第3話
第3話
航行二五一日目。ナギの端末には、十日分の異常記録が暗号化領域に蓄積されていた。
あの夜以降、重力波センサの逸脱は散発的に観測された。いずれも数秒で正常値に戻り、生データログには痕跡を残さない。航行日誌の空白欄も増えていた。二四三日目に一件、二四六日目に二件、二四九日目に三件。頻度が上がっている。等差ではない。加速している。
ナギはその加速曲線を個人ストレージに記録しながら、船内の日常を観測し続けた。十二人の乗組員は誰も異常に気づいていなかった。重力波センサの出力を日常的に監視するのは航法士の真壁だけで、真壁の端末には異常値が表示された形跡がない。ナギの端末にだけ、見えている。
〈まだ気づかないで〉という警告が、ナギに向けられたものだったとすれば——ナギだけに見えていることにも、意味があるのかもしれなかった。
第三食堂、〇七三〇。ナギはいつもの隅の席で端末を開いていた。遠野と黒田が斜め向かいに座っている。十日前と同じ距離。だが空気が違った。黒田が合成コーヒーのカップを傾けたとき、遠野が無言で自分のカップを差し出した。ブラック。黒田が好む配合と同じもの。黒田は一瞬手を止め、それからカップを受け取った。指先が触れたのか触れなかったのか、ナギの位置からは判別できなかった。ただ黒田の耳の先がわずかに赤くなったのは見えた。何も言わなかった。何も言わないことが、二人の間では言葉より多くを語っていた。
ナギは記録する。〈遠野副長、黒田技師に飲料を提供。言語的交換なし。非言語コミュニケーションの深化を示唆〉
その入力を終えた瞬間、足元から振動が来た。
最初は推進機関の出力変動だと思った。テセウス号の巡航中にも微細な振動は常にある。床を伝わる低周波の揺れは、二五一日間で身体が慣れきった感覚だった。だがこの振動は違った。周波数が高い。そして——上がり続けている。
食堂の照明が明滅した。天井パネルの継ぎ目から、聞いたことのない音が漏れた。金属が軋む音。構造材が設計上の許容範囲を超えた応力を受けたときに発する音だった。ナギは訓練で一度だけ聞いたことがある。シミュレーションの中で。現実のそれは、歯の奥まで響く重さがあった。シミュレーションでは伝わらなかった、内臓を直接圧迫するような圧力を伴っていた。
「全員、固定物に掴まれ」
遠野の声が食堂に響いた。副長としての反射だった。声に迷いがない。遠野は立ち上がりかけた姿勢のまま、最も近い固定テーブルの脚を掴んだ。黒田が遠野の腕に手を伸ばし——その手が届く前に、第二波が来た。
船体全体が捩れるような振動。ナギの端末が手から弾かれ、床を滑った。天井照明が完全に落ち、非常灯のオレンジ色だけが残った。食堂にいた六人の乗組員が各自の姿勢で衝撃に耐えている。相馬がテーブルの下に潜り込み、李が壁面の手すりにしがみついている。合成コーヒーのカップが床に落ちて砕け、褐色の液体が振動に合わせて波紋を描いた。空気の中に安っぽい合成豆の匂いが広がった。
ナギは椅子の背もたれを掴みながら、それでも観測していた。記録係の本能が身体を支配していた。振動の持続時間、強度変化、乗組員の反応——すべてが記録すべきデータだった。端末は床の上で画面を明滅させている。手が届かない。記憶に刻むしかなかった。
第三波はなかった。振動は唐突に止んだ。まるでスイッチを切ったように。余韻すらなかった。
照明が復旧した。白い光が食堂を満たす。ナギは床に這って端末を回収し、即座にシステムステータスを確認した。船体構造に損傷なし。推進系正常。生命維持系正常。重力波センサの出力値——標準偏差の十二・三倍を記録した後、現在は正常範囲。
十二・三倍。これまでの最大値は四・七倍だった。桁が違う。
ナギが顔を上げたとき、最初に目に入ったのは遠野の横顔だった。
遠野は立ち上がり、制服の乱れを直していた。その動作は正確で、無駄がなかった。副長として船内状況を確認すべき場面だ。遠野の口が開く。
「各セクション、被害状況を報告しろ」
声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。ナギは遠野の瞳を見た。二五一日間観測し続けた瞳。黒田を見るときだけ揺れる瞳。業務命令の裏に感情を隠す瞳。
今、その瞳は凪いでいた。完全に。
黒田がテーブルの下から身を起こした。遠野の視界に入った。遠野の視線が黒田を通過した。通過した。止まらなかった。〇・八秒どころか、〇秒。黒田を認識し、そして何の引っかかりもなく次の対象に移った。二五一日分の感情の等高線が、一瞬で平坦になっていた。
ナギの胸の奥で、警報が鳴った。
食堂の反対側で李が笑っていた。口角が上がり、目元に皺が寄っている。深夜に星図の前で「ごめんね」と繰り返す人間の笑顔ではなかった。後悔の影がない。地球に残してきた何かの重みがない。明るく、軽く、空っぽだった。
「いやあ、驚きましたね。全員無事みたいで何よりです」
李の声のトーンが違った。普段より半音高い。語尾が柔らかい。ナギが二五一日間記録してきた李の声紋パターンとは、別人のそれだった。
ナギは端末を握り締めた。指先が白くなるほど強く。
航行日誌を開いた。直近の記録を確認する。昨日の分——航行二五〇日目。ナギは自分の入力した文章をスクロールした。
〈遠野副長、黒田技師と船尾通路にて三分間の会話。業務外の話題を含む。黒田技師の表情弛緩を確認——〉
その記述がなかった。
代わりに、こう書かれていた。
〈遠野副長、黒田技師に第四推進ノズルの点検スケジュールを通達。所要一分十五秒。特記事項なし〉
ナギの記憶にない文章だった。ナギの文体ではなかった。「特記事項なし」——ナギはこの表現を使わない。記録係として、特記すべきかどうかの判断こそが仕事だからだ。この四文字は、感情を記録する意思のない人間が書く言葉だった。
前日の記録。その前。さらにその前。ナギは高速でスクロールした。遠野と黒田に関する記述がすべて書き換えられていた。視線の滞留時間も、声量の変化も、敬語の崩壊も——ナギが二五一日間積み上げてきた感情の等高線図が、冷淡な業務報告に塗り潰されている。
だがナギの記憶は元のままだった。遠野の視線が〇・八秒止まったこと。黒田の敬語が崩れたこと。李が星図の前で声を震わせたこと。すべてが脳の中に残っている。端末の記録とナギの記憶が、完全に乖離している。
ナギは個人ストレージの暗号化領域を開いた。七日前のスクリーンショット、十日分の異常記録——それらは無事だった。改変されていない。航行日誌は書き換えられたが、ナギが航行日誌の外に保存したデータは残っている。
何かが起きた。あの振動の瞬間に。
船の記録が書き換えられ、乗組員の感情が消えた。遠野から黒田への想いが。李の後悔が。二五一日分の人間関係が、一瞬でリセットされた。
だがナギの記憶だけは、元のまま残されている。
——なぜ。
なぜ自分だけが覚えている。
ナギは端末の画面を見つめた。改変された航行日誌の冷たい文字列。その向こうに、ナギだけが知っている本当の記録がある。遠野が黒田にブラックコーヒーを差し出した朝のこと。李が暗闇の中で地球に謝り続けた夜のこと。十二人の感情の地図が、ナギの頭の中にだけ残っている。
食堂では遠野が淡々と被害報告を取りまとめていた。黒田がデータを読み上げる。遠野は頷く。それだけ。上官と部下。それ以上でもそれ以下でもない距離。ナギが二五一日間見守ってきた二人の間にあった不器用な引力が、跡形もなく消えていた。黒田の表情にも喪失の気配はなかった。失ったことすら知らない人間の、平坦な顔だった。
ナギは端末を閉じ、自分の手のひらを見下ろした。冷たく、わずかに震えていた。爪の跡が掌に赤い三日月を刻んでいた。いつ握り込んだのか、自分でもわからなかった。
この船で、何かが壊れた。あるいは、何かに壊された。
そしてそれを知っているのは、宇佐見ナギだけだった。