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贄守 還りの儀

第2話 第2話

第2話

第2話

音がない、ということの異常さに、人は意外と気づかない。

山を歩いていれば、意識しなくても耳は拾っている。風が枝を擦る音、地面を走る小動物の足音、遠くで鳴く鳥の声。それらが一つずつ消えていくなら、変化として認識できる。だが最初から何もなければ、脳はそれを「静かな場所」として処理してしまう。

俺が違和感に名前をつけられたのは、廃村の入り口に立ったときだった。

杉林を抜けた先に、唐突に空間が開けた。谷の底を流れていたはずの沢は涸れ、代わりに灰色の河原石が乾いた舌のように広がっていた。石の表面はどれも白っぽく乾ききっていて、水が流れていた痕跡すら疑わしいほどだった。河原石を踏むと、靴底に伝わる感触がやけに硬い。川底の石なら角が丸いはずだが、ここの石はどれも平たく、まるで並べられたように均一だった。その向こうに、崩れかけた家屋が見えた。五棟、いや六棟。屋根が落ち、壁が傾き、植物に呑み込まれつつある建物群が、谷の斜面にへばりつくように並んでいる。

贄守集落。八十年以上前に、一夜で住民が消えた村。

俺は足を止め、息を整えながら周囲を見回した。そしてようやく気づいた。

鳥が、いない。

声がしないだけではない。気配そのものがない。杉林の中では、少なくともヒヨドリの声が遠くに聞こえていた。それがいつの間にか途絶えていた。山の中で鳥の気配が完全にないというのは、自然な状態ではない。猛禽が旋回しているとか、大きな音がしたとか、何らかの理由で鳥が警戒しているなら声は止む。だが警戒の沈黙には緊張がある。空気が張り詰める。ここにはそれすらなかった。最初から鳥などいなかったかのような、空虚な静寂だ。

虫の音もない。沢の水音もない。風もない。

あるのは自分の呼吸と、心臓の音だけだった。

リュックのサイドポケットからICレコーダーを取り出し、録音を開始した。環境音の記録は取材の基本だ。レベルメーターが微動だにしないのを確認して、ポケットに入れた。無音を録音するという行為の奇妙さに、口の端が引きつった。

涸れた沢を渡り、最初の家屋に近づいた。土壁は大部分が崩落し、柱だけが骨のように残っている。屋根瓦は地面に散乱し、その隙間から雑草が伸びていた。踏み込めるような状態ではない。次の家屋も、その隣も同じだった。八十年の風雨に晒された木造家屋の当然の末路だ。

三棟目の裏手を回ったとき、足元で何かが擦れた。しゃがんで見ると、泥に半分埋まった紙片だった。慎重に引き抜く。指先に湿った土の冷たさが伝わり、紙は想像よりもずっと薄く、端がぼろぼろと崩れかけた。新聞だ。変色して茶色くなり、端は千切れているが、活字はかろうじて読めた。

『——郡贄守ノ住民七名、消息ヲ絶ツ。同集落ハ山間ノ僻地ニシテ、冬季ハ外部トノ交通途絶スルコト常ナリ。然レドモ今般ノ失踪ハ、家財道具一切手付カズノ状態ニテ発見サレタル点ニ於テ異常ト——』

手つかずの家財道具。夜逃げでも、災害でも、争いでもない。七人がただ、ふっと消えた。

記事を読み終えた指先が、微かに震えていた。活字の「消息ヲ絶ツ」という表現が妙に即物的で、かえって七人の不在を際立たせた。食卓に箸が置かれたまま、布団が敷かれたまま、七人が消えた光景を頭の中で組み立てかけて、やめた。想像は取材の敵だ。事実だけを追え。記者として十二年、自分に言い聞かせてきた言葉が、今は祈りのように頭の中で繰り返されていた。

紙片を透明な袋に入れてリュックに仕舞い、さらに奥へ進んだ。集落の最も高い位置に、石段が見えた。十段ほどの苔むした段を上ると、そこに祠があった。

最初に感じたのは、違和感だった。

周囲の家屋がすべて朽ちているのに、この祠だけが形を保っていた。木材は確かに古びている。だが屋根は落ちておらず、壁に穴もなく、扉の蝶番にはまだ金属の光沢があった。八十年放置された建物の状態ではない。誰かが手入れをしている——あるいは、していた。

石段の苔には、俺が踏んだ跡だけが鮮明に残っていた。最近ここに来た人間はいない、少なくとも苔が回復するよりは前には来ていない、ということだ。なのにこの保存状態は何だ。

祠の周囲を一周した。裏手に回ると、基礎の石組みの間に供物台のようなものが据えてある。石の表面に、黒い染みが広がっていた。苔でも汚れでもない。何か液体が繰り返し注がれた痕跡。こびりつき方が、血液の古い染みに似ていた。取材で事故現場を見た経験が、そう告げている。染みの中心部は黒く�ite、縁に向かうにつれて赤茶けた色に変わっている。幾重にも重なった層が見える。一度や二度ではない。長い年月をかけて、繰り返し何かが供えられてきた痕跡だった。

正面に戻り、扉の前に立った。引き戸式の古い造りで、取っ手に当たる部分は縄が巻かれている。縄は劣化してほとんどほどけかけていたが、かろうじて形を留めていた。

ICレコーダーが録音中であることを確認する。カメラを首からぶら下げ、懐中電灯を左手に持つ。右手で扉に手をかけた。

木が軋む音がして、扉が動いた。乾いた空気が中から押し出されてくる。埃と、かすかに甘い——線香とも違う、何か有機的な甘さを含んだ匂い。嗅いだことのない匂いだった。腐敗ではない。もっと古い。時間そのものが発酵したような匂い、とでも言えばいいのか。匂いは鼻腔の奥に貼りつくようにして居座り、息を吐いても薄れなかった。

懐中電灯の光が、暗い内部を舐めた。板張りの床。正面の壁に、何か文字が書かれた木札が掛かっている。その下に低い台があり、燭台のようなものが載っている。奥行きは三畳ほど。人が住むための場所ではない。祈るための場所だ。

光の輪をゆっくりと動かしながら、内部を観察していたとき。

背後で、藪が揺れた。

音は、しなかった。

それが異常だった。藪が揺れれば音がする。枝が擦れ、葉が鳴り、地面が軋む。風が吹いていたならともかく、この無風の中で藪だけが動くことはない。なのに俺の視界の端で、確かに何かが動いた。祠の横の、腰丈ほどの下生えが、波打つように揺れたのだ。

振り返った。

藪は静止していた。何も動いていない。獣の姿もない。走り去る音もない。さっきまでと同じ、真空のような沈黙が広がっているだけだった。

呼吸を止めて、十秒。二十秒。

何も起きなかった。

鹿か猪だろう。そう思おうとした。だが山の動物が逃げるとき、音を立てないことはない。蹄が地面を叩き、枝を折り、下生えをかき分ける音が必ずする。何よりこの集落に入ってから、鳥すらいないのだ。大型の獣がいるなら、なおさら気配があるはずだった。

足元に目を落としたのは、半ば無意識だった。

石段の苔に、足跡があった。

俺の足跡だ。登ってきたときにつけた靴底の模様が、緑の苔に茶色く刻まれている。俺はそれを確認し——そして、その隣に、もう一つの足跡があることに気づいた。

裸足だった。

指の形がはっきりと残っている。五本の指が苔に食い込み、親指だけがわずかに外側に開いていた。大きさからして大人の足。苔を踏み抜いて、下の石が露出している。新しい痕跡だった。朝からの湿気を含んだ苔は柔らかい。この足跡は、ごく最近——おそらく今日つけられたものだ。

俺は周囲を見渡した。足跡は一つだけだった。石段を上がった跡でも、下りた跡でもない。まるでそこに一歩だけ踏み出して、消えたかのように。

あるいは、そこに立って、こちらを見ていたかのように。

冷気が首筋を這い上がった。四月の昼間。気温は十度を下回っていない。なのに、指先の感覚が鈍くなっていることに気づいた。体の芯が冷えていくような、内側から奪われる冷たさだった。寒さとは違う。山で低体温になりかけた経験が一度あるが、あのときの冷えは外から来た。これは逆だ。内臓の底から、何かが熱を吸い取っていくような感覚だった。

俺は祠の扉を開けたまま、中に入ることも、石段を下りることもできず、裸足の足跡と自分の足跡が並ぶ苔の上に立ち尽くしていた。懐中電灯を握る左手が汗で滑り、光の輪が小さく震えた。背後の祠から、あの甘い匂いが、風もないのにゆっくりと漏れ出していた。

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