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白鴉の檻

第3話 第3話「築三十年の1K」

第3話

第3話「築三十年の1K」

朝の光が薄いカーテンの隙間から差し込んでいた。

蓮のアパートは築三十年の1Kだ。六畳一間に台所がくっついただけの空間。壁紙は黄ばみ、天井の隅にはカビの染みが広がっている。ベッドはなく、敷きっぱなしの布団の上で蓮は目を開けた。昨夜の天王洲から戻ったのは午前三時過ぎ。眠れたのは二時間もないはずだが、体は動いた。神崎から受け取ったマニラ封筒が枕元にある。夢ではなかった。

台所で水を飲み、顔を洗った。蛇口から出る水は冷たく、意識の輪郭がようやく固まる。鏡に映る自分の顔を見る。右の拳頭が紫色に腫れている。一昨日の暗闘場の残り物だ。冷水で冷やしながら、ふと玄関の方に意識が向いた。

気配。

蓮が玄関に目を向けた直後、ドアが三回叩かれた。規則正しいリズム。暴力の気配はない。だが蓮は壁に背をつけ、ドアの正面から外れた位置に立った。

「蓮。俺だ」

聞き覚えのある声。低く、太く、落ち着いている。蓮の体から緊張が半分だけ抜けた。

ドアを開ける。

辰巳幸三。五十八歳。蓮が十二歳から師事した格闘技ジム「城嶺会」の師範代。角刈りの白髪。日に焼けた肌。柔道着の襟で擦れ続けた首筋には、厚い胼胝が残っている。現役時代は全日本選手権三位。今はジムで後進の指導にあたっている。蓮にとっては親父以上に拳の使い方を叩き込んだ人間だった。

「上がるぞ」

蓮が答える前に辰巳は靴を脱いでいた。狭い部屋を一瞥し、眉をひそめる。流しには洗い物が溜まり、ゴミ袋が二つ、台所の隅に放置されている。窓際にはプロテインの空容器とテーピングの切れ端が散らばっていた。

「荒れてるな」

「用件は」

「座れ。立ち話で済む内容じゃない」

昨夜、神崎にも同じことを言われた。蓮は布団の端に腰を下ろした。辰巳は台所の椅子を引っ張ってきて、蓮の正面に座った。膝と膝の距離が近い。狭い部屋では逃げ場がなかった。

「城戸から聞いた。お前、暗闘場に出入りしてるそうだな」

城戸。蓮の元トレーナーだ。業界は狭い。裏の格闘シーンに元プロが現れれば、噂はすぐに回る。蓮は否定しなかった。

「やめろ。今ならまだ戻れる」

辰巳が上体を前に倒した。目が据わっている。説得ではなく、命令に近い口調だった。

「WBCのランキング委員会に話をつけた。復帰戦の相手も目星がついている。お前の実力なら半年でタイトルマッチまで——」

「興味がない」

「蓮」

「俺の家族を殺した連中がいる。合法のリングに立ってる暇はない」

沈黙が落ちた。エアコンの室外機が低く唸る音だけが部屋に残った。辰巳の表情が硬くなった。知っている、と蓮は思った。辰巳も母と美月の死を事故だとは信じていない。葬式の日、辰巳は蓮の肩を掴んで「早まるな」と言った。その目には、何かを察した人間の色があった。

「お前の母さんな」

辰巳が声を落とした。

「最後に会ったのは正月だった。美月ちゃんと三人でジムに来て、お前の試合のビデオを観てた。母さん、お前が殴られるたびに目を塞いでたよ。美月ちゃんが隣で『お兄ちゃん大丈夫だよ』って笑ってた」

蓮の顎が強張った。

知っている。覚えている。正月のジムは暖房が壊れていて、母は膝掛けを二枚重ねにしていた。吐く息が白く、それでも母はビデオが終わるまで席を立たなかった。美月はジムの自販機でココアを買って、蓮にも一本差し出した。「はい、チャンピオンにはこれ」。蓮はまだチャンピオンではなかったが、美月はいつもそう呼んだ。缶のココアは温かく、美月の指先は冷たかった。帰り際、母が「体だけは気をつけてね」と言った。蓮は「わかってる」と答えた。いつもと同じやりとり。何百回と繰り返した会話。それが最後の正月になるとは、誰も思わなかった。

日曜の朝、美月は母と一緒にスーパーに行くのが習慣だった。蓮が実家にいる時は三人で行った。美月はカートを押す係で、母が食材を選び、蓮が重い荷物を持つ。美月は必ずアイスコーナーで立ち止まった。「一個だけ」と言いながら二個選ぶ。母は呆れた顔をして、結局三個買う。帰り道、美月が蓮の腕にぶら下がって「お兄ちゃん背ぇ伸びた?」と聞く。蓮が「お前が縮んだんだ」と返す。美月が笑う。母が二人の後ろを歩きながら笑う。

それだけの日常だった。何も特別じゃない。ただ温かかった。もう二度と手に入らない温度。

蓮は奥歯を噛み締めた。回想を断ち切る。感傷は判断を鈍らせる。プロ時代に嫌というほど学んだ。リングの上で過去を振り返った瞬間に、拳が飛んでくる。

「辰巳さん」

蓮は師範代の目を真っ直ぐに見た。

「合法のリングでは真実に届かない。警察は動かなかった。半年間、あらゆる手段を試した。全部駄目だった」

「だからって——」

「白鴉という組織が母さんと美月を殺した。口封じだ。母さんが銀行で偶然見た送金記録が原因で、二人とも消された。俺にはそれを証明する手段がない。法で裁く方法がない。なら、自分の拳で辿り着くしかない」

辰巳の拳が膝の上で握られた。太い指が白くなるほど力がこもっている。怒りなのか、悔しさなのか。蓮にはわからなかった。

「お前が死んだら、あの二人を覚えている人間がいなくなるんだぞ」

重い一言だった。蓮の胸の奥を正確に抉る。父はいない。親戚とは疎遠だ。母と美月の記憶を持つ人間は、もうほとんど残っていない。蓮が消えれば、二人の存在は世界から完全に消える。

だが、それでも。

「死にません」

蓮は立ち上がった。辰巳を見下ろす。

「必ず、あいつらの前に立つ。母さんと美月に何をしたか、自分の口で言わせる。それまでは死なない」

辰巳は長い間、蓮を見上げていた。何かを言おうとして、やめた。それを二度繰り返してから、ゆっくりと立ち上がった。椅子を元の位置に戻す。几帳面な動作だった。

「止められんか」

「無理です」

「——そうか」

辰巳が玄関に向かった。靴を履き、ドアノブに手をかけて止まった。振り返らない。

「構えが甘くなってるぞ。右に体重が偏ってる。暗闘場の癖だ。直せ。ルールのない場所で長くやると、基本が崩れる」

師範代の言葉だった。最後まで蓮を弟子として見ている。

「……はい」

ドアが閉まった。辰巳の足音が階段を降りていく。重く、確かな歩調。やがて聞こえなくなった。

蓮は窓辺に立った。下の駐車場に辰巳の軽トラックが見える。運転席に乗り込んだ辰巳が、しばらく動かなかった。ハンドルに額を押し当てているように見えた。一分ほどしてエンジンがかかり、軽トラックが路地を曲がって消えた。

枕元のマニラ封筒に目を落とす。母が写った防犯カメラの写真。窓口で書類を受け取る母の横顔は穏やかだった。二十三年間、同じ銀行で同じ仕事を続けた人だ。不審な送金を見たことを、誰にも話していなかったかもしれない。それでも殺された。「かもしれない」を許容しない組織。神崎の言葉が甦る。

使い捨て携帯が鳴った。

メッセージ。神崎から。

『鉄檻の参加条件を正式に確認した。裏社会での実績——非合法ファイト三勝が必須。一戦目は予定通り四月十八日。二戦目と三戦目は一戦目の結果次第で日程が決まる。相手は白鴉が指定する。選べない。すべて白鴉の目が光っている中での試合になる。つまり三戦すべてが審査だ。勝ち方も見られている。覚えておけ』

蓮は携帯を閉じた。

三戦。すべてが審査。勝つだけでは足りない。白鴉が認める勝ち方をしなければ、鉄檻には辿り着けない。

窓の外で、朝の街が動き始めていた。通勤の車が走り、どこかで犬が吠えている。日常の音。蓮が捨てた世界の音だ。

辰巳の言葉が耳に残っている。構えが甘くなっている。右に偏っている。師範代は正しい。三ヶ月の暗闘場で、蓮の格闘技は変質し始めていた。ルールのない殴り合いに最適化され、本来の技術体系が崩れかけている。資格戦の相手は元外人部隊。素人ではない。基本を捨てたまま挑めば、足元を掬われる。

蓮は部屋の中央に立ち、構えを取った。

左足を前に。右足を引く。重心を正中線に戻す。辰巳に叩き込まれた基本の構え。十二歳の自分が、ジムの鏡の前で何千回と繰り返した形。

拳を握る。開く。握る。指の関節が鳴った。腫れた右拳に鈍い痛みが走るが、構わない。痛みは体が生きている証拠だ。

四月十八日まで、六日。

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