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閉鎖病棟の亡霊たち

第2話 第2話「条件という一語」

第2話

第2話「条件という一語」

条件。

 その一語が、薄暗い廊下に硬く反響した。乾いた空気が音を吸い込まず、壁と天井の間で何度も跳ね返って、やがて闇の奥に消えていった。

 私はまだ防火扉に背をつけたまま座り込んでいた。立ち上がろうとして、膝に力が入らなかった。冷たい鉄扉の感触が薄いスクラブ越しに背骨まで染みている。足元に転がる三つの灰色の人影——あれと同じものを、ついさっき七〇五号室で見たばかりだ。この男は、あれを三体、鉄パイプ一本で倒した。入院着を着た患者が。

「……条件って、何」

 ようやくそれだけ絞り出した。声が掠れていた。喉の奥が乾ききって、舌が上顎に張りつくような感覚があった。

 男は鉄パイプの先端で足元の影を軽く突いた。反応はない。完全に動かなくなっている。それを確認するような仕草が、妙に手慣れていた。まるで何十回と繰り返してきた動作のように、無駄がなかった。

「立てるか」

 質問に質問で返された。私は壁に手をついて、なんとか膝を伸ばした。足が震えている。情けないことに、それを隠せなかった。壁のペンキが指先の下でざらついて、爪の間に細かい粉が入り込んだ。

「名前は」

「……柊。柊真琴」

「看護師だと言ったな」

「言ってない。あなたが聞いたんでしょう」

 男の目が、わずかに細まった。品定めするような視線だった。

「陣内だ。いつからここにいるかは分からない。気づいたらベッドの上にいた」

 陣内。聞き覚えのない名前だった。少なくとも、三年前に私が担当していた患者の中にはいない。だが入院着を着ている以上、この病棟の患者だったことは確かだ——閉鎖後の、この病棟の。

「あんたはどうなんだ。なぜこんな場所にいる」

「分からない。気がついたら廊下に倒れてた」

 陣内は数秒、無言で私を見つめた。嘘を探るような目だった。非常灯の薄赤い光の下で、その瞳の色は判然としなかったが、視線の圧だけは確かに感じた。それから肩の鉄パイプを下ろし、壁に立てかけた。金属が壁面に触れる硬い音が、静寂の中でやけに大きく響いた。

「同じか」

 同じ。つまりこの男も、気づいたらここにいた。記憶が途切れている。目覚めた経緯を覚えていない。私と同じように。

 防火扉の向こう側は静かだった。園田は——園田だったものは、もう追ってきていないらしい。だが安心はできなかった。あの引きずるような足音が、いつまた聞こえてくるか分からない。防火扉の小窓から覗く向こう側の廊下は、非常灯すら消えて完全な暗闇に沈んでいた。

「さっきの話。条件って何」

 繰り返すと、陣内は廊下の西側——暗闇に沈んだ先を顎で示した。

「この棟の構造は把握してある。非常口、階段、エレベーター。使えるものと使えないものも確認した。二階から一階に降りるルートは三つあるが、うち二つはあいつらが集まっていて通れない。残る一つは西端の非常階段だが、途中の踊り場にバリケードが組まれている」

 淡々と、しかし正確な言い方だった。まるでブリーフィングのようだった。患者の口調ではない。

「一人では崩せない。手が要る」

「……それが条件? 手伝えってこと?」

「半分だ」

 陣内が一歩近づいた。非常灯の赤い光が、その顔の右半分だけを照らした。頬骨の高い、彫りの深い顔立ち。四十代半ばくらいか。だがその目の奥にある鋭さは年齢とは関係なかった。何かを見定め、計算し、値踏みしている目だ。

「俺は——この病棟に入る前の記憶がほとんどない。名前と、ここに来てからのことは覚えている。だが、それ以前が霧の中だ。自分が何者かも分からん」

 記憶喪失。それが本当なら——いや、今はそれを疑っている余裕がない。

「看護師なら、カルテを読めるだろう。患者情報にアクセスできれば、俺が何者かの手がかりが掴める。それを手伝え。それが条件だ」

 私は陣内の顔を見上げた。入院着の下の体つきは、長期入院患者のそれではなかった。筋肉の張り方、重心の置き方。普通の患者は、あんなふうに鉄パイプを振り回せない。あんなふうに三体のゾンビを——ゾンビ。自分の中でその単語が自然に出てきたことに、小さな戦慄を覚えた。

「……分かった」

 選択肢がないことは理解していた。一人でこの状況を切り抜けられるとは思えない。園田のように変貌した元同僚が、この棟に何人いるか分からない。非常灯の電池がいつ切れるかも分からない。この男が信用できるかどうかは、もう少し時間をかけて判断するしかない。

「ただし、こっちにも条件がある」

 陣内の眉がわずかに動いた。

「情報は共有すること。見つけたもの、分かったことは隠さない。それでいい?」

 数秒の沈黙。陣内の視線が私の目を捉えたまま微動だにしなかった。値踏みの続きなのか、それとも信じるに値するかを測っているのか。それから陣内は鉄パイプを拾い上げ、小さく顎を引いた。了承の意味だろう。言葉にはしなかった。

 二人で西側廊下を進んだ。陣内が前、私が後ろ。彼が立ち止まるたびに私も止まり、安全を確認してから進む。自然とそのリズムが出来上がった。会話はなかった。廊下にはゾンビの気配はなかったが、陣内は各病室のドアの前を通るたびに足を止め、耳を澄ませてから進んだ。消毒液の残り香が、埃とカビの匂いに半ば負けながら、ときおり鼻を掠めた。かつてはナースステーションから見通せた清潔な廊下だったはずだ。それが今は、非常灯の赤い明滅だけが照らす薄闇の通路になっている。

 七一二号室の前で、陣内が手を上げた。止まれ、の合図。

 中から音がしていた。ぐちゅり、ぐちゅり、と何かを噛み砕くような——湿った咀嚼音。規則的に、等間隔に、繰り返されている。食事をしている、と直感的に理解した瞬間、胃の底から酸っぱいものがせり上がってきた。口の中に苦い唾液が溜まり、喉の筋肉が痙攣するように収縮した。必死に嚥下して、音を殺した。

 陣内が首を横に振った。行くな。

 私も頷いた。ドアには触れず、音を立てないように通り過ぎた。背中を向けている間、あの咀嚼音がずっと聞こえていた。何を食べているのか。——考えるな。考えるな。

 西端の非常階段に着いた。陣内の言った通り、踊り場にバリケードが築かれていた。ストレッチャー二台、パイプ椅子、点滴スタンド、マットレス。雑に積み上げられているが、量がある。

「これ、誰が作ったの」

「分からん。俺が目覚めた時にはこうなっていた」

 つまり、私と陣内以外にも正気の人間がいた可能性がある。あるいは、いた。過去形で。

 陣内がストレッチャーの車輪のロックを外し始めた。私も反対側に回り、フレームを掴んだ。冷えた金属が掌に食い込む。二人がかりで一台目を横にずらす。金属がこすれる甲高い音が階段室に反響し、思わず歯を食いしばった。

「すまん、静かには無理だ」

 陣内が低く言った。謝罪というより、事実の確認だった。

 二台目のストレッチャーの下に引っかかったパイプ椅子を引き抜こうとして、手が滑った。椅子が倒れ、階段の手すりにぶつかって、かん、と硬い音を立てた。反響が上の階まで駆け上がっていく。

 二人とも動きを止めた。

 五秒。十秒。二十秒。

 上階からは何も聞こえなかった。だが——下から、かすかに、何かが聞こえた。

 声だ。

 人の声。それもいくつもの声が重なっている。呻きではない。もっと不明瞭な、言葉になりかけて崩れたような断続的な発声。それが階段の下——一階から、あるいはもっと下から、反響して這い上がってきていた。コンクリートの壁が音を増幅し、四方から包み込むように響いてくる。何人分の声なのか、もう数えられなかった。

 陣内がゆっくりと鉄パイプを握り直した。

「何体いると思う」

「……分からない。でも、三体や四体じゃない」

 群れだ。一階のどこかに、あの灰色の元・人間たちが群れている。

 バリケードの残りを急いで片付けた。もう音のことは気にしていられなかった。マットレスを踊り場の端に寄せ、最後のパイプ椅子をどかしたとき、踊り場の壁が目に入った。

 非常灯が赤く点滅するたびに、壁の文字が浮かび上がった。

 爪で——いや、指で直接引っ掻いたのだろう。コンクリートの表面が線状に削られ、薄い血の跡がこびりついていた。震える指先で、一文字ずつ、刻みつけたのだと分かる筆跡。血は既に黒く乾いていたが、削り跡の深さが、それを刻んだ者の切迫を物語っていた。

「なんだ、これは」

 陣内が壁に顔を近づけた。

 二文字。たった二文字が、そこに刻まれていた。

 ——ミルナ

 見るな。

 何を。何を見るなというのか。

 私は壁の文字から視線を引き剥がせないまま、一階から這い上がってくる声を聞いていた。声は少しずつ、確実に、近づいていた。

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