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桜ヶ丘徘徊録~供養師と都市伝説~

第1話 第1話

第1話

第1話

その都市伝説を見つけたのは、深夜二時のTwitterだった。

ゼミの課題テーマを決めかねて、スマホの画面をスクロールし続けていた。民俗学ゼミの秋期レポート——現代の都市伝説をひとつ選び、フィールドワークで検証せよ。締切まで三週間。テーマすら決まっていない自分に嫌気が差して、検索窓に「都市伝説 目撃」と打ち込んだのが始まりだった。

『深夜の桜ヶ丘商店街に何かが歩いてる』

たったそれだけの投稿。添付された写真は暗くてほとんど何も写っていない。けれど、リプライ欄に妙な熱量があった。

『わかる。先週見た。シャッター閉まってるのに誰かいた』 『足音しないんだよな。あれ気持ち悪い』 『腐った匂いしなかった? 私だけ?』

桜ヶ丘商店街。大学から電車で三駅。閉店した店が並ぶ、典型的なシャッター街だ。私は何気なくブックマークした。これでいいか、と思った。手頃で、現地にも行きやすい。

その判断が軽すぎたと気づくのは、もう少し先のことだ。

私の名前は秋月詩織。大学三年、文学部民俗学専攻。特技は、面倒なことを始めると途中でやめられなくなることだ。

翌日から私はSNSを片っ端から漁り始めた。桜ヶ丘、商店街、深夜、人影——キーワードを組み合わせて検索すると、この三ヶ月だけで二十件以上の投稿が引っかかった。地図アプリを開き、目撃場所をひとつずつピンで落としていく。画面の上に赤い点が散らばる様子は、まるで商店街に血が滲んでいくみたいだった。

三日目の午後、私は桜ヶ丘に出向いた。

昼間の商店街は拍子抜けするほど普通だった。半分ほどの店がシャッターを下ろし、残りの店もまばらに営業している。買い物客は高齢者が多く、空はどんよりと曇っていた。アーケードの天井から錆びた金属の匂いが降ってくる。

目撃者への取材は、近隣のコンビニから始めた。深夜シフトの店員、裏路地に面したアパートの住人、犬の散歩で遅くなったという主婦。ゼミのフィールドワーク手法に沿って、聞き取りの内容をノートに書き留めていく。

五人に話を聞いて、奇妙なことに気づいた。

証言が揃いすぎている。

「足音がしなかったんです」

コンビニの夜勤店員、二十代の男性はカウンターの向こうで腕を組んだ。

「窓越しに見えたんすよ。人が歩いてるなと思って。でも全然音がしなくて。深夜だから静かなのは当たり前なんすけど、歩いてるのに足音がしないって、変じゃないですか」

「匂いは」

「あ——それも聞きます?」

彼は少し顔をしかめた。視線が一瞬だけ窓の外に向かって、すぐに戻った。まるで今でもその窓の向こうに何かがいるのを恐れているような、そんな目の動きだった。

「ドア開けたとき、甘い匂いがしたんすよ。花が腐ったような。一瞬だけ。気のせいかなと思って外を見たら、もうそいつはいなかった」

彼はそこで言葉を切り、カウンターの下に両手を引っ込めた。指先が微かに震えているのが見えた。思い出すだけで体が反応するのだ。都市伝説の聞き取りで、語り手の身体にまで恐怖が残っているケースは珍しい。

足音がない。腐った匂い。五人中四人がこの二つを挙げた。もう一人は匂いについては覚えていないと言ったが、足音がなかったことは断言した。

都市伝説の証言は、通常もっとばらつく。尾ひれがつき、記憶が変容し、聞いた話と見た話が混同される。それが民俗学で扱う都市伝説の面白さでもある。

なのに、この証言には奇妙な一貫性があった。まるで全員が本当に同じものを見たかのように。

五人目の取材を終えたとき、太陽はすでに傾いていた。西日がアーケードの隙間から差し込んで、閉じたシャッターにオレンジ色の縞模様を描いている。

帰りの電車の中で、ノートを見返した。赤いボールペンで書き込んだ共通点が、まるで警告灯のように紙面に散っていた。

足音がない。 腐った甘い匂い。 深夜一時から三時の間。 毎回同じエリア——商店街のアーケード通りから、東側の路地裏にかけて。

仮説はいくつか立てられる。酔っ払い。ホームレス。夜間作業の業者。匂いは近くの飲食店の残飯。足音がしないのは、静かな靴を履いていたから。

合理的な説明は可能だ。レポートに書くならそれで十分だろう。

——十分なはずだった。

アパートに戻り、シャワーを浴びて、布団に入っても、頭の中で赤いピンが明滅し続けていた。地図の上に浮かぶ二十以上の点。三ヶ月で二十件。週に一、二回は何かが目撃されている計算になる。

酔っ払いにしては、目撃の頻度が高すぎないか。

時刻が偏りすぎていないか。

そして、足音がしないという証言。五人が五人とも、最初にそれを挙げた。聞いていないのに、自分から。

布団の中で、私はスマホの地図を開いた。赤いピンが暗い画面に浮かび上がる。商店街のアーケード通りに沿って、点々と。

——確かめたい。

自分でも馬鹿だと思った。ホラー映画なら真っ先に死ぬタイプだ。でも、調べ始めたものを途中で放り出せない性分は、今に始まったことじゃない。

それにこれはゼミのフィールドワークだ。現地観察は調査の基本。深夜の商店街に行くことには、ちゃんと学術的な理由がある。

——言い訳だとはわかっていた。

私は布団から出て、クローゼットを開けた。黒いパーカー、ジーンズ、スニーカー。目立たない服装。スマホのバッテリーを確認し、モバイルバッテリーをリュックに詰めた。ICレコーダー。ペンライト。取材ノート。

デスクの上で、ゼミのノートが目に入った。黒崎教授の几帳面な文字で書かれた「フィールドワークの心得」。その第一項には、こうあった。

『現地には必ず複数人で赴くこと』

私はそのページをそっと閉じた。

終電の一本前に乗った。車内はまばらに酔客がいるだけで、蛍光灯の白い光が空席を照らしていた。窓に映る自分の顔が、少し青ざめて見えた。

桜ヶ丘駅に着いたのは午前零時すぎ。駅前のコンビニだけが煌々と明るく、あとは静かだった。商店街の入口に向かって歩く。日中は気にならなかった街灯の間隔が、夜になると途端に心もとなくなる。光と光のあいだにある闇が、思ったよりずっと深い。

アーケードに入った。

昼間とは別の場所だった。シャッターが両側に並ぶ通路は、光が届かない奥へ向かってまっすぐ伸びている。私の足音だけが反響して、自分が何人もいるような錯覚に陥った。

十メートルおきに、古びた街灯がぼんやりと灯っている。その光の輪の中だけが世界で、あいだの暗がりはどこか別の場所に通じているように見えた。

腕時計を見る。零時四十分。目撃証言の時間帯にはまだ早い。商店街の中ほどにある閉店した不動産屋の軒先に身を寄せ、暗がりに目を凝らした。

静寂が、耳に痛い。

遠くでトラックが走る低い振動。どこかの換気扇が回る微かな唸り。それだけだ。生き物の気配がない。猫一匹いない。この静けさは、夜の当たり前のはずなのに、何かが欠けているような、不自然な空白だった。

背中を預けたシャッターの冷たさが、パーカー越しに肌を刺す。十月の深夜の空気は思った以上に冷え込んでいて、吐く息がわずかに白く濁った。リュックの中でICレコーダーの録音ランプが赤く点滅しているのが、暗がりの中で妙に心強かった。

時間が経つにつれて、体の感覚が鋭くなっていくのがわかった。昼間は気にも留めなかったシャッターの軋む音が、金属の悲鳴のように聞こえる。どこかで水が滴る音。自分の心臓の鼓動。ひとつひとつの音が輪郭を持って、暗闇の中に浮かび上がってくる。

一時を過ぎた頃、風向きが変わった。

アーケードの奥から、生暖かい風が吹いてきた。冷えた頬を撫でるその温度が、季節にそぐわない不気味さを持っていた。そしてその風に乗って——匂いが届いた。

甘い。甘くて、重くて、喉の奥にまとわりつくような匂い。花が腐ったような、とコンビニの店員は言った。その表現は正確だった。百合の花を水に漬けたまま一ヶ月放置したら、こんな匂いがするかもしれない。

胃がせり上がるのを堪えて、匂いの方向を確かめた。アーケードの東側。路地裏に繋がる方角だ。匂いは波のように強弱を繰り返し、風が止むと薄れ、また吹くと喉を塞ぐほどの濃さで押し寄せた。

スマホを取り出し、録音を開始した。手が震えていることに気づいて、もう片方の手で押さえた。

——帰ろう。

そう思った。思ったのに、足は動かなかった。

アーケードの奥、三つ先の街灯の下。

何かが、立っていた。

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