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冤罪刑事、狩る側へ

第1話 第1話

第1話

第1話

バックミラーが赤く染まった。

覆面パトカーの回転灯。二台。いや、三台に増えている。深夜一時の首都高C1、湾岸線への分岐まであと二キロ。柊一真はアクセルを踏み込んだ。

速度計が百四十を示す。雨に濡れた路面がタイヤの悲鳴を跳ね返す。ワイパーが視界を拭うたび、前方のテールランプの赤が滲んで消える。その赤が、三日前の朝に見た光景と重なった。

捜査一課のフロアに踏み入れた瞬間、同僚たちの目が変わった。昨日まで背中を預け合った人間の目ではない。容疑者を見る目だ。デスクの上に置きっぱなしにしていたコーヒーカップから、まだ湯気が立っていた。日常の残骸が、かえって現実の断裂を際立たせた。

——柊一真を殺人の容疑で逮捕する。

手錠の冷たさ。金属が手首の骨に食い込む感覚が、今も皮膚の下に残っている。自分のロッカーから引き出されるビニール袋。中身はサバイバルナイフ。刃に付着した血液は、前夜殺された同僚・宮野誠二のDNAと一致した——と、後から聞かされた。

身に覚えはない。

だが弁解の余地もなかった。防犯カメラには深夜二時に柊が宮野の自宅マンション前を歩く映像が残っていた。その時間、柊は自宅で寝ていた。映像は改竄されている。確信はある。だが、それを証明する手段がない。

留置場の三日目。面会に来た弁護人が言った。「状況証拠がすべてあなたを指しています」。アクリル板越しの弁護人の目は同情でも疑念でもなく、ただ事務的な諦観に満ちていた。勝てない案件を引いた人間の目だった。その夜、柊は走った。護送車の搬送ルート変更の隙を突いた。元捜査一課の人間だ。移送手順の穴は知り尽くしている。

フロントガラスを雨粒が叩く。思考を現在に引き戻す。

三台の覆面が車間を詰めてくる。無線でこちらの位置は共有されている。このまま直進すれば湾岸線に出るが、その先には検問が待っている可能性が高い。横浜方面へ抜けるか。柊は瞬時にルートを組み立てた。大黒ジャンクションで分岐、ベイブリッジを渡って本牧方面へ。首都高を降りれば市街地に紛れ込める。

ハンドルを握る手に力が入る。所持金は四万円。まともな身分証はない。携帯は留置場に置いてきた。使い捨ての端末を一台だけ持っている。元妻の沙織には、逃走直後に一度だけ電話をかけた。

「近づくな」

それだけ言って切った。声が震えていたのは自分の方だった。沙織が何か言いかけた——名前を呼んだのか、罵倒だったのか、最後まで聞く勇気がなかった。

サイドミラーに目をやる。覆面パトカーの数が——増えている。四台目が合流してきた。大黒ジャンクションまであと一キロ。ギリギリだ。減速せずに分岐に突っ込む。タイヤが路面を擦る音がトンネル内に反響した。

カーブの遠心力に身体が引っ張られる。シートベルトが鎖骨に食い込み、胃の中身がせり上がる。ミラーの中で覆面が一台、分岐の壁際に寄りすぎて減速した。三台。まだ三台いる。

その時だった。

左車線から、黒い影が割り込んできた。

大型のSUV。ヘッドライトを消している。民間ナンバー。だが動きが違う。追い越しでも合流でもない。明確な意志を持って、柊の車両に並走してきている。

運転席を一瞥した。

男。短髪。耳に何か——軍用のイヤピースだ。口元が動いている。誰かと通信している。顔に表情がない。任務を遂行する人間の、感情を消した顔だ。

警察じゃない。

その認識が走った瞬間、SUVが車体をこちらに寄せてきた。接触。車体が大きく揺れる。ハンドルが取られそうになる。柊は反射的にブレーキを踏みかけ、すぐに思い直してアクセルを床まで踏んだ。減速すれば後ろの覆面に追いつかれる。

SUVが再び寄せる。今度は完全に体当たりだった。ドアパネルが軋む。窓ガラスにヒビが走った。殺す気だ。排除ではない。確実に殺しにきている。

「何者だ——」

歯を食いしばる。百六十キロ。雨の高速道路で、横から体当たりを受けながらの走行。制御できる限界を超えている。

後方で異変が起きた。SUVの後続車——同型の黒い車両がもう一台、覆面パトカーの列に突っ込んだ。覆面が弾かれるように車線を外れる。派手なスキッド音。さらにもう一台。黒いSUVは三台いた。一台が柊を追い、残りの二台が警察の追跡隊を妨害している。

組織的な動きだった。指揮系統がある。装備がある。そして、警察を敵に回すことを厭わない。

こいつらは誰だ。

柊の思考が回転する。冤罪。指名手配。そしてこの追跡。仕組まれた罪と、それとは別の勢力による殺害未遂。偶然の重なりか。いや——繋がっている。直感が告げる。全部、同じ根から出ている。

ベイブリッジの橋桁が視界の上を流れていく。横浜の灯りが雨に霞む。SUVが三度目の体当たりを仕掛けてきた。今度は後方から。バンパーに衝撃が走り、車体が前のめりにつんのめる。

柊は判断した。このままでは高速上で殺される。降りる。市街地に引き込む。

本牧ふ頭方面への出口が迫る。柊はギリギリまで直進車線を維持し、最後の瞬間にハンドルを切った。SUVが追従する。だが大型車両の慣性が一瞬の遅れを生んだ。その隙に料金所の脇をすり抜け、側道に滑り込む。

ランプを下りた先は、倉庫と工場が並ぶ工業地帯だった。街灯が少ない。雨脚が強まっている。柊はヘッドライトを消し、倉庫の間の狭い路地に車を滑り込ませた。

エンジンを切る。

静寂。雨音だけが車体を叩いている。

心臓が喉元で脈打っていた。両手がハンドルの上で微かに震えている。だが頭は冴えていた。追われる側の人間の脳は、恐怖を飲み込んだ後に異常な明晰さを発揮する。柊は知っている。容疑者を追う側にいた頃に、何度もその目を見てきたから。

今、自分がその目をしている。

バックミラーに映る自分の顔を見た。三日間の留置場生活と一夜の逃走で、頬の肉が削げている。見知らぬ男の顔だった。つい一週間前まで、捜査一課の刑事として取調室の向こう側に座っていた人間の顔ではない。

遠くでエンジン音が聞こえる。SUVが工業地帯に入ってきた。まだ追っている。

柊はグローブボックスから車検証を引き抜き、ポケットに突っ込んだ。ドアをゆっくり開ける。雨が肌を打つ。冷たい。四月の夜気が肺を刺した。潮の匂いが混じっている。港が近い。

走る。倉庫の壁伝いに、影から影へ。足音を殺す。元捜査一課の脚が、犯人を追い詰めた時と同じリズムで地面を蹴った。ただし今は、追う側と追われる側が逆転している。

エンジン音が近づく。ヘッドライトの光が倉庫の壁を舐めた。柊はコンテナの陰に身を沈めた。背中を錆びた鉄板に押し当てる。冷たさが脊椎を貫いた。呼吸を浅く、細くする。吐く息が白い。

SUVが停まった。ドアが開く音。足音。二人。いや三人。統制された間隔で展開している。軍事訓練を受けた動き。

一人がこちらに近づいてくる。五メートル。三メートル。靴底がコンクリートの水たまりを踏む音。規則正しい。迷いがない。

柊は息を止めた。

男がコンテナの角を曲がる——その瞬間、柊は低い姿勢から飛び出した。右手で男の手首を掴み、体軸をずらして地面に引き倒す。後頭部がコンクリートに当たる鈍い音。意識が飛んだのを確認してから、ジャケットの内ポケットを探った。

IDカード。

プラスチックの表面に、企業ロゴが浮き彫りになっている。雨の中で目を凝らす。

「アストレア・セキュリティ」。

聞いたことがある。防衛省との随意契約で急成長した民間軍事企業。柊の指先が、カードの縁で止まった。

——宮野。

殺された同僚。捜査一課のエース。死の二週間前、宮野が妙なことを言っていた。「柊、民間軍事って知ってるか。面白い案件になりそうだ」。あの時は聞き流した。宮野はいつも次の大きな事件に飢えていた。その貪欲さが、あいつを殺したのか。

今、すべてが線で繋がり始めている。

残りの二人の足音が近づく。柊はIDカードをポケットにねじ込み、倉庫の裏手へ走った。フェンスを越え、排水路に降り、闇の中へ消える。

雨に打たれながら、柊は走った。

冤罪は偶然じゃない。宮野が何を掴みかけていたのか。そして誰が、俺に罪を着せたのか。

答えはこのカードの先にある。

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