第3話
第3話
「あなたの部下は、最初から死ぬことが決まっていた。あなただけを生かすために」
その言葉が蓮の脳を焼いた。
思考が止まる。呼吸が止まる。心臓だけが暴走している。肋骨の内側で何かが割れるような圧迫感。視界の端が白くちらつき、廃ビルの暗闇が溶けて、七年前の山岳地帯の闇と重なった。焦げた鉄の匂い。砂塵に混じった血の味。耳の奥に、あの日の爆発音がフラッシュバックのように蘇り、鼓膜を内側から叩いた。
——味方に殺された。
嘘だ。嘘であってくれ。
だが蓮の身体は、その言葉が真実である可能性を既に計算していた。爆発の不自然な方向。あり得ないタイミングで遮断された通信。野戦病院で目覚めたとき、一切の調査が行われなかった異常な速さの幕引き。すべてが符合する。七年間、蓮が蓋をしてきた違和感の断片が、少女の一言で配列を変え、一つの形を結ぼうとしていた。
「嘘だったら——」
声が出なかった。喉が痙攣している。蓮は唾を飲み込み、もう一度声を絞り出した。
「嘘だったら殺す」
「嘘じゃない」
ユキの声は小さかったが、折れていなかった。
「全部ここにあるの。映像も、通信記録も、命令書の文面も。私の頭の中に」
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蓮は壁に背中を預けた。銃は握ったまま。だが照準を合わせる対象を、脳が見失っていた。
コンクリートの壁が脊椎に食い込む冷たさだけが、今の蓮を現実に繋ぎ止めていた。雨漏りの水滴が、どこか遠くで一定の間隔を刻んでいる。その音さえ、七年前の点滴の音と混線した。
「——話せ。最初から全部だ」
ユキは壁伝いに座り直した。膝を抱え、顔だけを蓮に向ける。青白い顔に浮かぶ疲弊の色が、薄明の中でいっそう際立っていた。
「私が入れられたのは"アーカイブ"っていうプログラム。防衛省の外郭にあった非公開の研究機関が作った」
蓮は口を挟まない。ユキの呼吸が整うのを待つ。少女は数秒の間を置いてから、再び口を開いた。
「人間の脳を——記憶媒体にする技術。サーバーはハッキングされる。紙は燃える。でも、人間の脳に暗号化して書き込めば、物理的に対象を確保しない限り情報を抜けない」
「生きた記録媒体か」
「そう呼ばれてた」
ユキの声が一段低くなった。感情を殺そうとして、殺しきれていない声だった。
「被験体に選ばれたのは、全員子供。脳の可塑性が高い時期じゃないと書き込みが定着しないから。私は八歳のときに施設から連れ出された。普通の児童養護施設。誰にも気づかれないように」
八歳。蓮は奥歯を噛んだ。自分が八歳のとき何をしていたか。校庭でサッカーボールを蹴っていた。給食のカレーの匂いを覚えている。この少女にはそれすらなかったのだ。
「書き込みは一度で終わらない。何回も、何十回も。注射を打たれて、椅子に固定されて、頭に電極を貼られて——映像が流れ込んでくるの。止まらない。自分の記憶じゃないものが、自分の中に入ってくる。最初は頭が割れるくらい痛かった」
ユキの指が自分の髪を掴んだ。無意識の動作だった。爪が白くなるほど強く握りしめている。
「何を書き込まれた」
「政府が消したい記録。非公式作戦の全データ。命令系統。実行者の名前。死者の数。公式には"なかったこと"になってる作戦が——十八ある」
十八。蓮の背筋が冷えた。「鉄の霧」はその一つに過ぎない。
「情報は暗号化されてる。私にも普段は見えない。でもたまに——トリガーがあると、断片が浮かんでくる。あなたの名前を聞いたとき。あなたの顔を見たとき。関連する情報が、勝手に」
「トリガー」
「特定の刺激で復号される。人物、場所、日付、キーワード。全部のパターンは私にもわからない。設計したのは別の人だから」
蓮の頭の中で、パズルの外枠が組み上がっていく。
人間の脳に機密を暗号化して書き込む。被験体は子供。情報は特定のトリガーでのみ復号。サーバーにもクラウドにも存在しない、完全にオフラインの記録保管システム。デジタルの時代に、最もアナログで、最も残酷な方法で機密を守る仕組み。
そして——その記録媒体を「排除」すれば、情報ごと永久に消える。
「ファントムが俺に出した指令」
蓮は自分の声が平坦であることに気づいた。怒りが一定の閾値を超えると、人間の声はむしろ静かになる。
「お前を殺して、記録を消すためか」
「たぶん」
ユキの目が蓮を見た。恐怖でも懇願でもない、奇妙に透き通った目だった。自分の運命を遠くから眺めているような、諦念とも覚悟ともつかない光。
「でも、それだけじゃない。"アーカイブ"の記録には、あなたの部隊を殺した命令書も含まれてる。誰が、いつ、どういう理由で"鉄の霧"の部隊を全滅させろと命じたか。私を殺せば、その証拠も消える」
蓮の肺から空気が抜けた。
すべてが繋がった。
蓮がこの任務に選ばれた理由。排除理由のコードが空欄だった理由。最高優先度の意味。ファントムは蓮にユキを殺させることで、二つの問題を同時に処理しようとしていた。記録の消去と、当事者の口封じ。蓮がユキの中身を知る前に殺させれば、蓮は永遠に真実を知らないまま、従順な駒として使い続けられる。
そして万が一、蓮が任務を拒否すれば——蓮自身が次の排除対象になる。
どちらに転んでも、指令を出した側は損をしない。
「俺も消される側だったということか」
独り言だった。ユキには向けていない。だが少女は小さく頷いた。
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イヤピースが鳴った。
『ゴースト、状況を報告せよ。制限時間を超過している』
管制の声。蓮の体が反射的に応答の姿勢を取り、すぐに止まった。
報告すれば、二つの選択肢が提示される。任務を完了するか、自分が処理されるか。どちらも同じ結末だ。ユキが死に、真実が消え、「鉄の霧」は永久に闇の中に沈む。十二人の部下が殺された事実が、なかったことになる。
蓮はイヤピースを外した。
指先でつまみ、握り潰す。小さな破砕音。プラスチックの欠片が、コンクリートの床に散った。管制の声が途切れ、廃ビルに沈黙が戻る。雨音と、二人分の呼吸だけが残った。
「——立てるか」
ユキが顔を上げた。
「え」
「立てるかと聞いている。ここを出る」
蓮は銃をホルスターに戻し、少女に手を差し伸べた。右手。さっきまでトリガーにかかっていた手。もう震えてはいなかった。
ユキは蓮の手を見つめた。三秒。五秒。それから、壊れそうなほど細い指が、蓮の掌に触れた。
冷たかった。氷のように。
蓮はユキを引き起こした。少女の体は恐ろしく軽い。何日まともに食べていないのかが、その重さだけで伝わってきた。立ち上がった拍子にユキの膝が小さく折れ、蓮は咄嗟に肩を支えた。少女の髪から、雨と埃の混じった匂いがした。
「あなた——私を、殺さないの」
「まだ決めていない」
嘘だった。決めていた。いつ決めたのかはわからない。名前を聞いた瞬間か。暗号化された脳の話を聞いたときか。それとも、八歳で施設から連れ出されたという一言が、蓮の中の何かを不可逆に動かしたのか。
蓮はユキの腕を掴み、階段へ向かった。
背後で、握り潰されたイヤピースの残骸が、雨に濡れた床の上で光を失っていく。蓮とファントムを繋ぐ最後の線が、今断たれた。
階段を降りながら、蓮は考えていた。感情ではなく、戦術として。
ユキの中にある情報を引き出すには、暗号を復号する手段が必要だ。被験体の脳に書き込む技術を設計した人間がいる。その人間を見つけなければ、ユキは永遠に「読めない本」のままだ。そしてファントムは、読まれる前にその本ごと燃やそうとしている。
時間がない。管制への応答を断った時点で、蓮の離反は確定した。追跡チームが動き出すまで、長く見積もっても三十分。それまでに監視網の外に出なければ、二人ともここで終わる。
蓮は一階のエントランスに出た。雨はほぼ上がっていた。湿った空気が肌に張り付き、東の空の端がわずかに白み始めている。夜明けが近い。夜明けと同時に、ファントムの追跡が本格化する。
ユキの手が、蓮の上着の裾を掴んでいた。
小さな、しかし確かな力で。
蓮はその手を振り払わなかった。
殺すか、守るか。その問いに、理性はまだ答えを出していない。だが身体は既に動いている。少女を連れて廃ビルを出て、夜明け前の闇の中を歩いている。合理的な判断と、七年間封じ込めてきた怒りが、蓮の内側で静かに拮抗している。
部下を殺した命令書が、この少女の脳の中にある。
その事実だけが、蓮の足を前に進めていた。