第1話
第1話「消毒液のリノリウム」
冷たい床の感触で、意識が戻った。
頬に押し当てられているのはリノリウム。消毒液と、その下に潜むかすかな錆の匂い。私は——どこにいる。
体を起こそうとして、右肘が何かにぶつかった。金属の脚。パイプ椅子だ。壁際に並べられた、あの安っぽいパイプ椅子。目を開けると、天井の非常灯が赤く明滅していた。二秒ごとに、赤。闇。赤。闇。その繰り返しの中で、見覚えのある廊下の輪郭が浮かび上がる。
B棟、二階。東側の廊下。
知っている。この場所を、私は知っている。
柊真琴。元看護師。三年前にこの病院を追われた、元・看護師。それが私だ。最後に覚えているのは、アパートの台所でお湯を沸かしていたこと。やかんの蒸気が窓ガラスを曇らせて、外の街灯がぼやけて見えた——あの穏やかな夜の記憶と、この場所が繋がらない。
どうして私はここにいるのか。
立ち上がると、膝が笑った。体が重い。まるで長時間うつ伏せに倒れていたかのように、左腕全体がしびれて感覚がない。どれくらい気を失っていたのか分からない。非常灯の点滅だけでは時間の感覚が掴めなかった。窓はすべてブラインドが降りていて、外の明るさも分からない。
廊下を数歩進んだとき、奥のほうで何かが倒れる音がした。
がらん、と金属が床を打つ乾いた反響。点滴スタンドだ、と直感的に分かった。三年間この音を聞いて働いてきたのだから。
誰かいるのだ。当然だろう。ここは病院なのだから——いや、違う。B棟は閉鎖されたはずだ。私が辞めた後、じきに閉鎖になったと風の噂で聞いた。患者は全員転棟か退院になり、もう誰もいないはずの棟。
それなのに、点滴スタンドが倒れた。
足音を殺して、ナースステーションに向かった。三年前まで毎日通った場所だ。体が覚えている。暗闇の中でも、角を曲がるタイミングも、手すりの高さも、消火器の位置も、指先が勝手になぞれた。
ステーションの引き戸は半開きだった。中に滑り込むと、デスクの上に紙が散らばっていた。埃を被った電話機。使い捨ての手袋の空箱。そして、ホワイトボードに貼り付けられたままの勤務表。
非常灯の赤い光が、ちょうどそこを照らした。
日付は三年前の十月十七日。
あの日だ。
私が夜勤で担当していた患者——七〇三号室の宮瀬さんが容態急変を起こし、そのまま亡くなった日。原因は私の投薬ミスだとされた。主任の笹岡が作成した報告書にはそう書かれていた。遠藤先生は何も言わなかった。園田は目を合わせなかった。
誰も、私の話を聞かなかった。
勤務表の「柊」の文字を、指先でなぞった。インクは褪せているのに、妙にくっきり読めた。まるで誰かが意図的に残したみたいに。
その時、足元に視線が落ちた。
ステーションの床から廊下に向かって、何かが点々と続いている。赤黒い染み。乾いてはいるが、それが何であるかは分かった。看護師を三年やっていれば、血痕くらい見分けがつく。染みの一つ一つは五百円玉ほどの大きさで、等間隔に廊下へと伸びていた。歩きながら滴り落ちたもの。誰かが——あるいは何かが、傷を負ったまま廊下を移動した痕跡だった。
血の跡は、廊下の東側——七〇五号室の方向に続いていた。
行くべきではない。そう思った。思ったのに、足が動いた。この場所で何が起きているのか、分からないまま逃げることのほうが怖かった。少なくとも、今の私にとっては。
七〇五号室の手前まで来たとき、声が聞こえた。
「——だれか」
低い、掠れた女の声。聞き覚えがあった。
「だれか、いるの……たすけて……」
園田だ。園田美咲の声だった。
三年前、私の隣のシフトに入っていた同僚。宮瀬さんの急変の夜、一緒に夜勤だったはずなのに、「私は別の患者を見ていた」と証言した女。私を見捨てた一人。
恨みがないと言えば嘘になる。それでも——助けを求める声を無視できるほど、私は冷たい人間にはなれなかった。三年経っても、それは変わらなかったらしい。自分でも呆れる。
ドアに手をかけた。少しだけ開いている隙間から、ぬるい空気が漏れてきた。湿度が高い。そして匂い。甘いような、饐えたような、生ぬるい腐敗の気配が鼻の奥にまとわりついた。
「園田さん」
声をかけながら、ドアを押し開けた。
非常灯の赤い点滅が、室内を断続的に照らした。ベッドが一台。その横に、人影が立っていた。
園田美咲——の形をした、何か。
最初に目に入ったのは肌の色だった。灰色。生きている人間の色ではない。腕も、首も、顔も、均一な灰色で覆われていた。ナース服はそのままだった。三年前と同じ、薄いピンクのスクラブ。名札まで付いている。「園田」と書かれた、あの安っぽいプラスチックの名札。
そして目が合った。
濁っていた。白目の部分が黄ばんで、瞳孔の境目が曖昧に滲んでいた。あの目は何も見ていない。何も見ていないのに、こちらを向いている。
「——まこ、と、ちゃ」
口が動いた。唇の端がひび割れて、黒っぽい液体がつたっていた。
悲鳴が喉元までせり上がった。噛み殺した。声を出してはいけない。理由は分からない。分からないけれど、この空間に響く大きな音は何かを呼び寄せる——そんな確信があった。
後ずさった。一歩。二歩。背中がドア枠にぶつかった。
園田が——園田だったものが、足を引きずって近づいてくる。関節の動きがおかしい。膝が逆方向にわずかに曲がるたびに、じゅくり、と湿った音がした。あの軽やかだった足取りの面影はどこにもない。かつて夜勤明けの休憩室で、私より先にコーヒーを入れてくれた手。その指先が今、不自然な角度に折れ曲がったまま宙を掴んでいた。
私は振り返って走った。
廊下を駆けた。スニーカーの底がリノリウムを叩く音が、嫌になるほど響いた。後ろから、ずるり、ずるり、と何かを引きずる音が追いかけてくる。速くはない。だが止まらない。
防火扉。B棟の中央にある鉄の防火扉が、視界の端に見えた。あれを越えれば西側区画だ。閉めれば——少なくとも時間は稼げる。
全体重をぶつけるようにして防火扉を押し開け、反対側に転がり込んだ。肩から床に打ちつけられ、鈍い痛みが走ったが構っていられない。振り返り、扉を引く。重い。錆びた蝶番が抵抗する。廊下の奥で、赤い点滅に照らされた灰色の影が、まだこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
扉が閉まった。ロックバーを落とす手が震えていた。
金属の向こう側から、どん、と何かがぶつかる鈍い音。一度。それきり。
静寂が戻った。
私は防火扉に背をつけたまま、ずるずると座り込んだ。息が荒い。心臓が耳の奥で鳴っている。冷たい鉄の扉越しに伝わる振動はもうなかった。それでも肩甲骨の間を、じっとりとした嫌な汗が流れ落ちていった。
園田は——もう人間ではなかった。あれは何だ。病気か。感染か。あの灰色の肌、濁った目、壊れた関節。医療従事者として何か説明をつけたいのに、知識が追いつかない。あんな症状は教科書にない。脳の一部では感染症や神経変性疾患の分類を必死にめくっているのに、該当する項目が一つも見つからなかった。
呼吸を整えようとした、その時。
西側廊下の奥から、足音が聞こえた。
今度は引きずる音ではなかった。しっかりとした、人間の足音。そして——金属が何かにぶつかる、硬い音。
非常灯が赤く点滅し、廊下の先に人影を映し出した。
大柄な男が、こちらに向かって歩いてきていた。右手に鉄パイプを握っている。その足元には、動かなくなった三つの人影が転がっていた。灰色の肌。あの灰色の肌だ。
男が立ち止まり、こちらを見た。
「——看護師か」
低い声だった。感情の読めない、平坦な声。
答えられなかった。声が出なかった。
男は鉄パイプを肩に担ぎ直すと、こちらに数歩近づいた。入院着を着ている。だが、その体つきも、立ち方も、歩き方も、患者のそれではなかった。目だけが生きていた。闇の中でも分かるほど鋭く、こちらの一挙一動を計っていた。
「ここから出る方法は知っている」
男がそう言った。
「——ただし、条件がある」