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書斎の万年筆は左を向く

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の茶を飲み終えて、二時間が経っていた。

鷹村は畳の上に胡座を組み、古新聞を膝の上に広げていた。読んでいるわけではなかった。何かを視界に置いていなければ、頭の中で再生される書斎の映像が止まらない。万年筆。キャップの向き。観音開きの窓。クレセント錠の僅かな開き。——やめろと自分に命じるたびに、指先が反論するように紙の端をめくった。同じ政治面を、三度めくっていた。三度めくるたびに、写真の中の政治家の顔が違う角度で自分を見返した気がした。

ノック音が聞こえたのは、そのときだった。

乾いた音が二度、続いて遠慮がちに一度。来訪者のいない家に三年暮らしていれば、玄関の音は郵便受けの投函音と、回覧板の判捺印依頼の二種類しかない。今聞こえた音は、そのどちらでもなかった。

鷹村は新聞を畳み、立ち上がった。膝が一瞬こわばったが、体の奥で妙に頭が冴えていた。玄関まで四歩。サンダルを突っかけ、覗き穴のレンズに目を寄せる。

三十代後半の女が立っていた。濃紺のウールのコート。髪はひっつめ。胸の前で、革の手帳ほどの大きさの茶封筒を抱えている。指先が、封筒の角を小刻みに撫でていた。緊張している、というより、呼吸を整えていた。

「どちら様で」

戸の向こうに声をかけた。女はレンズに向かって深く頭を下げた。

「木下と申します。——鷹村誠一郎様でいらっしゃいますでしょうか」

苗字を確認してから名を呼ぶ。警察関係者ではない。知人でもない。しかし無作為の訪問者でもない声の据わり方だった。鷹村は鍵を回した。

戸を半分だけ開けた。女は一歩下がり、もう一度頭を下げた。化粧はほとんどしていなかった。ただ目の下にうっすらと塗り残した粉が浮いている。泣いた痕を、出がけに消そうとした痕だった。

「突然、申し訳ございません。桐生泰造の家で、家政婦をしております」

——桐生。

朝のニュースが、戸口で再生された。鷹村は戸枠に手を置いたまま、女の顔を見た。目尻に細い皺。四十に手が届くかどうかの年齢だろう。派手さはないが、姿勢の伸び方に躾けのよさが残っていた。

「どこで俺のことを」

「警視庁にいらした頃、一度だけご挨拶を頂いたことがございます。十五年ほど前、赤坂の強盗事件のときに」

「覚えていない」

「ええ、お忘れだと存じます。あのときは、叔父の会社の社員が参考人として事情を伺われておりましたので、叔父の名代で私が伺いました」

叔父。その単語に、鷹村は眉を寄せた。女は封筒を胸に抱え直し、小さく補足した。

「桐生泰造は、私の母の弟にあたります。叔父が独り身でございましたので、十年ほど前から身の回りを。家政婦というのは、近所への体裁でございます」

言葉尻が震えた。女は一度深く息を吸い、喉の奥で押し戻すようにしてから、まっすぐに鷹村を見上げた。

「叔父は、殺されました」

玄関の外で、隣の部屋のラジオが天気予報を読み上げていた。午後から北風が強まり、夜にかけて冷え込むでしょう。気象キャスターの声が、戸口の会話から浮いて流れていく。鷹村はその声を耳の端に置いたまま、女の言葉の重さを測った。

「今朝のニュースでは、心疾患の病死と」

「それは、警察がそう発表しただけでございます」

その言い回しに、鷹村の奥歯がかすかに噛み合った。素人はこういう言い方をしない。普通の遺族なら「警察は何も調べてくれない」と泣く。この女は、発表と事実の間に距離があることを、言葉の選び方で知っていた。

「中へ入って話せ、とは言わない」

鷹村は戸枠に肩を預けた。

「俺はもう刑事じゃない。三年前に辞めた。警察手帳もない、捜査権もない。ニュースを見て疑問を持つ年寄りに、あんたが訴えるようなことは、何一つ返せない」

「存じ上げております」

女——木下芳江は、きっぱりと頷いた。

「鷹村様が三年前にお辞めになった経緯も、ひととおり調べました。大変、失礼を承知で」

膝の奥がひやりとした。三年前の経緯を「調べた」と言い切る人間に、鷹村は久しく会っていなかった。ほとんどの知人は、あの一件に触れることを避けた。避けない者は、避けないかわりに、鷹村の顔を見なくなった。

「それでもお訪ねしましたのは、一つだけお伝えしたいことがあったからでございます」

芳江は、抱えていた封筒の角を整えた。

「叔父は、倒れる前日から、書斎の金庫の中のものを出し入れしておりました。遺言書でございます。書き換えを、考えていたようです。誰に何を相続させるかを、私にも少しだけお話しくださいました。そして倒れる当日の夜、八時過ぎに、堂島という共同経営者と電話で口論をしておりました」

「堂島」

「桐生ホールディングスの専務取締役でございます。その電話のあと、叔父は書斎に籠もりました。十時に、私がお茶を運びました。そのとき、机の上の万年筆のキャップは、右を向いておりました。叔父は、右利きでございましたから」

鷹村は、ゆっくりと戸枠から肩を離した。

「その万年筆が、どうした」

「十一時半に、私が書斎の外を通ったとき、中から物音はいたしませんでした。叔父は遅筆でございますから、深夜まで机に向かうのは珍しくなく、声をかけずに寝ました。発見したのは朝、七時でございます。叔父は机に突っ伏しておりました。心臓を押さえるような姿勢ではなく、前のめりに。そして、机の上の万年筆のキャップは——左を向いておりました」

玄関の床に、午前の斜光が一筋落ちていた。埃の粒が、その光の中でゆっくり回っていた。鷹村の視線は、その埃を追っていたはずが、どこでもない一点に止まっていた。

ニュース映像で自分が見た万年筆の向き。

自分以外にもそれを見た人間が、戸の前に立っていた。

「入りな」

鷹村は戸を大きく引いた。

「茶は、安物しか出ない」

芳江は靴を揃えて脱いだ。先端をきちんと外に向けて、三和土の隅に寄せた。長年、人の家に入り慣れた足さばきだった。鷹村は先に立って台所へ戻り、先ほどまで自分が使っていた湯呑みを洗い直した。蛇口の水音の向こうで、芳江が畳の上に封筒を置く気配がした。

湯を沸かしながら、鷹村は短く尋ねた。

「警察の担当は」

「捜査一課の、蓮見警部補とおっしゃいました」

やかんに載せた手が、ほんの一瞬、止まった。

青い炎が揺れて、やかんの底を舐めていた。その光を見つめたまま、鷹村は息を吸った。胸郭が広がるのに、いつもの倍の時間がかかった。

蓮見。

三年前、鷹村の机の上に懲戒処分の起案書を積み上げた男の顔が浮かんだ。背後から肩を叩き、「申し訳ないがこれは上の判断だ」と言ったときの、あの視線の角度まで覚えている。蓮見は直属の上司だった。鷹村が追い込まれた一件が公式に処理されたとき、書類の最下段にあったのは蓮見の署名だった。

鷹村はガスを止めた。やかんはまだ沸いていなかった。今、湯を注ぐ手順を体が拒んでいた。

「蓮見は、どんな顔をしていた」

背を向けたまま、鷹村は問うた。芳江は少し考えて、慎重に答えた。

「……丁寧な方でございました。ご遺族のお気持ちはお察ししますが、ご高齢の方の持病によるご不幸というのは、どうしても起こり得るものでして——と、そのように。言葉を一つずつ、選んでおられました」

「言葉を選ぶ男だ」

鷹村は呟いた。声が、自分でも驚くほど乾いていた。

振り返ると、芳江は畳に正座し、封筒を膝の前に置いて、こちらをまっすぐ見ていた。涙は浮かんでいなかった。訴える顔でもなかった。ただ、何かを賭けている目をしていた。

「あんたは」

鷹村は台所の框に腰を下ろした。

「俺がこの話を引き受けると、誰に聞いて来た」

「存じません」

芳江は短く答えた。

「ただ、蓮見警部補のお名前を申し上げれば、鷹村様が一度は話を聞いてくださるだろうと、申しておりました」

「誰が」

「名乗られませんでした。電話で、男の声で、昨夜の九時過ぎに。叔父が倒れたのと、ほぼ同じ時刻でございます」

鷹村は動かなかった。動いたのは、自分の内側の、三年間錆びついていた一つの歯車だった。

「置いていけ」

封筒を顎でしゃくった。

「中身は読む。返事は、今はしない」

芳江は深く頭を下げ、封筒を畳の上に滑らせた。

戸が閉まる音が廊下に響いたあと、鷹村は湯呑みの底に残った冷えた茶を一息に呷った。渋みが舌の奥に刺さった。安物の茶葉より、もっと古い何かが、喉の奥で動き始めていた。

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