第2話
第2話
排水路の水が脛を打っていた。
冷たい。骨の芯まで沁みる冷たさだ。四月の雨水が工業排水と混じり、鉄錆の匂いが粘膜に貼りつく。息を吸うたびに喉の奥が痺れた。柊は腰を折ったまま、コンクリートの側壁に肩を擦りつけて進んだ。壁面のざらついた感触が上着越しに肌を削る。頭上をヘッドライトの光が横切る。排水路の縁を舐め、通り過ぎた。光が消えた後の暗闇が、かえって濃くなった。
二人。まだ二人残っている。
倒した男の仲間だ。一人を落としたことで残りは連携を締めている。足音の間隔が詰まった。位置を確認し合いながら、包囲の輪を縮めている。元刑事の耳がそれを拾う。北側と東側。退路は南——港湾エリアの方角だけ。
排水路が九十度に折れる地点で、柊は立ち止まった。ポケットのIDカードに触れる。プラスチックの角が指の腹に食い込む。こいつが切り札だ。今はまだ意味がわからない。だが、これを持っている限り、あいつらは追い続ける。
角を曲がった先で排水路が地上に開いていた。鉄格子。錆びて一本が外れている。身体を捻じ込めるか。柊は格子に手をかけ、肩を押し込んだ。錆の破片が掌に刺さり、鈍い痛みが走った。上着の背中が裂ける音がした。構わない。腰を通し、脚を引き抜く。ふくらはぎの肉が格子に挟まれ、皮膚が擦れた。
地上に出た。雨が顔を打つ。排水路の中とは違う、生温い外気が肺に入った。目の前はコンテナヤードだった。高さ三メートルの鉄の箱が碁盤の目に並んでいる。ここなら身を隠せる。柊はコンテナの隙間に滑り込み、影に溶けた。
呼吸を整える。六秒吸って、六秒吐く。心拍が落ち着いてくる。聴覚が研ぎ澄まされる。雨音の向こうに——エンジン音。近い。SUVがコンテナヤードの外周を回っている。入口を塞ぐつもりか。
柊はコンテナの列に沿って移動した。鉄の壁に手を添えると、エンジンの振動が微かに伝わってくる。三列目の角で止まる。SUVが一台、ヤードの南側ゲート前に停まっていた。ドアが開く。降りてきた男が二人。一人は手に何か持っている。暗視ゴーグル。もう一人の腰にはホルスター。サプレッサー付きの拳銃。
民間軍事企業の実働部隊。本物だ。
暗視ゴーグルをつけられたら終わる。闇に紛れる優位が消える。柊は周囲を見回した。コンテナの上には登れない。横をすり抜けるには距離が足りない。時間がない。奥歯を噛み締めた。焦るな。焦ったら死ぬ。捜査一課時代に何度も自分に言い聞かせた言葉が、脳の奥で甦った。
目に入ったのは、コンテナの脇に放置されたフォークリフトだった。鍵は——刺さっている。港湾作業者が刺しっぱなしにする習慣。元捜査一課が港湾窃盗を扱った経験が、こんなところで役に立つ。
柊はフォークリフトのキャビンに這い上がった。座席のビニールが雨で濡れて冷たかった。エンジンはかけない。ギアをニュートラルに入れ、パーキングブレーキを外す。コンテナヤードは港側に向かって緩い傾斜がある。車体がゆっくりと動き出した。
惰性で進むフォークリフトがコンテナの角を曲がり、男たちの視界に入った。
「三時方向、車両——」
反応した二人の注意がフォークリフトに向く。銃口が動いた。その三秒間。柊は反対側のコンテナの陰から走った。全力疾走。靴底が濡れたコンクリートを蹴る。水飛沫が足首に跳ねた。南側ゲートの脇、鉄柵のたわんだ箇所。身体をねじ込む。肋骨に鉄が当たって鈍い痛みが走ったが、止まらない。
フェンスの向こうに出た。目の前は岸壁沿いの道路。街灯は三本に一本しか点いていない。右手に倉庫群。左手に海。潮の匂いが雨に混じって強くなった。
「——っ」
背後で怒号。気づかれた。だが、もう距離がある。柊は倉庫の陰に飛び込み、建物の裏手を縫うように走った。倉庫と倉庫の間の暗がりを抜け、資材置き場のブルーシートの下を潜り、錆びたトタン塀を乗り越える。
三分走って、柊は足を止めた。
背後に追跡の気配はない。暗視ゴーグルの有効範囲からも出ている。振り切った。
膝に手をついて息を吐いた。胸が焼ける。脚が震えている。上着は裂け、右肘に擦過傷。血が雨に薄められてシャツの袖を染めていた。指先が痺れている。寒さなのか、疲労なのか、もう区別がつかなかった。
目の前に、使われていない小型倉庫があった。シャッターは半分下りた状態で錆びついている。柊は身を屈めて中に滑り込んだ。
暗闇。埃と機械油の匂い。壁際に古い作業台とパイプ椅子が放置されている。雨音が鉄の屋根を叩き、内部に反響していた。外の世界から切り離されたような静けさだった。
柊はパイプ椅子に腰を下ろした。冷えた鉄のフレームが太腿の裏に触れた。ポケットからIDカードを取り出す。使い捨て端末のライトで照らした。
「アストレア・セキュリティ株式会社」。社員番号、顔写真、名前。倒した男は「笠原修平」。肩書は「特殊業務部」。特殊業務。柊は鼻で笑った。民間人を高速道路で殺そうとする業務が「特殊」か。顔写真の男は三十代前半、坊主頭に鋭い目。自衛隊上がりの匂いがした。ああいう目をした奴を、柊は何人も見てきた。
カードの裏面にICチップが埋め込まれている。社内認証用だろう。ゲート、サーバールーム、機密エリア。これ一枚で、アストレアの施設に入れる可能性がある。
柊はカードを端末のカメラで撮影し、画像を保存した。現物を失っても情報は残る。元刑事の習慣。証拠は常に複製を取る。
腰を壁に預け、天井を見上げた。雨音が頭蓋に響く。思考を巡らせる。
三日前。宮野が殺され、俺に罪が着せられた。凶器の仕込み、防犯カメラの改竄、DNA鑑定。一晩で個人がやれる仕事じゃない。組織の力が要る。そして今夜、警察とは別の勢力が俺を殺しに来た。アストレア・セキュリティ。宮野が追っていた民間軍事企業。
繋がった。宮野を殺し、俺に罪を被せたのはアストレアだ。あるいは、アストレアを使った誰かだ。
だが、疑問が残る。冤罪で逮捕すれば俺は社会的に終わる。わざわざ物理的に殺しに来る理由は何だ。護送中に逃げた人間を、警察より先に始末しようとする理由。
俺が生きていると困る何かがある。
宮野が最後に追っていた案件。あいつが見つけたものを、俺も見つけ得ると踏んでいる。だから排除する。それも早急に。
宮野。お前は何を掴んだんだ。
柊は目を閉じた。記憶を手繰る。宮野が死ぬ二週間前、昼休みにコンビニの前で話したことを思い出す。四月にしては暖かい日差しの中、宮野は缶コーヒーを片手に口を開いた。「柊、民間軍事って知ってるか」——あの時の宮野の目。いつもの好奇心とは違う何かがあった。興奮ではなく、緊張。面白い案件だと言いながら、声を落としていた。周囲に誰もいないことを確認するように、一度だけ背後を振り返った。あの仕草を、柊は見逃さなかったはずだ。なのに深追いしなかった。
あの時、もっと聞いておくべきだった。
後悔が胸の底を刺す。だが今は感傷に浸っている場合じゃない。柊は目を開けた。
使い捨て端末の画面を見る。バッテリー残量三十二パーセント。充電器はない。電源を切る。
やることを整理する。まず生き延びる。次にアストレアの正体を洗う。このIDカードが突破口だ。そして宮野が死の直前に何を掴んでいたのかを突き止める。
柊は立ち上がった。膝が軋んだ。身体中が重い。だが動ける。動ける限りは止まらない。倉庫の奥を確認する。非常口。外に出ると、裏手は運河だった。黒い水面に街灯の光がぼんやりと揺れている。対岸に古いアパート群が見える。この辺りなら、身分証なしで泊まれるネットカフェがあるかもしれない。
歩き出す前に、もう一度IDカードを見た。特殊業務部。この部署が何をしているのか。防衛省との随意契約の中身は何か。宮野はどこまで辿り着いていたのか。
答えを探すには、まず宮野の足跡を辿るしかない。
雨は小降りになり始めていた。柊は倉庫を出て、運河沿いの道を歩いた。遠くにコンビニの灯りが見える。所持金四万円。逃亡者としての最初の夜が明けようとしていた。
懐のIDカードが、ジャケット越しに肌に触れている。冷たいプラスチックの感触。それが今、柊一真が持つ唯一の武器だった。
宮野が死の直前に残したものが、まだどこかにある。刑事の勘がそう告げていた。