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亡霊と記録媒体の少女

第2話 第2話

第2話

第2話

「私の中に、あなたのことが全部入ってるから」

その言葉が、暗闇の中で反響した。コンクリートの壁に跳ね返り、天井の鉄骨に絡みつき、何度も蓮の鼓膜を叩いた。

蓮は銃口を下げない。サイトの中心は少女の額を捉えたまま。だが指は動かない。凍りついている。

嘘だ。ブラフだ。追い詰められた標的が、生き延びるために口走った出まかせ。そう処理すればいい。トリガーを引いて、報告して、忘れる。いつも通りだ。これまで何十回と繰り返してきた手順。呼吸を整え、心拍を落とし、対象を物体として認識する。それだけでいい。それだけのはずだった。

「神代蓮。元陸上自衛隊第七特殊作戦群、三等陸佐」

心臓が跳ねた。

ユキの声は淡々としていた。暗記した教科書を読むように、抑揚のない声が廃ビルの闇に落ちていく。雨に濡れたコンクリートの匂いが、その声と混ざり合って蓮の意識に染み込んだ。

「作戦コード"鉄の霧"、二〇一九年十一月七日発動。指揮官、神代蓮。参加人員十三名。帰還者一名」

蓮の喉が鳴った。

その情報は存在しない。公式記録からは抹消されている。第七特殊作戦群の存在自体が、防衛省の最深部に封印された機密だ。蓮の本名を知る人間は、ファントムの管制官ですら数人に限られる。ましてや作戦コードと日付と人数——それは当事者以外、知りようがない。

「——どこで知った」

声が掠れていた。自分の声だと気づくのに一拍かかった。喉の奥が干上がっている。最後に水を飲んだのがいつだったか、思い出せなかった。

ユキは膝を抱えたまま、蓮を見上げている。暗闇の中で、その目だけが異様に澄んでいた。恐怖はある。唇は震えている。だが瞳の奥には、怯えとは別の何かが座っている。覚悟とも諦めとも違う、もっと静かで、もっと重い何か。蓮はかつて戦場で同じ目を見たことがあった。自分の死期を知った兵士の目だ。

「知ったんじゃない。入ってるの、ここに」

細い指が自分のこめかみを叩いた。乾いた小さな音が、沈黙の中でやけに大きく響いた。

「あなたの経歴。作戦記録。部隊の編成表。全部」

蓮の思考が高速で回転する。情報漏洩。内部犯。ファントムの裏切り。あらゆる可能性を検討し、すべて棄却する。ファントムは蓮の軍歴の詳細を知らない。依頼主から渡された断片的なプロフィールしか持っていない。作戦コードも日付も、ファントム経由では漏れない。

では、誰が。

「撃つなら撃って」

ユキが言った。声が震え始めていた。先ほどまでの淡々とした口調が崩れ、年相応の少女の声に戻っている。その変化が、蓮の胸の奥にある何かを不意に掴んだ。任務対象の声が震えることは珍しくない。命乞いも、脅しも、取引の提案も、何度も聞いてきた。だがこの少女の震えには、そのどれとも違う響きがあった。

「でも、撃ったら——あなたは永遠に知れなくなる」

「何をだ」

「"鉄の霧"の真実」

---

沈黙が降りた。

雨音が遠い。蓮の聴覚は少女の呼吸だけを拾っていた。浅く、速い呼吸。極度の緊張下にある人間のリズム。この少女は演技をしていない。怯えている。本当に怯えながら、それでも言葉を選んで吐き出している。

蓮はゆっくりと銃口を三十センチ下げた。排除を中止したわけではない。情報を引き出すための戦術的判断だ。そう自分に言い聞かせた。腕の筋肉が微かに痙攣していることには、意識的に目を向けなかった。

「続けろ」

「あなた、自分がなんで生き残ったか知ってる?」

「運だ」

「違う」

ユキの声が、暗闇を切った。

「十三人で山に入って、十二人が死んだ。一人だけ生き残った。それが偶然だと、本気で思ってる?」

蓮の奥歯が軋んだ。

思っていない。七年間、一度も思ったことがない。なぜ自分だけが生きているのか。その問いは蓮の胸の底に鉛の塊として沈んでいて、触れるたびに内臓を焼いた。だが答えは見つからなかった。記憶は爆発の瞬間で途切れ、次に目を開けたときには病院のベッドの上だった。白い天井。消毒液の匂い。左耳の奥で鳴り続ける高周波音。そして、自分以外の誰もいない病室の静寂。あの静寂が、七年経った今も蓮の夜を支配している。

「お前に何がわかる」

低い声だった。殺意ではない。もっと古い、もっと深い場所から這い出てきた感情。それが何かを、蓮自身が理解できていなかった。

「わかるよ。だって全部見えるもの」

ユキが立ち上がった。痩せた体が暗闇の中で揺れる。壁に手をついて体を支えながら、一歩、蓮に向かって踏み出した。汚れた運動靴がコンクリートの破片を踏み、乾いた音が暗闇に散った。

蓮は反射的に銃口を上げた。

「動くな」

「第七特殊作戦群第二小隊長、三等陸尉、影山拓真。第三小隊長、三等陸尉、桜庭修司。狙撃手、陸曹長、永瀬薫」

名前が、弾丸のように飛んできた。

「通信担当、一等陸曹、真田幸彦。爆発物処理、二等陸曹、鷹見大地。衛生担当——」

「やめろ」

蓮の声が割れた。

「——一等陸曹、園田美咲。偵察要員、二等陸曹——」

「やめろと言っている」

グロックの銃口が震えていた。蓮の手が、制御を離れて震えていた。七年間、一度もぶれなかったこの手が。どんな標的の前でも、どんな修羅場でも揺るがなかったこの手が、十六歳の少女の声ひとつで制御を失っている。

死んだ部下たちの名前。一人一人の顔が、錆びた走馬灯のように脳裏をよぎる。永瀬の無口な横顔。真田の甲高い笑い声。園田が衛生キットを整理するときの几帳面な手つき。影山が作戦前に必ず缶コーヒーを二本買う癖。桜庭が小隊員の靴紐が緩んでいると黙って結び直す、あの不器用な優しさ。全員が蓮を信じて山に入り、全員が帰ってこなかった。

「なんで——」

蓮の声は、もう兵士の声ではなかった。

「なんでお前が、あいつらの名前を知っている」

ユキが足を止めた。蓮との距離は三メートル。銃口が向けられているのに、少女は逃げなかった。逃げる気がないのか、逃げられないのか。その目には涙が滲んでいたが、視線は逸れなかった。

「私は"アーカイブ"っていうプログラムの——被験体なの」

聞いたことのない名前だった。だが、その言葉が蓮の脊髄を這い上がるような悪寒を引き起こした。軍にいた頃、噂だけは聞いたことがある。人体を記憶媒体として使う研究。都市伝説だと笑い飛ばしていた。

「脳に、情報を書き込まれた。政府が消したい記録。公式には存在しないことになってる作戦の記録。全部、ここに」

再びこめかみを指す。その指先が微かに震えているのを、蓮の訓練された目は見逃さなかった。

「"鉄の霧"の全記録が、私の中にある。あなたが知らない部分も。あなたが知らされなかった部分も」

蓮の思考が、初めて完全に停止した。

プロファイリングでもハッキングでもない。この少女の脳そのものに、機密が物理的に刻まれている。そんな技術が存在するのか。いや——存在しないと断言できる根拠が、蓮にはなかった。政府が非公式に何をしているか、蓮は身をもって知っている。

「嘘じゃない証拠を見せろ」

「さっき見せた。あなたの部下の名前。あの情報は、地球上のどこにも残っていない。私の頭の中以外には」

正しかった。抹消された部隊の、抹消された隊員の名前。あの精度の情報は、当事者の記憶の中にしか存在しない。そしてその当事者は、蓮を除いて全員が死んでいる。

はずだった。

---

雨脚が弱まっていた。廃ビルの四階に吹き込む風が冷たさを増している。蓮の頬を撫でる夜気は湿っていて、鉄錆と埃の匂いを含んでいた。夜明けまであと三時間。ファントムの管制が次の確認通信を入れてくるまで、おそらく二十分もない。

蓮はグロックを下ろした。

完全に下ろしたわけではない。右手は銃を握ったまま、体の横に垂らした。いつでも撃てる。だが、今は撃たない。

「仮にお前の話が本当だとして」

声を押し殺す。感情を排除する。任務中の冷徹な思考回路に戻れ。戻るんだ。

「お前を消せば、その記録も消える。ファントムの指令通りだ。俺が知る必要はない」

「あるよ」

ユキの声が、静かに、しかし確実に蓮の胸を刺した。

「"鉄の霧"で——あなたの部下は、戦死じゃない」

空気が凍った。

蓮の視界が狭窄する。廃ビルの暗闇が遠ざかり、少女の顔だけが鮮明に浮かび上がった。雨音が消えた。風の音が消えた。世界から蓮とユキ以外のすべてが剥落し、少女の唇が紡ぐ次の言葉だけが、この空間に存在する唯一の現実になった。

「何を——言っている」

「殺されたの。作戦の途中で。味方に」

ユキの目から涙が一筋、頬を伝った。その涙が顎先から落ち、コンクリートの床に小さな染みを作るのを、蓮はひどく鮮明に見ていた。

「あなたの部下は、最初から死ぬことが決まっていた。あなただけを生かすために」

蓮の世界が、音もなく崩れた。

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