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白鴉の檻

第1話 第1話「廃工場の裸電球」

第1話

第1話「廃工場の裸電球」

コンクリートに血が落ちる音がした。

ぽたり、と。赤黒い雫が灰色の床に小さな染みを作り、じわりと広がる。自分の血か、相手の血か。もうどちらでもよかった。

廃工場の地下。むき出しの鉄骨が天井を這い、裸電球が黄色い光を投げている。汗と錆と、かすかな血の匂い。湿った空気が肺の底にまとわりつく。天井から落ちる水滴が、どこかで一定のリズムを刻んでいた。観客は三十人ほど。誰もが目を血走らせ、札束を握りしめている。怒声と笑い声が反響し、壁という壁に跳ね返って、地下全体が一つの巨大な喉のように唸っていた。

黒崎蓮は拳にテーピングを巻き直した。

指の関節が軋む。前の試合で痛めた右手の第三中手骨が、鈍い熱を持っている。テーピングの下で皮膚が擦れ、薄い血が滲んだ。プロ時代なら試合前にドクターチェックが入る。テーピングの巻き方一つにもセコンドの目が光っていた。ここにはそんなものはない。壊れたら壊れたままで殴る。それだけだ。

リングなんてものはない。油染みの残るコンクリート床に白線が引かれているだけだ。白線はところどころ掠れて途切れ、誰かが踏んだ靴底の跡がいくつも重なっている。その中央で、タトゥーだらけの男が首を鳴らしている。組織の末端。蓮が三週間かけて辿り着いた、最も口の軽そうな構成員。首から腕にかけて、蛇の鱗のような紋様が皮膚を覆っている。目つきは濁っていたが、体つきは悪くない。腕が長く、リーチがある。素人ではなかった。

「元プロだって? 落ちたもんだな」

男が笑う。蓮は答えない。口を開けば余計なものが漏れる。怒りも、焦りも、今は要らない。呼吸を整える。鼻から吸い、口から細く吐く。心拍が落ち着いていく。視界が研ぎ澄まされ、男の重心の位置だけが鮮明に浮かび上がる。

ゴングの代わりに、鉄パイプが柱を叩く音が響いた。

甲高い金属音が地下に反響し、観客の怒号がそれに重なった。

男が突っ込んでくる。右のフック。体重の乗った一撃だが、予備動作が大きい。左足を踏み込む瞬間に肩が先に回る。教科書通りの癖。蓮は半歩だけ左にずれた。拳が頬の横を通過する。風圧。巻き上がった空気が耳元で鳴った。その隙に蓮の右ストレートが男の顎を正確に捉えた。拳が顎の先端に食い込む感触。硬いものが噛み合い、砕ける寸前の振動が指の骨を伝わる。

衝撃が腕を伝って肩まで抜ける。

男の膝が崩れる。目の焦点が消え、そのまま前のめりに倒れた。コンクリートに額がぶつかる鈍い音。静寂。それから観客の怒号。賭けに負けた連中が椅子を蹴っている。蓮の耳には入らない。

しゃがみ込み、男の襟首を掴んで引き起こす。まだ意識はある。瞳孔が揺れている。焦点の合わない目が蓮の顔を探し、見つけ、そして怯えた。

「聞きたいことがある」

低く、静かに言った。周囲の喧騒を遮断するように、男の耳元に顔を寄せる。汗と安い酒の匂いが鼻をついた。

「——お前の上は誰だ」

男の唇が震える。恐怖。蓮の拳ではなく、もっと別の何かに対する恐怖。瞳の奥に、殴られた痛みとは別種の色が走っている。蓮はそれを見逃さなかった。こいつは知っている。少なくとも、何かを。

「知らねえ……俺はただの——」

蓮は男の右手を掴み、小指を一本だけ逆方向に押した。折る寸前で止める。関節が限界まで引き伸ばされ、腱が軋む感触が蓮の指先に伝わった。男が喉の奥で悲鳴を押し殺した。歯を食いしばり、脂汗が額から顎へ流れ落ちる。

「名前だけでいい」

蓮の声には感情がなかった。脅しでも怒りでもない。ただ事実を確認するだけの平坦な声。それが逆に、男の恐怖を煽った。

「——白鴉」

男の声が掠れた。

「白鴉、って組織だ。俺はそこから仕事を受けてるだけで、幹部の顔も知らねえ。本当だ」

白鴉。蓮はその名を脳裏に刻んだ。二文字が焼き付くように脳の奥に沈む。三ヶ月間、闇の中を手探りで進んできた。壁を叩き、床を這い、指先に触れるものを片端から掴んできた。そして今夜、初めて輪郭のある名前を手に入れた。

男を放し、立ち上がる。観客が道を空ける。誰も蓮に近づかない。半年前、プロのリングに立っていた人間の拳は、この世界では別の意味を持つ。

廃工場の非常階段を上がり、外に出た。夜風が汗を冷やす。四月の空気はまだ冷たい。地下の熱気にほてった肌に、湿った風が染み込んでくる。頭上には雲が低く垂れ込め、星は一つも見えなかった。遠くで首都高の車列が光の帯になって流れている。蓮はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、一つのメッセージを開いた。

何百回と読み返した画面。

『黒い車が来た。怖い』

妹の美月が、死ぬ三十分前に送ってきた最後のメッセージ。既読をつけたのは、すべてが終わった後だった。あの時、蓮はジムでサンドバッグを叩いていた。通知音は聞こえていたはずだ。でも確認しなかった。あと一ラウンド、もう一ラウンドと自分に言い聞かせて、汗を拭きもせずにミットを打ち続けていた。その三十分が、すべてを分けた。

半年前の夜を思い出す。仕事を終えてジムから戻ると、自宅前にパトカーが停まっていた。赤い回転灯が壁を舐めるように照らしていた。近所の住人が数人、遠巻きに立っていた。蓮の足が止まった。玄関ドアが開いていて、見知らぬ革靴が何足も上がり框に並んでいた。母と妹を乗せた車が対向車線にはみ出し、トラックと正面衝突——警察の説明はそれだけだった。居眠り運転。事故。運が悪かった。

嘘だ。

母は酒を飲まない。運転歴二十年で違反すらない。美月のメッセージが届いたのは事故の三十分前。黒い車。怖い。誰かに追われていた。

蓮は警察に訴えた。何度も。通話記録を見てくれ。ドライブレコーダーを調べてくれ。署の待合室で何時間も座り、廊下で刑事を捕まえ、文書で嘆願書を出した。返ってきたのは形式的な対応と、最後には捜査打ち切りの通知だった。一枚の紙きれだった。事故調査の結果、事件性は認められない。そう印字された活字が、蓮の中の何かを静かに殺した。

だから蓮はリングを捨てた。

プロ格闘家としてのキャリア、スポンサー契約、トレーナーとの信頼。全部を投げた。引退会見もしなかった。ジムのロッカーを空にし、グローブとシューズをゴミ袋に詰めた。トレーナーの城戸が「頭を冷やせ」と言った。蓮は何も答えずにジムを出た。合法の世界では真実に届かない。暗闘場に潜り、組織の末端を一人ずつ叩いて情報を引きずり出す。それが蓮の選んだ方法だった。

三ヶ月で八人を倒した。得られた情報は断片的だった。薬物の流通ルート。港湾地区の倉庫。名前のない口座。すべてがぼんやりとした輪郭だけを描いて、核心には届かない。夜ごとに拳を振るい、夜ごとに少しずつ削れていく。体も、心も。鏡に映る自分の顔が、半年前とは別人のようだった。頬がこけ、目の下に影が落ち、瞳だけがぎらぎらと光っている。

白鴉。

今夜、初めて組織の名前が出た。輪郭が一本の線になった。

スマートフォンの画面を消す。美月の笑顔が暗転の中に残像を残す。十七歳だった。来年は大学受験のはずだった。好きな作家の新刊を楽しみにしていた。母は美月の合格祝いに何を作ろうかと、蓮に電話で相談していた。ハンバーグがいいかな、それともちらし寿司。母の声は迷いながらも弾んでいた。あの声も、もうない。

拳を握る。テーピングの下で、拳頭の皮膚が裂けている。痛みはとうに感じなくなった。

「白鴉」

声に出して言った。冷たい空気に言葉が溶ける。

「見つけた」

廃工場の裏手に停めたバイクに跨がろうとした時、ポケットのスマートフォンが震えた。

非通知。

蓮は親指で応答ボタンを押した。

沈黙が数秒。受話口の向こうに、微かな呼吸の気配だけがある。それから、落ち着いた男の声が耳に流れ込んだ。低く、抑揚が少ない。どこか楽しんでいるような響きがあった。余裕のある声だった。自分が安全な場所にいることを知っている人間の声。

『お前の戦いを見ていた』

蓮の背筋に冷たいものが走る。廃工場の中にいたのか。あの観客の中に。それとも——別の方法で。反射的に周囲を見回した。廃工場の壁。錆びたフェンス。暗闘の向こうに並ぶトタン屋根の倉庫群。人影はない。だが見られている感覚が、首筋に張り付いて離れなかった。

「誰だ」

『名乗る前に一つ聞かせろ。白鴉を潰したいか。末端じゃない、中枢をだ』

蓮は答えなかった。沈黙が回答だと、相手もわかっているはずだ。

『いい返事だ』

男の声にわずかな笑みが混じる。

『明日の午前二時、天王洲の第三倉庫。一人で来い。——お前が本気なら、の話だが』

通話が切れた。

蓮はスマートフォンを耳から離し、画面を見つめた。非通知の着信履歴が一行だけ残っている。

罠かもしれない。白鴉の側が蓮の動きを嗅ぎつけ、始末しに来る可能性もある。

だが「中枢」という言葉が引っかかっている。末端を何人倒しても核心に届かないことは、蓮自身が一番よくわかっていた。三ヶ月かけて八人を叩いて、得たのは組織の名前一つ。このペースでは何年かかるかわからない。そしてその間にも、証拠は消え、記憶は薄れ、真実は闇に溶けていく。時間は蓮の味方ではなかった。

バイクのエンジンをかけた。排気音が夜の静寂を裂く。

ヘルメットの中で、美月の声が聞こえる気がした。

怖い、と。

「もう怖がらなくていい」

蓮はアクセルを開いた。暗い道が前方に伸びている。行き先は決まっていない。だが明日の午前二時、天王洲の第三倉庫——そこに何が待っていようと、蓮は行く。

復讐の糸口が、ようやく手の届く場所に落ちてきた。

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