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七つの怪談と視える少女

第3話 第3話

第3話

第3話

きい、きい、きい。

 あの音はまだ続いていた。廊下の最奥、闇の底から規則正しく響く爪の音。三回掻いて、止まって、また三回。柊には聞こえていない。私だけが受信している信号。体は凍りついたように動かなかったけれど、不思議と恐怖の質が変わり始めていた。六歳のあの日から十一年間、視えるものも聞こえるものも、私を脅かすだけだった。でもこの音には、悪意とは別の何かがある。切迫。焦燥。伝えたいことがあるのに伝わらない、そのもどかしさに似た響き。

 ——でも今は、聞いていられない。

 音のことを考えるのを意識的にやめて、昇降口へ戻った。柊が半歩遅れてついてくる。

 昇降口には十人ほどが集まっていた。用具室から持ち出したバールやドライバーで窓の鉄格子を外そうとした組が、手ぶらで戻ってきたところだった。

「溶接してある。しかも内側から」

 園田が額の汗を拭いながら言った。園田涼太。副委員長という肩書きにふさわしく、声に実務的な硬さがある。

「内側から? 廃校にする前に付けたってこと?」

「知らない。でもバールじゃ無理。溶接を剥がすにはグラインダーがいる」

 誰かが「火事になったら死ぬじゃん」と言った。冗談めかした口調だったけれど、笑いは起きなかった。

 守谷先生が咳払いをした。

「電波は依然として全員圏外だ。バスの運転手さんが異変に気づいて通報してくれるはずだから、落ち着いて待とう。校舎内を把握するために、全員で見回りをする。絶対に単独行動はしないこと」

 先生の声はもう裏返っていなかった。教師のモードに切り替えたのだ。でも右手がズボンの縫い目を何度も摩っているのが見えた。手のひらの汗を拭いている。

「探索って、肝試しの続きみたいなもんでしょ」

 瀬川がそう言って笑った。空気を軽くしようとする笑い方。クラスの中心にいる人間の処世術。数人がつられて笑い、それで少しだけ空気が緩んだ。

 二十四名と守谷先生。合計二十五人で一階から見て回ることになった。集団で動くと、廊下がざわめきで埋まる。それが安心を装うためのざわめきだと気づいているのは、たぶん私だけだった。

 最初の教室は一年一組だった。引き戸を開けた瞬間、埃が舞った。机と椅子が整然と並んでいる。黒板には何も書かれていない。掃除当番表が壁に残っていたが、名前の部分だけが水に滲んだように消えていた。日付は三年前の三月。

 二つ目の教室、一年二組。ほとんど同じ光景。ただ、黒板の隅に白いものが貼ってあった。

「何あれ」

 近くにいた女子が指差した。瀬川が真っ先に近寄って、それを剥がした。

 カードだった。名刺より一回り大きい、厚紙のカード。角が黄ばんで、表面にうっすらとシミが浮いている。手書きの文字。細いペンで、几帳面に書かれている。

 瀬川がカードを裏返して、声に出して読んだ。

「『音楽室のピアノは夜中に勝手に鳴る』」

 一拍の沈黙のあと、あちこちで息を吐く音がした。

「なにそれ、怪談?」

「小学生が作ったやつじゃない?」

「百物語みたいなの流行ってたのかな、この学校」

 瀬川がカードを高く掲げて見せた。

「ただの怪談カードだよ。廃校にありがちなやつ。中学生ってこういうの好きだろ」

 笑い声。今度は本物の笑いだった。怖いものに名前をつけると安心する。それが「怪談カード」という、いかにも子どもじみた名前ならなおさらだ。

「他の教室にもあるかもね」

 園田がそう言って、隣の教室の引き戸を開けた。一年三組の黒板の隅にも、同じ大きさの白いカードが貼ってあった。今度は園田が読み上げた。

「『三階の廊下を、誰もいないのに足音が走る』」

「はいはい、お化けね」

「ありがちありがち」

 その先の教室にもカードがあった。一枚ずつ、黒板の同じ位置に。丁寧に、画鋲で。

 全部で七枚。

 七つの教室を回って七枚のカードを集めた瀬川が、昇降口のそばの廊下でそれを扇状に広げた。トランプを見せるみたいに。

「七つの怪談、七不思議ってやつだな。旧・黒羽中学校の七不思議。これ全部、ただの噂書いてるだけだろ」

 瀬川は一枚目のカードをもう一度読み上げた。わざと大袈裟な声で。

「『音楽室のピアノは夜中に勝手に鳴る』——で? 鳴るわけないだろ、ピアノが勝手に」

 周囲が笑った。瀬川の余裕が伝染して、恐怖が冗談に変換されていく。鉄格子の件も、圏外の件も、この一瞬だけ忘れられる。

 私は笑えなかった。

 七枚のカードの文字を目で追いながら、指先の痺れが戻ってきていた。さっきまで収まっていた痺れ。カードが集められたことで何かが変わった。気配が動いた。校舎全体を満たしていた澱みが、ゆるやかに——方向を持ち始めた。

「音楽室、どこにある?」

 私は自分の声が思ったより大きく出たことに驚いた。数人がこちらを見た。透明な存在が突然声を出したことへの、軽い驚き。

「二階の奥。さっき見たでしょ」

 園田が素っ気なく答えた。

 柊が私の顔を覗き込んだ。何か感じたのか、表情が引き締まった。

「行ったほうがいい?」

 頷くことしかできなかった。胸の奥で何かが騒いでいる。行かなければならないという確信。それは霊感というより、もっと原始的な直感だった。このカードは、ただの子どもの遊びではない。

「何だよ、ほんとに確かめんの?」

 瀬川が呆れた顔で言った。でもクラスメイトたちの何人かが、意外にも足を動かし始めた。怖いもの見たさ。鉄格子と圏外の不安を打ち消すために、別の刺激が必要だったのかもしれない。

 結局、十五人ほどが二階に上がった。残りは昇降口で待機。守谷先生は「全員で行動を」と言いかけたが、生徒たちはもう階段を上り始めていた。

 二階の廊下を奥へ進む。さっき柊と二人で歩いた道を、今度は集団で。足音が重なって、廊下に低い振動が伝わる。窓の外の霧は、さらに濃くなっていた。もう外の景色は何も見えない。窓が白い壁に変わったようだった。

 音楽室は二階の一番奥にあった。

 引き戸の上に「音楽室」と書かれたプレートがある。錆びた金属製。引き戸を開けたのは瀬川だった。大げさに腕を振って、バンと音を立てて。

「さあどうぞ、ピアノが鳴るかどうか確かめましょう」

 中に入った。

 音楽室は他の教室より広かった。段差のある床。後方が高くなっていて、合唱用のひな壇になっている。壁には音楽家の肖像画。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン。額縁の中の顔がすべてこちらを向いている。当然だ、正面を描いた肖像画だから。でもこの状況では、視線を感じずにいられなかった。

 そして、教室の前方に——グランドピアノ。

 黒い蓋が閉じられた状態で、脚は三本とも健在。埃を被っているが、形は崩れていない。鍵盤蓋も閉まっている。三年間誰にも触れられなかったはずのピアノが、まるで次の授業を待つようにそこに在った。

「はい、鳴りません。何も起きません」

 瀬川がピアノの横に立って、両手を広げた。司会者みたいに。クラスメイトたちから苦笑が漏れる。

「なあ、こういうのはさ、馬鹿らしいんだよ。怪談なんてのは退屈な中学生が——」

 ぽん。

 瀬川の声が止まった。

 全員が止まった。

 ぽん。

 もう一度。

 ピアノから。鍵盤蓋は閉まったまま——閉まったまま、ピアノの内部から、単音が響いた。低い音。中低域の、腹の底に触れる振動を伴った音。調律が狂っているのか、音程が微妙にずれていて、空気が歪むような不快さがあった。

「誰か触った?」

 瀬川の声が、初めてかすれた。

 誰も触っていない。瀬川がピアノの一番近くにいて、他の全員は三メートル以上離れている。

 ぽん。

 三度目。今度は音が少しだけ高くなった。別の鍵盤。閉まった蓋の向こうで、弦が振動している。ハンマーが弦を叩いている。鍵盤を誰かが、蓋の内側から押している。

 ぽん。ぽん。

 間隔が短くなった。二つの音が交互に鳴り始める。低い音と、それより少し高い音。リズムが生まれる。不規則に見えて、どこかに法則がある。心臓の鼓動に似ている。どくん、どくん、と脈打つような律動。

 瀬川がピアノから一歩退がった。さっきまでの余裕は消えていた。

「やめろよ。誰かやってんだろ。やめろって」

 誰もやっていない。全員が立ち尽くしている。音だけが膨らんでいく。

 ぽん、ぽん、ぽん。

 三つ目の音が加わった。和音が崩れたまま重なり、音楽室の空気が震え始める。窓ガラスが微かにびりびりと共鳴した。肖像画の額縁が壁に当たって、かたかたと揺れる。

 私の指先が、限界まで痺れていた。視界の端が白く滲む。霊感が暴走しかけている。このピアノの中に、何かがいる。いや——この音は、中からではない。遠くから、このピアノを通して、誰かが弾いている。三年前にここにいた誰かが、時間の向こう側から鍵盤を叩いている。

 音が止まった。

 唐突に、すべてが静まり返った。

 十五人の息づかいだけが、広い音楽室に満ちた。

 誰も動けなかった。

 私だけが一歩、前に出た。自分の意志ではなかった。足が勝手に動いた。ピアノの前に立ち、鍵盤蓋に手を置いた。黒い塗装の表面は異様に冷たくて、指先の痺れと冷たさが溶け合った。

「開けるな——」

 誰かの声。でも手はもう蓋を持ち上げていた。埃が舞い、蝶番がきしんだ。白と黒の鍵盤が露わになる。象牙色の白鍵は黄ばんで、一部に茶色い染みがある。

 鍵盤には、何も異常はなかった。

 でも蓋の裏側——鍵盤蓋の裏面に、何かが刻まれていた。

 爪で引っ掻いたような、浅くて細い線。文字だ。塗装を削って書かれた文字。照明がない音楽室で、窓からの薄い光だけを頼りに、私は目を凝らした。

 名前。

 人の名前が、三つ。

 そしてその下に、一行。

 ——たすけて

 私の視界が白く弾けた。一瞬だけ、この音楽室の別の時間が視えた。放課後の音楽室。窓から夕日が射している。ピアノの前に座った生徒の背中。華奢な肩が震えている。泣いている。蓋の裏に、爪で、文字を刻んでいる。その生徒の周りに影が三つ。笑っている。笑いながら、見下ろしている。

 映像が消えた。

 私は振り返った。十五人の顔が並んでいる。その中の一つ——瀬川の顔だけが、蒼白だった。

 瀬川は蓋の裏の文字が読める距離にいた。名前を、見た。三つの名前の一つが、自分のものだと知っている。

 ピアノが、もう一度だけ鳴った。

 今度は和音だった。不協和音ではない。透き通った、悲しい和音。長い残響が音楽室を満たし、天井に昇り、壁に染みて、消えた。

 まるで、やっと気づいてもらえた、と言っているようだった。

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