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七人ミサキの帰還

第1話 第1話

第1話

第1話

廃墟に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

それは温度とか湿度とか、そういう測定可能なものの話ではない。皮膚の表面を撫でる何かの気配が、ほんの少しだけ濃くなる。呼吸のたびに喉の奥に溜まる、錆びた鉄に似た味。私はその感覚を「歓迎」と呼んでいる。もちろん、記事にはそんなことは書かない。

「柊さん、ちょっと」

背後でカメラマンの安西が立ち止まった。ファインダーから目を離し、液晶画面を私に向ける。廃工場の通路を撮った写真。コンクリートの壁、剥がれた塗装、天井から垂れ下がるケーブル。何の変哲もない一枚に見える。

「ここ」

安西の指が画面の右端を示した。壁と暗がりの境界に、曖昧な輪郭がある。人の形をした影。撮影時、そこには誰もいなかった。

「また俺のほうには出ねえんだよな」

安西が苦笑いする。もう三年の付き合いだ。彼が単独で心霊スポットを撮影しても、何も写らない。私が同行した時だけ、こうなる。

「データ送っておいて。使えそうなら記事に入れる」

「了解。……柊さんはさ、怖くないの。いつも」

怖い、という感覚が正確かどうかわからない。廃工場の闇の奥から、微かに甘い匂いが漂ってくる。百合のような、いや、もっと古い花の匂い。枯れてなお芳香を手放さない、押し花のような残り香。この建物に花が咲く道理はない。そしてその匂いは私にしか届いていない。安西は何度も鼻を動かしたが、結局首を傾げただけだった。

「怖いよ。でも、あっちは俺を怖がらないんだ」

それが答えだった。怪異は私を避けない。むしろ寄ってくる。心霊スポットに足を運べば何かが応え、怪談の取材をすれば語り部の顔色が変わる。「あなた、何か憑いてるね」。その台詞を何人の霊能者から聞いただろう。最初の頃は不安だった。今は名刺代わりだ。

都市伝説専門の調査ライター、柊夜行。怪異に好かれる男。それが私の肩書きであり、おそらく唯一の取り柄だった。

帰宅は午前一時を過ぎていた。

築三十年のワンルームは、出かけた時と寸分違わぬ静けさで私を迎えた。靴を脱ぎ、スーツケースからレコーダーとカメラを取り出し、充電器に繋ぐ。冷蔵庫には麦茶のペットボトルが一本だけ残っている。食器棚にはマグカップが一つ。歯ブラシも一本。この部屋にあるものはすべて一人分で、それが三年間変わっていない。

パソコンを開き、下書き用のファイルを立ち上げる。廃工場の取材記事。写真の整理。見出しの候補。単調だが慣れた作業を進めながら、私は無意識にSNSのタイムラインを流し始めた。

目が止まったのは、リポストが四桁を超えている一つの投稿だった。

〈七人ミサキの帰還〉

知っている名前だ。七人ミサキ——水難事故で死んだ七人の霊が、新たな犠牲者を引き込むことで一人ずつ成仏するという四国の伝承。だがこの投稿が語っているのは、伝承そのものではなかった。

〈都内近郊の七つの廃墟を正しい順番で巡ると、行方不明になった七人に会える。ただし、巡る者にも資格がある。彼らに「選ばれた」者でなければ、何も見えない。何も聞こえない。ただ記憶だけを失って帰ることになる〉

投稿にはハッシュタグとともに、七人の失踪者の情報がまとめられていた。名前。年齢。失踪時期。最後に目撃された場所。

一人目を見て、指が止まった。

古書店主・桐生蒼介。二年前、地方の書店怪談を取材した際に話を聞いた人物だった。薄暗い店の奥で、背表紙の日焼けた本に囲まれながら、「この棚の本がね、夜中に勝手に並び替わるんですよ」と穏やかに笑っていた顔を覚えている。半年後に失踪したと聞いたが、まさか。

二人目。元中学校教師・神崎美鶴。教室に現れるという幽霊の取材で、学校まで案内してくれた女性。放課後の廊下を歩きながら、「生徒たちのほうがよっぽど怖いですよ」と冗談めかして言った声が、今も耳に残っている。

三人目。フリーカメラマン・水谷翔子。心霊写真の真贋を鑑定する記事で協力を依頼した。

四人目、五人目、六人目——。

スクロールするたびに、記憶の底から顔が浮かび上がる。全員が、私の取材対象だった。取材先で交わした何気ない会話、別れ際の挨拶、名刺を差し出した時の表情。そのひとつひとつが、失踪という事実を知った今、まるで別の意味を帯びて蘇る。

七人目の名前を読んだとき、指先が冷たくなっていた。部屋の温度は変わっていない。変わったのは、空気の質だ。あの廃工場で感じたのと同じ「歓迎」の気配が、自分の部屋に満ちていた。

偶然ではありえない。七人全員が私と接点を持っていた——それは統計的にも常識的にも、ただの巡り合わせでは説明できない。誰かが、あるいは何かが、意図的にこの七人を選んでいる。そしてその選定基準の中心に、私がいる。

投稿のリプライ欄を遡った。大半は面白半分の反応や、ありがちな創作認定だった。だがいくつかの投稿が目に留まる。この噂を追って廃墟を訪れたという報告。そのいずれもが、途中で途切れている。最後の投稿の後、アカウントが更新されていないものが三件。最後に投稿された写真には、暗闇の中で光る何かが小さく写り込んでいた。拡大しても判別できない。ただ、配置が——廃工場で安西のカメラに写った影と、どこか似ていた。

麦茶を一口含んだ。ぬるい液体が喉を通る感触だけが、今の自分と現実を繋いでいた。

取材対象が七人も消えている。私の知らないところで、私に関わった人間が一人ずつ、いなくなっていた。ただの偶然か。あるいは——。

「愛される体質」。霊能者たちが私に向ける言葉の真意を、今まで深く考えたことがなかった。好かれる。引き寄せる。それは私だけの問題で、周囲には影響しないと思い込んでいた。

だが、もし「好かれる」ということが、私の周囲にいた人間にまで波及するのだとしたら。私に近づいた人間が、その代償を払っているのだとしたら。マグカップが一つしかないこの部屋の孤独は、無意識の自衛だったのか、それとも——もう手遅れだという証拠なのか。

パソコンの画面に戻り、七つの廃墟の所在地を調べ始めた。投稿に直接の住所は書かれていないが、断片的な情報——写真の背景、地名の欠片、失踪者の行動範囲——を繋ぎ合わせれば、特定は難しくない。これは私の本業だ。

三十分後、一つ目の廃墟を絞り込んだ。埼玉県北部、山間の廃旅館。二年前に営業を停止し、そのまま放置されている物件。桐生が失踪する直前に訪れたことがあるという、未確認の目撃情報が一件だけ掲示板に残っていた。

地図アプリにピンを立てた瞬間、手元のスマートフォンが震えた。

着信。登録のない番号だった。

市外局番を見て、呼吸が浅くなった。表示されている局番は、今しがた特定したばかりの廃旅館がある地域のものだった。こちらが調べ終わるのを、向こうが待っていたかのようなタイミングだった。

部屋の空気が、また少しだけ濃くなった。甘い匂い。百合に似た、古い花の匂い。窓は閉め切っているのに、匂いは部屋の中心から湧き出すように広がっていく。

スマートフォンは震え続けている。着信音は鳴っていない。マナーモードにした覚えはないのに、ただ振動だけが、手のひらの中で脈打つように続いている。振動のリズムが一定ではないことに気づいた。長く、短く、長く——まるで何かの信号のように、不規則な間隔で手のひらを叩いている。

画面には発信者の名前の代わりに、数字の羅列が並んでいる。局番の後に続く番号を、指が勝手に数えていた。七桁。普通の電話番号より一桁少ない。

私は電話に出なかった。出られなかった、というほうが正確かもしれない。三十秒ほどで振動は止まり、不在着信の表示だけが画面に残った。

折り返すつもりはない。だが、廃旅館には行く。

これは取材だ。七人の失踪者と私の接点。「七人ミサキの帰還」の真偽。記事になる。調査ライターとしての判断だと、自分に言い聞かせた。嘘だと分かっていた。記事のためではない。桐生の穏やかな笑顔、神崎の冗談めいた声——あの人たちに何が起きたのか、知らなければならないという衝動が、胸の底で静かに燃えていた。

ただ——画面に残った不在着信の表示を見つめながら、私は気づいていた。廃工場で感じた「歓迎」の気配が、もう消えていないことに。部屋を出ても、電車に乗っても、どこへ行っても、あの甘い匂いが鼻腔の奥にこびりついて離れなくなっていることに。

何かが、もう始まっている。

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