第3話
第3話
眠れなかった。
運河沿いのネットカフェで三時間だけ横になったが、目を閉じるたびに覆面パトカーの赤色灯が瞼の裏に点滅した。サイレンの残響が鼓膜の奥でまだ鳴っている気がした。午前五時、柊は個室を出てシャワーブースに向かった。裸足の足裏にタイルの冷たさが伝わる。錆びた蛇口を捻ると、生温い水が擦過傷の右肘に沁みた。痛みで頭が醒める。上着は裂けている。ネットカフェの自販機で買った五百円のスウェットパーカーに着替えた。フードを深く被る。鏡に映った自分は、三日前まで捜査一課にいた人間には見えなかった。頬がこけ、無精髭が影を作り、目の下の隈が顔の輪郭を別人のように変えていた。
ネットカフェを出て、夜明け前の倉庫街を歩いた。潮の匂いが強い。雨は上がっていたが、路面はまだ濡れていた。水たまりに街灯の光が揺れ、踏むたびにスニーカーの底が湿った音を立てた。倉庫と倉庫の隙間を縫い、昨夜見つけた廃倉庫に戻った。シャッターの隙間から滑り込む。埃と機械油の匂いが肺を満たす。追手の気配はない。アストレアの連中は、ひとまず捜索範囲を広げて分散している。港湾エリアを虱潰しにするには人手が足りないはずだ。
作業台の前のパイプ椅子に座り、使い捨て端末の電源を入れた。液晶の青白い光が暗い倉庫の中で柊の手元だけを浮かび上がらせた。バッテリー残量二十八パーセント。充電する手段は後で考える。まず、頭の中を整理する。
三日前の朝。
あの日、捜査一課のフロアに出勤した柊を待っていたのは逮捕状だった。容疑は同僚・宮野誠二の殺害。宮野は前夜、自宅マンションの駐車場で刺殺体で発見されている。発見時刻は午前一時十二分。近隣住民の通報。
柊のロッカーから出たサバイバルナイフ。未開封のビニール袋に入っていた。鑑識はナイフの刃から宮野のDNAに一致する血痕を検出した——と報告書にはある。だが柊はそのナイフを見たことがない。十五年間使ってきたロッカーの中身は把握している。あんなものは入っていなかった。
では誰が入れた。
捜査一課のロッカーにアクセスできる人間は限られる。暗証番号式のダイヤル錠だが、番号を知る人間はいる。総務課の管理台帳。あるいは、柊の手元の動きを観察すれば四桁の番号は読み取れる。難しくはない。だが問題は時間だ。宮野が殺されてから柊が出勤するまでの六時間で、凶器を仕込み、ロッカーに入れ、報告書を回す。それだけの手配を一晩で完了させた人間がいる。
防犯カメラの映像。深夜二時、柊が宮野の自宅マンション前を歩いている。だがあの時間、柊は自宅で寝ていた。一人暮らし。アリバイの証人はいない。映像を確認する機会は与えられなかった。逮捕後すぐに護送手続きが始まったからだ。だが留置場の中で反芻した限り、あの映像は合成だ。顔の角度、歩幅のリズム。過去の監視カメラ映像から切り貼りすれば、技術的には可能だ。
問題は、その技術を持つ人間が「中」にいることだった。
防犯カメラの管理映像にアクセスし、差し替えるには捜査機関の内部協力者が要る。証拠品の鑑識報告を操作するにも。柊は奥歯を噛み締めた。こめかみの筋肉が引き攣り、鈍い痛みが側頭部に広がった。宮野を殺し、俺に罪を着せた構図は、外部の犯行ではない。内部に手引きした人間がいる。警察の中に。
目を閉じた。留置場で何度も反芻した情報を、もう一度組み上げる。
鑑識報告。ナイフの刃に付着した血痕がDNA型で宮野と一致。だが柊が気になったのは「刃に付着」の部分だった。サバイバルナイフで人を刺せば、血液は刃だけでなく柄にも飛ぶ。握った手に血が付き、柄の滑り止めの溝に入り込む。あの報告書には柄の血痕について一切記載がなかった。刃にだけ血液を「塗った」のではないか。犯行に使った実際の凶器は別にある。ロッカーのナイフは見せ金だ。
だが弁護人にその指摘をする前に、柊は逃げた。正規の手続きで無実を証明する道を、自ら捨てた。あの時はそうするしかなかった。護送車の中で、このまま拘置所に入れば二度と出られないという確信があった。証拠が精密すぎる。一晩でこれだけの工作を完成させる組織力の前では、国選弁護人の異議申し立てなど紙屑だ。
柊はIDカードを取り出した。使い捨て端末のライトで照らす。「アストレア・セキュリティ株式会社 特殊業務部 笠原修平」。裏面のICチップに指で触れた。チップの表面はわずかに凹凸があり、爪の先にその輪郭を感じた。このカードが繋ぐ先に、内部協力者の名前があるはずだ。
端末でアストレア・セキュリティを検索する。公式サイト。設立二〇一七年。代表取締役・鶴見啓介。事業内容は「施設警備、危機管理コンサルティング、海外安全対策支援」。防衛省や外務省との契約実績が誇らしげに並んでいる。従業員数八百名。年商百二十億。表向きは堅い。だが裏では高速道路で民間人を殺しにかかる部隊を飼っている。
柊はサイトの採用ページまで目を通した。元自衛官、元警察官の中途採用を積極的に行っている。笠原も自衛隊上がりだろう。ああいう動きは現場で叩き込まれたものだ。
ICチップの読み取りには専用のリーダーが要る。NFC対応のスマートフォンなら読めるかもしれないが、この使い捨て端末にNFC機能はない。物理的な突破口はここで止まる。
ならば別の道を探す。
柊は目を閉じ、記憶を掘った。宮野の最後の二週間。あいつの行動パターン。捜査一課のデスクで、宮野は何をしていた。
断片が浮かぶ。死の一週間前、宮野が定時後も残っていた。珍しいことではない。だがあの週は毎日だった。端末に向かって何かを打ち込んでいた。柊が声をかけると、画面をさりげなく切り替えた。「ちょっと個人的な調べものだ」。目が笑っていなかった。あの時、宮野の声にはいつもの軽さがなかった。乾いた、事務的な口調。何かを隠しているのではなく、何かに怯えている人間の声だった。
もうひとつ。死の三日前。宮野が柊のデスクに立ち寄り、付箋を一枚置いていった。黄色い付箋。走り書きの数字と文字列。柊はそれを手帳に挟んだまま、読みもしなかった。
手帳。
あの手帳はどこだ。逮捕時に押収されたか。いや——柊は記憶を絞った。あの日の朝、出勤前にジャケットを替えている。前日まで着ていたグレーのジャケットから、紺のスーツに。手帳はグレーのジャケットの内ポケットに入れたままだ。着替えた紺のスーツで逮捕されたから、手帳は押収品リストに入っていない可能性がある。
グレーのジャケットは自宅のクローゼットに掛かっている。
自宅。警察が家宅捜索済みだろう。だが手帳は捜索対象外かもしれない。令状の範囲は凶器と血痕に関連する物証に限定されるはずだ。ただし追加の令状が出ていれば話は別だ。
リスクは大きい。自宅周辺には張り込みがある。逃亡した被疑者の立ち回り先として、自宅は最優先の監視対象だ。元刑事の柊はそれを誰よりも知っている。
だが、あの付箋が要る。
宮野がわざわざ柊のデスクに置いた。口頭ではなく、紙で。記録として残す意図があった。あれは宮野なりの保険だったのかもしれない。自分に何かあった時のための。
柊は立ち上がった。パイプ椅子が軋む。端末の電源を落とし、ポケットにしまう。IDカードをもう一方のポケットに入れる。
倉庫のシャッターの隙間から外を窺う。空が白み始めていた。東の空の縁がうっすらと橙に染まり、倉庫の屋根のシルエットが黒く浮き上がっている。倉庫街の向こうに、朝の交通の音がかすかに聞こえる。日常が動き出している。その日常の中に、指名手配犯の柊一真は戻れない。
だが、宮野の足跡なら辿れる。あいつが残した付箋。あのメモに何が書いてあったのか。走り書きの数字と文字列。今なら意味がわかるかもしれない。
柊はフードを深く被り、倉庫を出た。
横浜から都内まで。電車は使えない。駅には監視カメラがある。バスを乗り継ぐ。所持金四万円のうち、ネットカフェで二千円を使った。残り三万八千円。この金で身を隠しながら都内に戻り、自宅に近づく方法を組み立てる。
歩きながら、宮野の付箋の映像を脳裏に再生した。黄色い紙。青いボールペンの走り書き。数字の羅列と——アルファベット。全体は思い出せない。だが最初の三文字だけ、記憶の底に引っかかっている。
「A」「S」「T」。
アストレア。
宮野は死の三日前に、もう答えを柊に渡していた。