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書斎の万年筆は左を向く

第1話 第1話

第1話

第1話

朝六時の目覚ましは、もう三年前に止めた。

代わりに鷹村誠一郎を起こすのは、窓の外の野良猫だった。錆びた手摺りの上を歩く足音が、築四十年のアパートの薄い壁をかすかに震わせる。布団から片腕を出して時計を確認する。六時十二分。猫の方が正確だ。

布団の中にはまだ夜の冷気が残っていた。肩を回すと、左の肩甲骨あたりで鈍い音がする。六十二年分の疲労が骨に溜まっている。起き上がるとき、膝が一瞬こわばった。毎朝のことだ。体が目覚めるのに、心より少し時間がかかる。

台所に立ち、やかんに水を入れる。蛇口をひねると配管がごとりと鳴り、錆混じりの水が一瞬だけ出た。ガスコンロの点火に二度失敗した。カチカチという乾いた音だけが台所に響く。三度目で青い火が灯る。炎の揺れが、油汚れの残るステンレスの壁にぼんやり映った。冷蔵庫を開ければ、牛乳パックが一本と、猫用の鰹節の袋。奥の棚には賞味期限の切れた味噌と、使いかけのマーガリン。人間の食料より猫の餌の方が充実している棚を見て、鷹村は自嘲する気にもならなかった。

窓を開けると、三毛猫が待っていた。朝の空気が頬を撫でる。まだ冷たいが、冬の刃物のような鋭さはない。四月の空気だ。名前はつけていない。名前をつければ情が移る。情が移れば失うのが怖くなる。そういう感情を、鷹村はもう面倒だと思っていた。猫は鷹村の顔を一瞥し、短く鳴いた。催促でも甘えでもない、ただの確認のような声だった。互いに深入りしない距離感。この猫との関係が、今の鷹村にはちょうどよかった。

皿に鰹節を盛ってやりながら、テレビの電源を入れる。特に見たい番組があるわけではない。音がないと、考えなくていいことまで考え始める。三年前のこと。捜査一課の廊下。背中に刺さった同僚たちの視線。ロッカーの荷物をダンボールに詰めたとき、誰一人声をかけなかった。三十年以上を過ごした部署を出るとき、廊下の蛍光灯がやけに白く、自分の足音だけが反響していた。依願退職という名の追放。あの日、鷹村誠一郎という刑事は死んだ。六十二歳の今の自分は、その残骸だ。

画面では朝のニュースが流れている。政治、経済、天気予報。湯を注いだカップに安い煎茶のティーバッグを沈めながら、鷹村は画面を半ば眺めていた。茶葉が湯に広がる薄い緑を、ぼんやりと見つめる。

『——続いてのニュースです。不動産・投資事業を手がける桐生ホールディングスの創業者、桐生泰造氏が昨夜、自宅書斎で死亡しているのが発見されました。警視庁は持病の心疾患による病死と見ています——』

鷹村の手が止まったのは、画面に書斎の映像が映った瞬間だった。

報道カメラが捉えた書斎の全景。重厚な樫の机。革張りの椅子。そして机の右端に置かれた万年筆。鷹村は無意識に身を乗り出していた。手に持ったカップが僅かに傾き、茶が指にかかった。熱さに気づかなかった。画面に釘付けになっていた。

万年筆のキャップが、左を向いている。

それだけなら気にも留めない。だが画面が切り替わる直前、窓が映った。書斎の奥にある観音開きの窓。そのクレセント錠が、開位置になっていた。映像はほんの一瞬だった。だが鷹村の目は、三十年の現場経験が磨いた反射で、その一コマを焼き付けていた。

鷹村は茶を一口啜り、カップを置いた。舌の上に広がるのは安い茶葉の渋みだけだ。猫が皿の鰹節を食べ終え、手摺りの上で毛づくろいを始めている。テレビはすでに次のニュースに移っていた。

病死。書斎で倒れていた。心疾患の持病。それ自体に不自然さはない。

だが、窓の錠前が気になった。

鷹村は現役時代、何百という現場を見てきた。書斎で病死した人間の部屋。たいていの場合、窓は閉まっている。冬場なら当然だし、春先でも夜間に書斎の窓を開け放つ人間はそう多くない。防犯上の意識がある資産家なら、なおさらだ。

仮に換気のために開けていたとする。それなら、そういうものだろう。しかし映像で見た限り、窓は閉まっていた。閉まっているのに、錠前だけが開いている。つまり——窓は一度開けられ、そのあと閉じられたが、施錠はされなかった。

病死した人間が、死の間際に窓を開閉する理由があるか。心疾患の発作が起きた人間が、わざわざ窓まで歩いていくか。

考えすぎだ、と鷹村は思った。テレビの映像はほんの数秒だった。画質も粗い。見間違いかもしれない。そもそも自分はもう刑事ではない。警察手帳もない。捜査権もない。他人の死因に口を挟む立場にはない。

立ち上がり、茶碗を流しに置いた。窓の外では三毛猫がまだ手摺りの上にいる。雲の薄い四月の空が広がっていた。洗濯物を干す隣人のラジオから、演歌が微かに聞こえる。平穏な朝だ。この街の、この時間帯に、殺人の可能性を考えている人間は自分だけだろう。

万年筆のことも、気になっていた。

キャップが左を向いている。右利きの人間がペンを置くとき、自然とキャップは右側に向く。右手で書き、右手で戻すからだ。桐生泰造が右利きか左利きかは知らない。だが資産家が愛用する万年筆の置き方には、長年の癖が染みついているはずだ。もし桐生が右利きなら、あの向きは本人が最後に置いたものではないことになる。

「——やめろ」

声に出して、自分を制した。猫が耳をぴくりと動かし、こちらを見た。琥珀色の瞳が、鷹村をまっすぐ捉えている。まるで、やめるのか、と問われたような気がした。

やめろ。もう終わったことだ。お前は刑事じゃない。お前の目は、もう何も見なくていい。三年前に、そう決めたはずだ。あの廊下を最後に歩いたとき、もう現場には立たないと、自分自身に言い聞かせたはずだ。

流しの水を出し、茶碗を洗った。水の冷たさが指先に染みる。四月とはいえ、朝の水道水はまだ冷たい。爪の間に沁みる冷たさが、かえって頭を冴えさせた。止めたいのに、思考が勝手に走り出す。

だが、頭の中で組み上がっていく論理を止めることができなかった。

窓の錠前が開いていた。窓自体は閉じられていた。つまり、窓を開けた人間と、窓を閉じた人間がいる。あるいは同一人物が開けて閉じたが、施錠を忘れた。

施錠を忘れた。その可能性はある。だが、桐生本人が開けて閉じたのなら、習慣的に錠前も掛けるだろう。特に資産家であれば防犯意識は高い。自宅に美術品や金庫を置くような人間が、書斎の窓を無施錠にするだろうか。

では、桐生以外の人間が窓を開閉した。

病死と断定された現場に、桐生以外の人間が窓を操作した痕跡がある。それが事実なら——

鷹村は流しの水を止めた。蛇口から最後の一滴が落ち、シンクの底で小さく弾けた。

「妙だ」

呟きは独り言だった。だが、その二文字を口にした瞬間、背筋を走ったものがあった。懐かしい、と呼ぶには鋭すぎる感覚。現場に立ったとき、辻褄の合わない一点を見つけたとき、背骨の奥で静かに鳴る警報。三年間、一度も鳴らなかったそれが、安物のティーバッグの茶を飲みながら見た朝のニュースで——鳴った。

鷹村は自分の胸に手を当てた。心臓が、普段より速く打っている。老いた体が、頭より先に反応していた。

テレビの画面はもう天気予報に変わっている。今日の東京は晴れ、最高気温十九度。穏やかな春の一日になるでしょう。

鷹村は振り返り、テレビを見た。だがその目はもう天気予報を見ていなかった。

数秒だけ映った書斎の映像を、脳内で再生していた。机の位置。窓との距離。万年筆の角度。クレセント錠の向き。フレームの外にあったはずの部屋の構造を、映り込んだ影と光の角度から推測している自分がいた。影の方向から照明の位置を割り出し、机と窓の距離を推定する。三メートル——いや、二メートル半か。心臓発作の人間が這ってでも届く距離ではある。だが発作の最中に窓を開け、そして閉じる。そんな行動に合理性はない。

病死した人間が、なぜ死の直前に窓の鍵を内側から開ける必要がある。

開けたのが桐生でないなら、桐生が死んだあとに、誰かがあの書斎にいたことになる。

窓の外で、三毛猫が手摺りから飛び降りた。小さな着地音が、静まり返った部屋に響く。

鷹村は自分の手を見た。六十二年分の皺が刻まれた、もう拳銃も手錠も握らない手。この手で何ができる。何をする権利がある。

だが指先は、微かに震えていた。恐れではない。三年間、錆びついていた何かが軋みを上げて動き始める、その振動だった。

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