない。裸足だ。指の形まで残っている。足跡は街灯の下を中心に、何度も同じ場所を行き来するように重なっていた。まるで、何かの周りをぐるぐると歩き回っていたかのように。
雨は降っていない。三日間、降っていない。
足跡は水を含んでいるのに、周囲のアスファルトは乾いている。その水がどこから来たのか説明がつかなかった。
しゃがんで、指先でそっと触れた。冷たい。ただの水——のはずだった。指を鼻に近づけると、微かに、あの匂いがした。甘くて、重くて、腐った花の。
指を拭いて立ち上がった。心臓がうるさい。昼間なのに。太陽が出ているのに。
スマホで足跡を撮影した。何枚も角度を変えて撮った。証拠の保全。これはフィールドワークだ。学術的な調査だ。
——そう思わないと、ここに立っていられなかった。
帰りの電車でスマホの写真フォルダを何度も開いた。足跡は写真の中でもはっきり写っていた。見間違いでも、夢の続きでもない。
アパートに戻って、ノートを広げた。昨夜の体験を時系列で書き起こす。時刻、場所、気温、風向き、匂いの強度、人影の特徴。書きながら手が震えた。首の角度のことを書くとき、ペンが止まった。
肩を越えていた。あれは人間の骨格では不可能な角度だ。
ペンを置いて、目を閉じた。
怖い。怖いのに、確かめたい。あの人影が何なのか。なぜ足跡だけが残るのか。なぜ腐った花の匂いがするのか。なぜ足音がしないのか。
答えが欲しいのではなく、問い自体が私を掴んで離さないのだ。
気づけば、夜になっていた。ノートにはびっしりと文字が並び、赤ペンで引いた線が蜘蛛の巣のように広がっていた。目撃証言との照合。物的痕跡の考察。仮説の列挙と棄却。
私は閉じたノートの表紙を見つめて、自分が何をしようとしているのか理解した。
もう一度、行くつもりだ。
今度はもっと近くで。もっとよく見るために。
スマホの地図アプリが、暗い画面の上で赤いピンを明滅させていた。二十以上の目撃地点。その中心に、今日見つけた裸足の足跡が加わった。
デスクの上で、昨夜再生できなかったICレコーダーが沈黙している。あの録音の中に、何が入っているのだろう。
——再生するのが怖い。
でも私は、きっと明日の夜には再生ボタンを押している。そういう性分だから。面倒なことを始めると、途中でやめられない。
窓の外で風が鳴った。一瞬だけ、甘い匂いがした気がして、カーテンを引いた。