第3話
第3話
戸が閉まった家の中には、冷えた茶の渋みと、畳の上に置かれた一通の封筒だけが残った。
鷹村は框に腰かけたまま、しばらく封筒を見下ろしていた。茶封筒の角が、芳江の指で撫でられた跡にわずかに毛羽立っている。中身の厚みは、手帳三冊分といったところだった。
立ち上がり、卓袱台の前に座り直す。畳に片膝を立て、封筒の口に指を差し入れた。糊付けはされていない。差出口が二度折り返されていただけだ。中から出てきたのは、クリップで留められた書類の束だった。表紙の一枚目に、手書きで「堂島健吾(仮)」とだけある。
「仮、か」
鷹村は呟いた。芳江が独断で集めた資料だと、その二文字が告げていた。誰かに命じられて持ち込んだなら、仮名の注釈などつけない。自分で足と金を使って集めた人間が、出所を消しながら、それでも鷹村に読ませたかった資料だ。万年筆の文字は、一画目の入りが少し震えている。老いた指で、机に覆い被さるようにして書いた字だった。
窓の外で、洗濯物を干す隣人のラジオが止まっていた。代わりに、遠くで貨物列車の連結音が鈍く響く。十時三十七分。いつもなら手摺りの猫を眺めている時刻だった。鷹村はその数字を頭の端に刻み、表紙をめくる。茶棚の奥から老眼鏡を取り出した。三年前まで胸ポケットの常駐品だったその眼鏡は、レンズに薄く埃をかぶっていた。指先で一度拭い、鼻梁に掛け直す。視界が一段、鋭く絞られた。
一枚目は、防犯カメラの静止画像だった。モノクロに近い粗い画面の下に、手書きのキャプションが添えられている。『三月二十七日 二十一時十七分 港区虎ノ門 桐生ホールディングス本社ビル一階ロビー』。中肉中背の男が、エレベーターホールから回転扉へ向かう後ろ姿。鞄を右手に提げ、左手でコートの襟を立てている。
次のページは同じ日の二十一時三十四分、虎ノ門交差点の街頭カメラだった。タクシーに乗り込む男の横顔。三枚目は二十二時〇三分、赤坂見附のホテル『グラン・アデル』のフロントロビー。チェックイン端末の前に立つ男の上半身。四枚目は、そのホテルの五階廊下の防犯カメラ。二十二時〇七分、客室のドアを開ける男の背中。
その先に、タクシー会社の乗車記録のコピーが綴じられていた。Nタクシー港営業所。乗車時刻二十一時三十四分、降車時刻二十一時五十八分、虎ノ門発、赤坂見附着、料金千四百三十円。領収書の宛名は『堂島健吾』。さらにその次に、ホテルのチェックイン履歴のコピー。二十二時〇三分、カードキー発行。翌朝六時五十二分、チェックアウト。客室内の通話記録に外線なし。ルームサービスの注文は二十三時二十分、シーザーサラダとミネラルウォーター一本。下膳時刻は二十三時四十二分。
「……随分と親切に残してくれたものだ」
鷹村は眼鏡の位置をずらし、鼻梁を揉んだ。揉んだ場所に、眼鏡の跡が二つ、赤く浮いている。出所不明の書類とはいえ、どれも原本のコピーに見えた。タクシーの配車ログは社判の印影まで写っている。ホテルの記録も、宿泊管理システムの画面をそのままプリントアウトしたフォーマットだった。罫線の薄墨の色、右下に印字された出力日時の十四ポイントの数字。素人が作れる偽造ではない。芳江一人で揃えられる資料ではない。誰かが裏で協力している。その誰かは、堂島の動線を「漏らしてでも鷹村の目に入れたい」と考えている。
問題はその意図だった。
鷹村は一度、書類を閉じた。目を瞑り、資料の流れを頭の中で再構成する。二十一時十七分、堂島は本社ビルを出た。二十一時三十四分にタクシーに乗り、二十一時五十八分にホテル前で降車。二十二時〇三分にチェックイン、二十二時〇七分に入室。以降、客室からは動いた記録がない。
時刻と場所が、秒単位で連続している。
その連続の中に、桐生泰造が倒れた書斎の映像が挟み込めるかを、鷹村は逆から検算した。芳江の証言では、二十二時に書斎へ茶を運んだとき、桐生は机に向かっていた。二十三時半に書斎の外を通ったとき、物音はしなかった。朝七時に前のめりの姿勢で発見された。死亡推定時刻が二十二時から翌一時の間だと仮定すれば、犯行可能時間はおよそ三時間。その時間帯、堂島はホテルの客室にいたことになる。
ここで、鷹村の指が止まった。
「穴がない」
声に出した。老眼鏡の奥で、目の焦点が静かに絞られていく。喉の奥が、湯呑み一杯分だけ乾いていた。
三十数年、捜査一課で現場を踏んだ人間が、アリバイを見て最初に探すのは「隙間」だった。誰にでも、電車の遅延に巻き込まれる五分がある。コンビニでスマホを置き忘れる三分がある。タクシーの運転手が道を間違える七分がある。日常のアリバイとは、そういう小さなザラつきの集合体として成立する。
ところがこの資料は、違った。堂島の行動記録は、まるで鉄道の時刻表のような均質さで繋がっていた。ビルを出る時刻とタクシー乗車時刻の間に十七分、タクシー降車時刻とチェックイン時刻の間に五分、チェックインから入室まで四分。どの隙間も、移動と待機として説明可能な、標準的な値に収まっている。ただし、その「標準的」が揃いすぎていた。一つ一つが平均値なら、普通はどこかが外れる。偏りのない平均値の連続というのは、現実の人間の行動としては不自然だった。
「——教科書通りすぎる」
鷹村は呟き、老眼鏡を外した。レンズに映った自分の指先が、少しだけ震えていた。その震えを見まいとして、眼鏡を卓袱台の端に伏せる。ガラスの脚が畳に当たる、こつ、という乾いた音がやけに大きく耳に届いた。
三年前、鷹村を追い込んだ一件も、同じ感触だった。容疑者とされた人間のアリバイが、教科書通りに揃っていた。鷹村はそれを崩そうとして裏取りに回り、気づけば逆に、自分の捜査手法の瑕疵を上層部に突き上げられていた。蓮見が署名した処分通知には、「情報源への圧迫的接触」と書かれていた。事実の一部は事実だった。だが全体ではなかった。アリバイの均質さに違和感を覚えた刑事が、その違和感を潰そうとする過程で、先に潰されたのだ。
今、同じ均質さが、卓袱台の上に広がっている。
鷹村は両手で顔を擦った。乾いた掌が、無精髭の伸び始めた頬に、じゃり、と引っかかる。老眼鏡のつるが指に当たった。目を開け、天井を見上げる。雨染みが一つ、北の隅に広がっていた。ここ一年、見て見ぬふりをしてきた染みだった。三年前、自分に言い聞かせた言葉が、今はどうしても続かない。——もう刑事じゃない。捜査権もない。他人の事件に首を突っ込む立場ではない。
その通りだった。その通りなのに、卓袱台の上の資料から、目を逸らすことができない。
鷹村は息を吐き、もう一度、資料の束を最初のページに戻した。堂島の後ろ姿。右手に鞄、左手で襟を立てる仕草。二十一時十七分、虎ノ門。カメラの粗いドットの向こうで、男のコートの肩が、かすかに強張っているように見えた。見えた、と思った時点で、鷹村の中の刑事が、もう目を覚ましていた。
「……完璧なアリバイほど、信用ならん」
声は低く、独り言というより、もう三年前に閉じたはずの自分自身への返答だった。
鷹村は卓袱台に両手を突き、立ち上がった。膝が、いつもより素直に伸びた。頭より先に、体が動く向きを決めていた。
押し入れの襖を、横に引いた。
湿った匂いが、ふわりと顔を撫でる。樟脳と、古紙と、いつかの汗の匂いが混じった、三年分の沈黙の匂いだった。三年間、畳んだ布団と古い衣類に押し込まれていた匂い。一番奥の、段ボール箱の陰に、黒い革鞄が立てかけてあった。現役時代、現場へ出るときに肩から下げていた鞄だ。革はひび割れ、把手の縫い目は擦り切れている。鷹村はそれを引き出し、畳の上に置いた。鞄の底が畳に触れる瞬間、革の奥から、微かに鉄のような匂いが立ち上った気がした。
留め具を外す。中から出てきたのは、使い込まれたA5判の捜査ノート三冊、折り畳んだメジャー、小型の懐中電灯、白手袋、そして擦り切れた鉛筆が五本。警察支給ではない、鷹村が自腹で揃えた道具類だった。
ノートの一番上の一冊を、膝の上に置いた。表紙に『二〇二二 三月』と、自分の字で書かれている。三年前、鷹村の刑事としての最後の現場が、この月のノートから始まった。
指先で表紙を撫でる。布目の凹凸が、指紋に一つずつ食い込む。
「——もう一度、最初からだ」
呟いて、鉛筆を一本、握り直した。親指の腹で芯先の摩耗を確かめる。三年前と同じ硬さが、指の腹に返ってきた。