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贄守 還りの儀

第3話 第3話

第3話

第3話

祠の中に、入るしかなかった。

背後の足跡から目を逸らし、開け放した扉をくぐる。理由は単純だ。ここまで来て引き返す人間なら、最初から山には入らない。懐中電灯の光を床に這わせながら、一歩、また一歩。板張りの床は意外にしっかりしていて、体重をかけても沈まなかった。踏むたびに乾いた木の匂いが足元から立ち上る。埃っぽさの奥に、どこか甘い、腐葉土とも線香ともつかない有機的な匂いが混じっていた。だがその確かさがかえって不自然だった。八十年、人の手が入っていないはずの木材が、なぜこれほど保っているのか。

正面の壁に掛かった木札に光を当てた。墨書は滲んで半分以上読めなかったが、「還」の一字だけがやけに鮮明に残っていた。まるでその字だけが別の時間を生きているかのように、墨の黒が深く、輪郭が鋭かった。その下の台に載った燭台は真鍮製で、蝋の溶け残りがこびりついている。指で触れると、蝋はまだわずかに弾力があった。爪の先に食い込むような、生温い柔らかさ。完全に石化していない。数年、いや数ヶ月以内に火が灯されていた可能性がある。

台の右側に、棚のような造りがあった。板を渡しただけの粗末なもので、その上に布が被せてある。色褪せた木綿の風呂敷。手を伸ばして持ち上げると、下から四角い物が現れた。

和綴じの冊子だった。

表紙には「還りの儀 次第書」と、細い筆跡で記されていた。

俺の指が震えたのは、恐怖ではなく興奮だった。匿名メールが告げた「降霊儀式の痕跡」。それが今、俺の手の中にある。冊子を持ち上げると、思ったよりも重かった。和紙が幾重にも綴じられていて、厚さは二センチ近い。表紙をめくると、最初のページに墨で描かれた図があった。

円の中に七つの点が配置されている。円の外側に文字が並び、中央には祭壇らしき四角い図形。七つの点のそれぞれに、細い線で名前のようなものが添えられていたが、墨が薄れてほとんど判読できない。唯一、円の最下部の点に添えられた文字だけが辛うじて読めた。「——子」。女の名前の末尾だろうか。その点だけ、他よりわずかに大きく描かれている気がした。

次のページ、その次のページ。手順が記されていた。

『一、死者ノ名ヲ正シク呼ブコト』

『二、生キ血ヲ祭壇ニ注ギ、道ヲ開クコト』

『三、死者ノ生前ノ縁ニ触レ、魂ヲ繋ギ止メルコト』

図入りで、祭壇の配置、供物の並べ方、呼びかけの文言まで細かく指定されている。血を媒介にして死者の魂を現世に呼び戻す——「還す」ための手順書。降霊というより、召喚に近い。ただし文言の端々に「鎮メ」「解キ放ツ」という表現があり、単に呼び戻すだけでなく、何かから解放する意味合いも含まれているようだった。

俺はカメラを構え、ページを一枚ずつ撮影し始めた。シャッター音が祠の中で硬く反響する。静寂の中ではその音すら暴力的に感じられた。天井の梁に跳ね返った音が、一拍遅れて耳に戻ってくる。その反響の仕方で、この祠が見た目以上に奥行きがあることに気づいた。ファインダー越しに文字を追いながら、頭の中で記事の構成が組み上がっていく。戦前の山村に伝わる降霊儀式の実物資料。これだけで連載三回分の素材になる。

七ページ目を撮り終えて、八ページ目に手をかけたとき。

背後で、床が鳴った。

ぎし、と。

一瞬、自分の体重が移動して鳴らしたのだと思った。だが俺は動いていなかった。片膝をついた姿勢のまま、カメラを構えたまま、凍りついていた。音は、俺の背中側——祠の入り口に近い位置から聞こえた。距離にして三メートルほど。板張りの床が、何かの重みを受けて軋んだ、あの音。

振り返らなかった。振り返れなかった、というのが正確だ。首の筋肉が石になったように動かない。代わりに耳だけが異常に鋭くなっていた。自分の心臓の音。呼吸。そしてそれ以外の——何か。

十秒が過ぎた。音は繰り返されなかった。

ゆっくりと、首を回した。入り口の扉は開いたまま。外の曇り空が四角く切り取られて見える。誰もいなかった。ただ、床板の一枚が、俺が入ってきたときとは微妙に位置がずれている気がした。気がした、としか言えない。確証はない。

冊子をリュックに仕舞い、立ち上がった。膝の裏が汗で湿っていた。自分が思っていた以上に緊張していたことを、身体の方が先に教えてくる。そのとき、ポケットの中のICレコーダーの存在を思い出した。

録音は続いている。

再生ボタンを押し、イヤホンを片耳に入れて、直近の数分間を巻き戻した。シャッター音が聞こえる。一回、二回、三回。規則的に続く撮影の音。そしてシャッターの合間の沈黙——沈黙のはずだった。

ノイズの底に、声があった。

最初はただの音の揺らぎだと思った。録音機器の特性で生じるわずかなヒスノイズ。だがボリュームを上げると、それが人の声であることは否定できなかった。

囁きだった。息だけで発せられたような、輪郭のない声。男とも女ともつかない。だが言葉ははっきりしていた。

『……かえして』

一度だけ。シャッター音とシャッター音の隙間、ちょうど俺が八ページ目をめくろうとしていたタイミングで。

耳からイヤホンを抜いた。指先が冷たい。手の甲をさすると、左手の傷痕の周囲がまた疼いていた。古傷が反応している。寒さでもなく、痛みでもなく、皮膚の下を何かが這うような、もどかしい疼き。

「返して」なのか「還して」なのか。冊子の表題が頭をよぎった。還りの儀。還す、という字。死者を還す手順書のすぐそばで、「かえして」という声が録れた。偶然で片づけるには出来すぎている。だが偶然でなければ——俺はその先を考えることを、意識的に止めた。

事実だけを追え。解釈は後だ。

レコーダーをポケットに戻し、祠の外に出た。石段を下りて、来た道を振り返る。

足が止まった。

涸れた沢を渡った先、杉林に入る手前の斜面が、崩れていた。

来るときに通った山道の、ちょうど一番狭い箇所。幅二メートルほどの道が、土砂と倒木に完全に埋まっている。崩落の規模はそれほど大きくない。だが人一人が通れる隙間すらなかった。土砂の表面はまだ湿っていて、崩れたばかりであることを示している。俺が祠の中にいた、この一時間足らずの間に。

スマートフォンを取り出した。電波を示すアイコンは空白。圏外だ。GPS信号も依然として途絶えたまま。当然だった。入山してからずっとそうだ。だがそれでも、もう一度確認せずにはいられなかった。画面の隅の時刻表示だけが、静かに数字を刻んでいる。

午後三時四十二分。

この山の日没は、六時前だ。

俺は崩落した斜面と、背後の廃村を交互に見た。道は塞がれた。電話は通じない。レンタカーまで戻るには別のルートを見つけなければならないが、地形図を見る限り、この谷筋から出るまともな道は今塞がれた一本だけだ。

日没まで、あと二時間。

風が出てきた。杉の梢が揺れ、乾いた音を立てる。それが今日初めて聞いた、自分以外が発する音だった。風に乗って、あの匂いがまた届く。祠から漂う、甘い有機的な匂い。さっきより濃い気がした。気温が下がり始めて、空気が重くなっているせいかもしれない。あるいは——匂いの源が、近づいているのか。

ポケットの中のレコーダーが、まだ録音を続けていた。あの囁きを拾った機械が、今も空気の振動を記録し続けている。その事実が、妙に心強くもあり、同時にひどく不安でもあった。

もし今この瞬間にも、俺の耳には聞こえない何かを拾っているとしたら。

日が傾き始めていた。木々の影が長く伸び、廃村の家屋群が黒いシルエットに変わっていく。崩れた壁の隙間から覗く闇が、少しずつ周囲の空間と溶け合い始めていた。昼と夜の境界が曖昧になる時間帯。山ではこの移行が平地よりずっと速い。気づいたときにはもう暗い。

リュックの中の冊子が、背中に当たる感触を意識した。還りの儀、次第書。死者を還すための手順。そしてその手順書のそばで録れた、死者の——あるいは何かの——声。

俺は崩落した斜面に背を向け、廃村の方へ歩き始めた。戻る道がないなら、進むしかない。夜を越す場所を確保しなければならなかった。

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