第2話
第2話
埼玉県北部の山道を、レンタカーのヘッドライトだけが照らしていた。
午後十時。ナビゲーションはとうに案内を終え、「目的地周辺です」という無機質な音声を最後に沈黙している。だが目の前にあるのは舗装の剥がれた林道と、その先に口を開けた暗がりだけだった。車を路肩に寄せてエンジンを切ると、山の静寂が耳に押し寄せてくる。虫の声すらない。四月の山間にしては不自然なほどの無音だった。まるで山全体が息を潜めて、何かの到着を待っているかのような静けさだった。
トランクからレコーダー、カメラ、懐中電灯を取り出す。今回は安西を呼ばなかった。理由は二つある。一つは、失踪者七人が全員私の取材対象だったという事実を、まだ誰にも話していないこと。もう一つは——これが単なる取材ではないと、自分でも分かっていたからだ。
林道を五分ほど歩くと、木々の隙間に建物の輪郭が浮かんだ。廃旅館「山月荘」。二階建ての木造建築が、月明かりの下で黒い影絵のように佇んでいる。玄関の引き戸は半開きのまま固まっていた。その隙間から、湿った空気が這い出してくる。土と、黴と、それからあの匂い。百合に似た、甘く古い残り香。昨夜から鼻腔にこびりついていた匂いと、まったく同じものが、建物の内側から漂っていた。
レコーダーの録音ボタンを押し、日付と場所を吹き込んだ。自分の声が妙に乾いて聞こえた。
「四月十日、午後十時十二分。埼玉県——廃旅館『山月荘』に到着。単独取材を開始する」
引き戸に手をかけた瞬間、建物全体がかすかに軋んだ。風のせいだと判断した。風は吹いていなかったが、そう判断した。
玄関を入ると、下駄箱の上に埃を被った花瓶が置かれていた。中に枯れた花が一輪。百合だった。茎は黒く変色し、花弁は紙のように薄くなっている。それでも匂いは生きていた。ありえない。枯れてから少なくとも数ヶ月は経っているはずだ。なのに、近づくと鮮やかな芳香が鼻を突いた。花瓶の周囲だけ、埃の積もり方が薄い。誰かが定期的にここへ触れているのか、それとも匂いそのものが埃を寄せ付けないのか。どちらの仮説も馬鹿げていたが、どちらも否定できなかった。
廊下を進む。懐中電灯の円い光が、剥がれた壁紙と崩れかけた天井を順に照らしていく。客室の襖は開け放たれ、中には畳が腐りかけた六畳間が並んでいた。かつてここに泊まった人々の痕跡は何も残っていない。ただ、廊下の奥に進むにつれて、足元の埃に乱れがあることに気づいた。誰かが最近ここを歩いた痕跡。靴跡ではない。素足の、小さな足跡が点々と奥へ続いている。
二階への階段は一部が崩落していたが、壁際を伝えば上れた。踊り場に立った時、背中に視線を感じた。振り返る。階段の下に誰もいない。ただ、懐中電灯の光が届かない暗がりの密度が、一階にいた時より増しているように思えた。
二階の廊下には、部屋が四つ並んでいた。一番奥の部屋だけ、襖がきちんと閉じられている。他の部屋はすべて開け放たれているのに、その一室だけが、まるで客を待つように整えられていた。
襖に手をかけた瞬間——聞こえた。
「——夜行さん」
甘い、女の声だった。襖の向こうから。囁くように、だが明瞭に、私の名前を呼んだ。声は部屋の中から聞こえたはずなのに、振動が耳ではなく後頭部の内側から響くような感覚があった。
息を止めた。レコーダーが回っていることを確認する。赤いランプが点灯している。録れている。
「夜行さん。待っていましたよ」
二度目の声は、一度目より近かった。襖一枚の距離。いや、もっと近い。声の出所が定まらない。左からも右からも、背後からも、同時に聞こえるような錯覚に陥る。声質は穏やかで、温かくすらあった。叱られているのでも脅されているのでもない。ただ純粋に、待ち人が来たことを喜んでいる——そういう響きだった。
それが、怖かった。
悪意のない歓迎ほど逃げ場のないものはない。
意を決して襖を開けた。懐中電灯の光が六畳間を舐める。畳。床の間。掛け軸の跡だけが残った壁。窓の外は漆黒。誰もいなかった。声の主はどこにもいない。だが部屋の中央に、布団が一組、丁寧に敷かれていた。枕の位置まで整えられた、客を迎える布団。二年前に廃業した旅館の、埃だらけの二階の奥に。布団だけが、今朝敷かれたばかりのように白かった。シーツには皺ひとつなく、枕元には小さな紙片が置かれていた。宿の案内書きのような体裁で、墨書きの文字が一行——「ごゆっくりお休みくださいませ」。インクはまだ乾ききっていないように見えた。
甘い匂いが最も濃いのはこの部屋だった。喉の奥に絡みつくほどの芳香。思わず口を開いた。深く息を吸い込むと、匂いが肺の隅々にまで行き渡る感覚があった。その瞬間、全身の力が一瞬だけ抜けた。安堵。懐かしさ。疲れた体を預けたくなるような、底のない温もり。危険だ、と頭の冷静な部分が警報を鳴らしたが、体は半歩、布団のほうへ動いていた。膝が折れかけた。畳に手をつきそうになった。布団の白さが視界を満たし、あと半歩踏み出せばすべてが終わるという確信が、恐怖ではなく安らぎとして胸に沁みた。
「——違う」
自分の声で我に返った。後ずさり、部屋を出た。背中が廊下の壁にぶつかる。息が荒い。心臓が不規則に跳ねている。あの部屋にいたのは三十秒か、一分か。時間の感覚が溶けかけていたことに、出てから気づいた。
一階まで降り、玄関を抜け、外の空気を肺に入れてようやく呼吸が安定した。レコーダーを停止し、イヤホンを繋いで録音を再生した。証拠を確認しなければならない。あの声が録れていれば——。
ノイズ混じりの再生音が流れる。自分が日付を読み上げる声。引き戸を開ける音。廊下を歩く足音。階段の軋み。襖を開ける音。
声は、入っていなかった。
「夜行さん」という甘い呼びかけも、「待っていましたよ」という歓迎の言葉も、レコーダーには一切記録されていない。私が部屋の前で立ち止まっている間の無音区間が、不自然に長く続いているだけだった。
そして。
無音区間が終わる直前。かすかに、だが確実に、ひとつの声が記録されていた。
私の声だった。
「——ただいま」
囁くような小さな声。だが紛れもなく私の声帯が発した音だ。記憶にない。あの部屋の前で、私は一言も発していないはずだった。少なくとも、意識の上では。
三回再生した。三回とも同じだった。他者の声は一切録れていない。代わりに私自身が、誰もいない廃旅館の暗がりの中で、帰宅するかのように「ただいま」と呟いている。
レコーダーをポケットにしまい、車に戻った。指先が震えていた。エンジンをかけ、ヘッドライトが林道を照らし出す。バックミラーに映る山月荘の黒い輪郭が、後退するにつれて木々に呑まれていく。
帰路は高速を使った。深夜の道は空いていた。運転しながら、あの「ただいま」を反芻していた。私は何に対して帰宅の挨拶をしたのか。あの旅館の何が、私の無意識に「ここが帰る場所だ」と認識させたのか。ハンドルを握る手の甲に、まだ甘い匂いが微かに残っていた。窓を全開にしても消えなかった。
自宅に着いたのは午前三時過ぎだった。シャワーを浴び、パソコンの前に座ったが、原稿を書く気にはなれなかった。代わりにSNSを開いた。何か手がかりがないか、「七人ミサキの帰還」関連の投稿を追う作業的な行為で、思考を繋ぎ止めておきたかった。
タイムラインを更新した。最上部に、一件の新しい投稿が表示された。
投稿者のアカウント名を見て、心臓が冷えた。
水谷翔子。失踪者の一人。フリーカメラマン。一年以上更新が途絶えていたはずのアカウントが、二十分前に写真を一枚投稿していた。
写真には、古い宿帳が写っていた。和綴じの台帳。黄ばんだページに縦書きの氏名が並んでいる。宿泊日は今日の日付。そしてその日付の横に記された宿泊者名は——。
柊夜行。
私の名前が、私の筆跡で、書かれていた。宿帳など開いていない。ペンを持った覚えもない。なのに筆跡は間違いなく私のもので、文字の癖——「柊」の木偏をわずかに大きく書く癖まで、正確に再現されていた。
投稿にはキャプションが一行だけ添えられていた。
〈おかえりなさい〉
私はパソコンの画面をじっと見つめた。部屋の隅で、甘い匂いが静かに揺れていた。