第1話
第1話
そのメールには、件名がなかった。
差出人の欄も空白。本文にはただ座標が一つと、三行の文章だけが並んでいた。
『岐阜県——郡、旧贄守集落。地図から抹消された村。戦前まで「還りの儀」と呼ばれる降霊儀式が行われていた。現地に痕跡が残っている』
俺は画面の前で、しばらく動けなかった。
オカルトライターを名乗って三年。この手の情報提供は珍しくない。大半はでっち上げか、ネットの都市伝説を自分の体験として語り直しただけの代物だ。だが座標つきで来るものは少ない。しかも実在の地名が添えられている——ただし、地図アプリに入力しても何も表示されなかった。
「贄守」。にえもり、と読むのだろう。嫌な字面だ。贄という字には生臭い響きがある。神に捧げるもの。それを守る村。その名が地図から消されたという事実が、妙に生々しく引っかかった。
マグカップのコーヒーはとっくに冷めていた。六畳一間のアパート、モニターの青白い光だけが壁を照らしている。午前二時。エアコンの唸る音と、遠くを走るトラックの振動。それ以外は静かだった。窓の外では四月だというのに季節外れの冷え込みが続いていて、サッシの隙間から入り込む夜気が足首を撫でた。
座標をコピーして、国土地理院の旧版地図で検索をかける。現行の地図には何もない。だが昭和二十年代の地形図を重ねると、山間の谷筋に、小さな集落を示す記号がかすかに見えた。
確かに、かつてそこには村があった。
俺はモニターに映る古い地図を拡大しながら、無意識に左手の甲をさすっていた。三年前の傷痕。もうほとんど目立たないが、触れると皮膚の質感がわずかに違う。指先がその境界線をなぞるたびに、あの日の湿った土の匂いが鼻の奥に蘇る。
あの日のことを、考えるつもりはなかった。だが深夜に一人でモニターを見つめていると、記憶は勝手に浮上してくる。
週刊誌の記者時代。先輩の片桐と二人で、不法投棄の現場を押さえに山に入った。証拠の写真を撮って引き上げる途中、斜面が崩れた。片桐は俺の三メートル先を歩いていた。たった三メートルだ。俺は左手に裂傷を負っただけで済んだ。片桐は土砂の下から二日後に見つかった。
記者を辞めたのは、怖くなったからではない。正確に言えば、怖くなった自分を許せなかったからだ。現場に行かなければ書けない。それは片桐がいつも言っていたことだった。なのに俺は、片桐を失ったあの現場から逃げるようにデスクワークに移り、半年もしないうちに辞表を出した。
今の仕事は、その矜持の残骸みたいなものだ。三流のウェブメディアで月に四本、都市伝説の記事を書く。一本あたりの原稿料は、週刊誌時代の十分の一以下。それでも俺は、必ず現地に足を運ぶ。心霊スポットと呼ばれる廃墟、事故物件、曰くつきの神社。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の鼻で匂いを嗅ぐ。そうしなければ、書く資格がないと思っている。片桐に顔向けができない、というのは感傷かもしれないが。
翌日、俺は県立図書館の郷土資料コーナーにいた。
贄守に関する資料はほとんど見つからなかった。司書に尋ねても首を傾げられ、郷土史の棚を端から端まで見てもそれらしい記述には行き当たらなかった。だが昭和三十年代に刊行された郡誌の片隅に、わずか数行の記述があった。背表紙が割れかけた厚い冊子で、該当のページは誰にも開かれたことがないかのように紙が張りついていた。
『贄守集落 戦前に廃村。住民七名、昭和十九年の冬に一夜で全員が行方不明となり、以後居住者なし。集落跡地への立ち入りは現在も地元住民に忌避されている』
一夜で、七人全員が消えた。
俺はコピー機にそのページを載せながら、指先がかすかに震えているのに気づいた。恐怖ではない。これは、知っている。長く忘れていた感覚だった。
取材の手応えだ。
胸の奥で何かが回り始める感覚。片桐と一緒に不法投棄の裏を追っていたとき、決定的な証拠を掴んだ瞬間にも同じものが走った。身体が先に動く。頭が追いつく前に、もう次の一手を打っている。
アパートに戻ってからすぐに準備を始めた。ノートPC、ICレコーダー、予備のバッテリー、懐中電灯を二本、携帯の充電器、地形図のプリントアウト。日帰りのつもりだが、念のためエナジーバーと水を多めに詰めた。リュックの重さを肩に感じると、久しぶりに血が巡っている実感があった。
編集長の三島に電話をかけると、案の定呆れた声が返ってきた。
「また現地行くの? 写真と資料で書けばいいじゃん、誰も求めてないよそこまで」
「俺が求めてるんだ」
「勝手にしなよ。ただし経費は出ないからね。あと来週の心霊マンション記事、締切伸ばさないから」
電話を切って、もう一度メールを開いた。差出人不明。ヘッダ情報を確認しても送信元の特定はできなかった。少しだけ引っかかるものはあったが、情報提供自体に不審な点は——座標が実在する集落跡を指していること以外には——見当たらなかった。
翌朝、始発で名古屋まで出て、そこからレンタカーで山に向かった。
国道を外れ、県道を逸れ、舗装が途切れた林道に入ってからが長かった。杉の植林が密に迫る狭い道を、低速で一時間以上。対向車は一台も来なかった。カーナビはとうに案内を放棄して沈黙している。頼りは紙の地形図と、スマートフォンのGPS座標だけだった。
窓を少し開けると、排気ガスとは無縁の、湿った腐葉土の匂いが車内に流れ込んだ。杉の幹が等間隔に並ぶ光景は人工的なはずなのに、奥に進むほど何か別のもの——植林以前からそこにあった山の気配のようなものが濃くなっていくのを感じた。
林道の終点に車を停めたのは、午後一時を少し回った頃だ。エンジンを切った瞬間、音という音が消えた。車のボンネットが冷えていく微かな金属音だけが、沈黙の中でやけに鮮明に聞こえた。ここから先は徒歩になる。獣道に近い山道が、杉林の奥へ続いていた。
歩き始めて四十分ほど経った頃だった。
ポケットの中でスマートフォンが短く振動した。取り出して画面を見ると、GPS信号がロストしていた。衛星の捕捉数がゼロになっている。山中で電波が弱まることは珍しくないが、GPS信号まで完全に途絶するのは異常だ。立ち止まって空を見上げた。木々の隙間から灰色の空が覗いている。天候は曇り。衛星が遮られるような地形ではない。
画面を地図アプリに切り替えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
現在地を示す青い点は消えていた。その代わりに、地図上のどこにも存在しないはずの場所に——今、俺が向かっている谷筋の奥に——集落を示すマークが、浮かび上がっていた。地図データにはない。表示の仕様にもない。薄い灰色の、小さな家屋の記号が七つ。
七つ。
画面が一瞬ちらつき、マークは消えた。地図は元の空白に戻った。GPS信号は依然としてロストしたまま。
俺は画面を凝視しながら、呼吸が浅くなっていることに気づいた。スクリーンショットを撮ろうと思ったが、もう何も映っていなかった。
見間違いだ。電波障害によるバグか、キャッシュの残像だ。そう結論づけるのは簡単だった。
だが七つだった。この村の最後の住人と同じ数だ。
左手の甲が、疼いた。傷痕ではない。傷痕の周囲の、何でもない皮膚が。まるで皮膚の下を何かが這うような、微かな違和感だった。俺は無意識にその場所を握り込み、拳を作った。
山道の先は、さらに暗かった。杉林の下生えが腰の高さまで茂り、どこに足を置いているのかすら見えない。風が止んでいた。さっきまで遠くで鳴いていたヒヨドリの声も、もう聞こえなかった。空気が重い。湿度のせいだけではない、何か別の圧力が肌にのしかかるような感覚。吐く息が白くなっていることに気づいて、俺は足を止めた。四月の昼間だ。標高はそれほど高くない。なのに、まるで晩秋のような冷気が谷筋の奥から這い上がってきていた。
俺は地形図を広げ、残りの距離を確認した。目的地まで、あと二十分ほど。
紙の地図をリュックに戻し、一歩を踏み出す。枯れ枝を踏む乾いた音が、やけに大きく響いた。
それ以外に、音はなかった。