第2話
第2話「天王洲の倉庫街」
午前二時の天王洲。
運河沿いの倉庫街は静まり返っていた。街灯は三本に一本しか点いておらず、残りは割れたガラスを晒して闇に沈んでいる。潮の匂い。錆びたコンテナの列が、巨大な墓標のように並んでいた。蓮はバイクを二百メートル手前で停め、エンジンを切った。ヘルメットを外す。湿った海風が頬を撫でた。
第三倉庫。シャッターが半分だけ上がっている。中に明かりはない。
罠を想定して動線を確認する。左手にフェンス。右手は運河。退路は来た道だけ。最悪の配置だった。だが蓮は足を止めなかった。ジャケットの内ポケットに折りたたみナイフを一本。素手で八人を沈めてきた拳。それだけが手持ちの全てだ。
シャッターの隙間から身を滑り込ませる。
暗闇。目が慣れるまで三秒。コンクリートの床。積み上げられた木箱。奥の壁際に、小さなデスクライトが一つだけ灯っていた。その光の輪の中に、男が座っている。
五十代半ば。灰色のコート。短く刈り込んだ白髪交じりの髪。顔の左側に、こめかみから顎にかけて古い傷痕が走っている。刃物の傷だ。目は細く、表情を読ませない。手元にはマニラ封筒が一つ。
「時間通りだ」
男が言った。電話と同じ声。低く、抑揚が少ない。だが対面すると、声の奥に潜む重さが違う。場数を踏んだ人間の空気。蓮の全身が自然と臨戦態勢に入った。重心を落とし、両足の間隔を肩幅に開く。
「名乗れ」
「神崎。元公安。今は誰の飯も食っていない」
元公安。蓮の目が細くなった。警察組織の中でも闇に近い領域で動いていた人間。信用できる根拠は何もない。だが排除する根拠もまだない。
「白鴉について知っている、と言ったな」
「座れ。立ち話で済む内容じゃない」
木箱を椅子代わりに勧められた。蓮は壁を背にできる位置を選び、腰を下ろした。退路と神崎の両手が同時に視界に入る角度。神崎はそれを見て、わずかに口角を上げた。
「いい癖だ。生き延びる人間の動き方をしている」
「本題に入れ」
神崎がマニラ封筒を開き、中身をデスクライトの下に並べた。
写真。五枚。蓮の目が凍りついた。
一枚目。母の車。事故現場ではない。事故の二時間前、コンビニの駐車場で撮影されたもの。タイムスタンプが右下に入っている。母の車の三台後ろに、黒いセダンが停まっていた。ナンバーが鮮明に読める。
二枚目。同じ黒いセダン。別の日時。港湾地区の倉庫前。車の横に立つ男が二人。顔は潰してあるが、体格と服装がわかる。
三枚目。銀行の防犯カメラ映像のプリントアウト。母が窓口で何かを受け取っている。日付は事故の二週間前。
四枚目。同じ銀行。同じ日。母が出た直後、窓口に現れた別の人物。顔はキャップで隠れているが、首筋にタトゥーが見える。蛇の鱗——昨夜蓮が殴り倒した男と同じ紋様。
五枚目。母の車の残骸。正面衝突後の状態。だがフロントバンパーの右側に、衝突痕とは別の擦過痕がある。赤い矢印が貼り付けてあった。
「お前の母親は二十三年間、港南信用金庫で窓口業務をしていた」
神崎の声が淡々と事実を並べる。
「昨年十月、定期預金の処理中に不審な口座間送金を目にした。表向きは貿易会社の決済処理。実態は白鴉の資金洗浄ルートだ。年間推定八十億。母親は何も知らずにその一端を見た。ただそれだけだ」
蓮の指が木箱の縁を握りしめた。爪が木材に食い込む。
「見ただけで殺したのか」
「白鴉は可能性を潰す組織だ。通報するかもしれない。誰かに話すかもしれない。その『かもしれない』を許容しない。お前の母親が銀行を出た直後から尾行が始まっている。二週間の監視。家族構成の洗い出し。そして実行」
蓮は写真を一枚ずつ手に取り、細部を目に焼き付けた。指先が微かに震えている。怒りではなかった。もっと冷たいもの。氷の杭が内臓を突き刺すような感覚が、腹の底から這い上がってくる。
「事故に偽装された。対向車のトラック運転手は居眠り運転として処理されたが、あの運転手は事故の三日後に自殺している。遺書つきでな。書かされた遺書だ」
「証拠は」
「今お前に見せたものが全てだ。法廷には持ち込めない。公安時代に別件で白鴉を追っていた。その過程で副産物として拾った情報だ。公安を抜けた時に持ち出した」
蓮は五枚の写真を封筒に戻した。呼吸を整える。鼻から吸い、口から吐く。心拍が跳ね上がっていることを自覚し、意識的に制御する。感情に飲まれたら判断を誤る。プロ時代にリングで学んだことだ。
「それで。俺に何をさせたい」
核心。蓮は神崎の目を正面から見据えた。情報を無償で渡す人間はいない。元公安ならなおさらだ。必ず交換条件がある。
「白鴉の幹部は七人。その中で実行部隊を統括しているのが鬼頭という男だ。お前の家族を消す直接指示を出したのは、こいつだ」
鬼頭。名前が一つ増えた。白鴉、そして鬼頭。輪郭がさらに一段鮮明になった。
「鬼頭に会いたければルートは一つしかない」
神崎が新しい写真を一枚、ライトの下に置いた。
金網で囲まれたリング。観客は影になって見えないが、規模が大きい。数百人はいる。リングの中では二人の男が血まみれで組み合っている。写真の下部に走り書きのメモ。『鉄檻——年二回開催。白鴉主催。八名トーナメント。優勝者は幹部との直接面会権』
「鉄檻。白鴉が運営する裏格闘トーナメントだ。参加者は白鴉が選別する。優勝者だけが七幹部の一人と会える。次回の面会相手が鬼頭だという情報を掴んでいる」
蓮は金網リングの写真を見つめた。かつてのプロ格闘技とは違う。ルールがあるのかどうかすら怪しい。だが目的が明確な以上、手段は選ばない。
「参加条件は」
「白鴉の息がかかった非合法ファイトで三勝。それが資格審査だ。場所と日程は俺が手配する。お前の腕なら問題ないだろう」
「なぜ俺を選んだ」
神崎が立ち上がった。コートの裾が揺れる。
「公安では白鴉に手が届かなかった。組織の内側に入り込める駒が要る。お前は家族を殺された動機がある。元プロの実力がある。そして何より——失うものがもうない人間は止められない」
的確な分析だった。だからこそ信用できない。蓮の判断を読み切った上で駒として使おうとしている。その計算が透けて見える。
「条件を聞いてない」
「鬼頭から情報を引き出せ。殺すな。白鴉の資金源、人員構成、上位幹部の所在。それが俺への報酬だ」
殺すな。その一語が引っかかった。蓮の目的は復讐だ。情報収集ではない。だが鬼頭に到達する手段が他にない以上、神崎のルートに乗るしかなかった。少なくとも今は。
「資格戦の詳細を送れ」
「明日中に届ける。連絡手段は——」
神崎が使い捨ての携帯電話を投げてきた。蓮は片手で受け取った。安い機種。画面にはすでに一つの番号だけが登録されている。
「一つ忠告しておく」
神崎が倉庫の出口に向かいながら、振り返らずに言った。
「白鴉が三ヶ月間お前を泳がせていたのは、偶然じゃない。末端を八人潰されて放置する組織はない。つまりお前はすでに見られている。暗闘場で名前を聞き出した時点で、お前の情報は上に上がっている」
蓮の足が止まった。
「急げ。資格戦の三勝を取れ。鉄檻に乗れ。それがお前を守る唯一の方法だ。白鴉にとって利用価値がある間は、消されない」
シャッターの隙間から神崎が消えた。足音は三歩目で聞こえなくなった。
蓮は一人、倉庫の暗闘に立ち尽くした。デスクライトの光が足元を照らしている。マニラ封筒を握る手に力がこもった。
母は何も悪くなかった。銀行の窓口で、たまたま一つの送金記録を見た。それだけで殺された。美月は巻き込まれただけだ。十七歳の少女が、何も知らないまま母と一緒に車に乗っていた。それだけで命を奪われた。
使い捨ての携帯が震えた。メッセージ。
『資格戦第一戦。四月十八日。港湾C地区第七倉庫。対戦相手——元外人部隊。覚悟しておけ』
蓮は封筒をジャケットの内ポケットに押し込み、シャッターをくぐった。夜風が頬を叩く。運河の水面が倉庫の灯りを反射して、黒い油のように光っていた。
鉄檻。裏格闘トーナメント。
その先に、鬼頭がいる。