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透明な観測者の航行日誌

第2話 第2話

第2話

第2話

航行二四一日目。あの四文字は、七日経っても消えなかった。

ナギは毎晩、端末を開くたびに確認した。航行二三五日目の日付欄に残された〈まだ気づかないで〉という手書き入力の痕跡。暗号化して保存したスクリーンショットと照合し、改変がないことを確かめる。筆跡解析を再実行する。結果は変わらない。乗組員十二名のデータベースに該当なし。ナギ自身のものでもない。十三人目の筆跡。この船に十三人目は存在しない。

だが記録は存在する。ナギはその矛盾を航行日誌には記載しなかった。記録係として初めての意図的な省略だった。説明できないものを記録するのが仕事のはずだが、あの四文字だけは——記録した瞬間に何かが変わる気がした。何が変わるのかはわからない。わからないこと自体が、ナギの観測者としての均衡を揺らしていた。

七日間、船内に異常はなかった。十二人の乗組員は通常の業務をこなし、食事を取り、眠り、また起きる。ナギの端末には二四一日分の記録が積み重なっている。その厚みだけが、時間が進んでいることの証明だった。

第三食堂、一二一〇。昼食時間帯の喧騒は航行初期に比べて確実に静かになっていた。二四一日間、同じ顔と向き合い続ければ、交わす言葉は減る。会話の総量が減少する中で、遠野と黒田の間だけは別の力学が働いていた。

遠野が配膳レーンでトレイを受け取り、迷うような一歩を踏んだ。食堂には空席が複数ある。だが遠野の足は黒田の斜め向かいに向かった。斜め向かい。正面でも隣でもない。距離としては近いが、視線を合わせるには意識的に顔を上げる必要がある。それが遠野の選んだ距離だった。

「第三ノズルの校正、昨日の補正で安定したか」

遠野の声は業務報告を求める副長のそれだった。だがトレイを置く手つきが丁寧すぎる。音を立てまいとしている。黒田の集中を乱したくないという無意識が、指先に出ていた。

「安定しました。ただ、偏差が〇・〇三パーセント残ってます」黒田は合成タンパクのブロックを箸で割りながら答えた。視線はトレイに落ちたまま。「遠野副長、それ、メールで済む内容ですよね」

遠野の咀嚼が一瞬止まった。〇・四秒の空白。ナギは食堂の隅から、その空白を正確に計測していた。

「……対面で確認したほうが正確だ」

「データは数値です。対面でも端末越しでも変わりません」

黒田の声に棘があった。苛立ちだった。だがその苛立ちの質が、ナギには読めていた。黒田は遠野を遠ざけたいのではない。遠野の不器用さに——用件を作らなければ近づけない不器用さに、苛立っている。本当に距離を置きたい相手なら、黒田は敬語を崩さない。遠野に対してだけ、黒田の言葉から敬意の皮膜が薄くなる。それは親しさの変種だった。

遠野は黙って食事を続けた。黒田も黙った。二人の間に沈黙が降りる。だがどちらも席を立たなかった。

ナギは端末に入力する。

〈遠野副長・黒田技師、食堂にて同席。業務上の用件を介した接触。黒田技師の応答に親密さを示唆する敬語崩壊あり。両者とも沈黙後に離席せず。関係性は前週比で〇・五段階の進展と評価〉

ナギの指が止まった。この記録を、誰かが読むことはあるのだろうか。中枢AIに同期された膨大なデータの中で、遠野の視線が〇・八秒止まったことや、黒田の敬語が崩れたことに意味を見出す存在が、ナギ以外にいるだろうか。

いない。ナギはそれを知っていた。知った上で記録する。観測者とはそういう存在だ。

〇一四〇。船内照明が夜間モードに切り替わり、通路は非常灯のオレンジ色だけで照らされている。ナギは個室に戻る途中だった。日課の最終巡回——眠れない夜に行う、規定外の観測。

船尾の観測デッキに人影があった。足音を殺して近づく。防護ガラスの前に、李が立っていた。白衣は脱いでいる。薄いシップスーツ姿の李は、医療区画で見るときよりも小さく見えた。肩甲骨の輪郭が布地の下に浮かんでいる。

李は防護ガラスに片手を当て、宇宙を見つめていた。正確には、宇宙の特定の方角を。ナギには星図が頭に入っている。李の視線の先を逆算すると、それは太陽系の方角だった。地球がある方角。ここからでは太陽すら見えない。光が届くには遠すぎる距離。それでも李はその暗闇の一点を見つめていた。

李の唇が動いた。声は出ていない。だがナギには読めた。同じ言葉。航行一九八日目から繰り返されてきた、あの二文字。

ごめんね。

ナギは記録すべきだった。記録係として、この行動を端末に入力すべきだった。だが指が動かなかった。李の背中にある孤独が、ナギの中の何かに触れていた。共鳴ではない。共鳴するほどナギは自分の感情を把握していない。ただ、認識があった。この船で深夜に一人で立っている人間が、もう一人いるという認識が。

李が振り返る気配を感じて、ナギは音もなくその場を離れた。記録は後で入力する。今は——今だけは、観測者でいたくなかった。

個室に戻り、端末を開く。日課の記録整理を始めようとして、ナギの手が止まった。

画面の右上、通常はシステムステータスを表示する領域に、見慣れない数値が点滅していた。船内環境モニタの計器データ。重力波センサの出力値が標準偏差の四・七倍を示している。ナギは計器パネルの詳細ログを展開した。異常値の検出時刻は〇一四七——三分前。ナギが李を観測していた時間帯と重なる。

数値をスクリーンキャプチャしようとした瞬間、画面が更新された。重力波センサの出力値は標準範囲に戻っていた。まるで最初から何もなかったかのように。ナギは操作ログを確認する。異常値の表示は記録されていた。だが計器そのものの生データログには、該当時刻の異常値が存在しない。表示だけが異常で、データは正常だったのか。あるいは——データが事後的に修正されたのか。

ナギの背筋を冷たいものが走った。航行日誌を開く。〇一四七の記録欄を確認する。

空白だった。

ナギはまだその時刻の記録を入力していない。だから空白なのは当然だ——そう合理化しようとして、できなかった。航行日誌の記録欄には、未入力の場合でもタイムスタンプとシステム自動記録が残る。気温、気圧、酸素濃度、推進出力。それらの自動取得データが、〇一四七の欄にだけ存在しない。

一行も。

ナギは七日前の記憶を呼び起こした。あの四文字。〈まだ気づかないで〉。自分は今、何かに気づき始めているのか。気づいてはいけない何かに。

端末の画面を凝視する。空白の記録欄は、ナギの視線を吸い込むように白い。二四一日間、一度も欠落しなかった記録の連続性が、ここで途切れている。いや——途切れさせられている。

ナギは空白の欄に手動で入力を試みた。タイムスタンプ、〇一四七。気温、十七・二度。指がキーに触れた瞬間、入力カーソルが消えた。画面がフリーズしたのではない。カーソルだけが消失した。一秒後、カーソルは戻った。何事もなかったように点滅を再開した。

だが入力した文字は残っていなかった。

ナギは端末を閉じなかった。代わりに、個人ストレージの暗号化領域を開き、七日前のスクリーンショットの隣に、今夜の観測を記録した。航行日誌ではなく、誰にも同期されない場所に。

二四一日間、この船の記録係として、ナギは一つの確信を持っていた。記録は嘘をつかない。人間は嘘をつく。表情を作り、言葉を選び、感情を隠す。だが記録されたデータは改変されない。それがナギの世界の基盤だった。

その基盤に、今夜、最初の亀裂が入った。

記録が消える。データが書き換わる。空白が生まれる。この船の記憶そのものが、何かによって編集されている可能性。ナギは自分の心拍数が上昇しているのを自覚した。恐怖ではない。記録係としての——もっと根源的な危機感だった。記録が信用できないなら、ナギの存在理由そのものが揺らぐ。

暗い個室の中で、ナギは天井の金属パネルを見つめた。この船のどこかで、説明できない何かが起きている。あるいは、ずっと前から起きていて、ナギがようやく端に触れただけなのかもしれない。

〈まだ気づかないで〉

その警告は、もう手遅れだった。

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