第2話
第2話
正門をくぐった瞬間、音が変わった。
外にいたときは風の音や虫の声、クラスメイトたちの笑い声が空気に溶けていた。けれど鉄柵を一歩越えた途端、それらの音がふっと遠のいて、代わりに自分の足音だけが妙にはっきりと聞こえた。砂利を踏む音。靴底が小石を擦る音。二十四人分の足音が、あるはずなのに、自分のものしか認識できない。
——気圧が、おかしい。
耳の奥がぼんやりと詰まるような感覚。飛行機に乗ったときに似ている。唾を飲み込んでも抜けない。こめかみの辺りに鈍い圧迫感があって、頭の中を薄い膜で包まれたような心地がした。隣を歩く柊が何か話しかけてきたけれど、よく聞き取れなかった。
玄関に着いた。昇降口のガラス戸は割れてもいなければ、外れてもいない。三年間放置された廃校の入口にしては、あまりにきれいだった。守谷先生が取っ手に手をかけると、抵抗なく開いた。
「じゃあ入るぞ。二人以上で行動すること。単独行動は禁止。一時間後にここに集合」
先生の声が昇降口の中で反響した。タイルの床、スチールの靴箱、天井の蛍光灯。蛍光灯は当然消えているのに、廊下の奥まで不自然なほどよく見えた。曇りガラスの窓から入る光が、やけに白い。
中に入って最初に感じたのは、匂いだった。
埃。黴。それから、もう一つ。甘い腐敗のような、でもそうとも違う、記憶の底を引っ掻くような匂い。線香に似ているけれど線香ではない。私はこの匂いを知っている。祖母の葬儀の日、棺の周りに漂っていた匂いだ。あのとき六歳だった私の鼻腔に焼きついて、十年経っても消えなかった匂い。
「うわ、かび臭っ」
誰かが鼻を押さえた。でもその程度の反応。他の生徒たちには、甘い匂いは届いていないらしかった。
「意外ときれいじゃん」
瀬川が靴箱を覗き込んで言った。確かにきれいだった。きれいすぎた。三年放置された靴箱に、埃はあるが蜘蛛の巣がない。床のリノリウムはくすんでいるが、剥がれていない。壁の掲示板には色褪せたポスターが一枚残っていて、文字はかすれているが画鋲は四本とも刺さったままだった。
廃校は朽ちるものだ。虫が入り、鳥が入り、雨が入り、少しずつ壊れていく。それが三年分の劣化の正しい姿のはず。なのにこの校舎は、まるで時間が止まったまま保存されているようだった。
——いや、保存されている、のとは違う。
息を止められている。そんな印象だった。
クラスメイトたちは三々五々、廊下に散り始めた。スマートフォンで写真を撮る者、わざと大声を出して反響を楽しむ者。瀬川を中心にした五、六人のグループが一階の廊下を奥へ進んでいった。
柊が私の袖を軽く引いた。
「二階、行ってみない? 図書室があるかも」
二階。さっき、影が立っていた階だ。
嫌だ、と言えばよかった。でも指先の痺れは校舎に入ってから逆に収まっていて、あの窓に立っていた影の気配も消えていた。視えないことが安心なのか不安なのか、判断がつかない。
「……うん」
階段を上がった。柊が先に、私が一段遅れて。コンクリートの階段は一段ごとに微かに軋んだ。手すりの鉄パイプに触れると、冷たさの中に湿り気があった。錆ではない。結露だ。この建物全体が、汗をかいている。踊り場を折り返すとき、階下から聞こえていたクラスメイトたちのざわめきが不意に途切れた。まるで水中に頭を沈めたように、すべてが遠くなった。
二階の廊下は一階よりも暗かった。窓の外の霧がいっそう濃くなっていて、ガラス越しに見える景色は一面の白だった。校庭も、バスも、山の稜線も、すべてが霧に飲まれている。
「すごい霧。さっきまでこんなじゃなかったのに」
柊が窓に近づいて外を見た。私も隣に立って見下ろした。正門の鉄柵がかろうじて見える。その向こうは、何もない。白い壁のようだった。
左から三番目の窓の前を通ったとき、足が一瞬止まった。ここだ。さっき影が立っていた場所。今は何もいない。窓ガラスに私自身の顔が薄く映っているだけ。でも、ガラスの表面に——
指で触れた。内側が濡れている。まるで誰かの息で曇ったばかりのように。指先に伝わる水滴の温度が、結露にしては生温かった。人肌に近い温度。ほんの数秒前まで、ここに誰かの顔があった——そう思うと、触れた指を反射的に引いた。
そのとき、下の階で声が上がった。
笑い声ではなかった。
「おい、閉まってる——閉まってるって!」
階段を駆け下りた。昇降口に生徒が数人集まっていた。守谷先生が取っ手を押している。引いている。押して、引いて、体重をかけている。ガラス戸はびくともしなかった。
「先生、裏口は」
「見てきた。全部閉まってる」
園田の声。息が上がっている。走って確かめてきたらしい。園田は副委員長で、こういうとき真っ先に動く。一階の窓も確かめたのか、「窓は開くけど外に出られない」と付け加えた。
「鉄格子。全部の窓に、鉄格子がはまってる」
——入るときは、なかった。
正門から昇降口まで歩く間、窓を見ていた。鉄格子なんてなかった。あったら気づく。あったら、こんなにきれいな廃校だとは思わなかった。
守谷先生がポケットからスマートフォンを取り出した。画面を見て、顔色が変わった。
「圏外だ。誰か電波入る人いるか?」
一斉にスマートフォンを確認する音。液晶の光が二十いくつ、薄暗い昇降口に並んだ。
誰も、繋がらなかった。
「どういうこと。山の中でも一本ぐらい——」
「冗談でしょ、ありえないんだけど」
声が重なる。笑いは消えていた。瀬川でさえ黙って画面を見つめている。
私だけが、画面を見ていなかった。
私のスマートフォンにはもともと友達の連絡先がほとんど入っていない。圏外になったところで、助けを呼べる相手がいない。そのことに気づいて、胸の奥が冷えた。孤立していることは知っていた。でもそれを突きつけられるのは、教室の隅で一人でいるときとは違う種類の痛みだった。けれどそれ以上に気になることがあった。
昇降口のガラス戸の向こう——外の光景が、おかしい。
私たちが入る前、正門の向こうには砂利の駐車場があって、バスが停まっていた。運転手さんが車内で待機しているはずだった。今、ガラス越しに見える景色は霧だけだ。門柱すら見えない。白い、濃密な、壁のような霧。まるでこの校舎だけが、どこか別の場所に切り取られてしまったようだった。
「落ち着けー。窓が開くなら鉄格子を外せばいい。工具を探そう。どこかに用具室があるはずだ」
守谷先生が声を張った。教師の声だ。状況を統制しようとする声。でもその声がわずかに裏返っていることに、私は気づいていた。先生も怖いのだ。大人も、怖いのだ。
クラスメイトたちが散っていく。用具室を探す者、窓の鉄格子を調べる者。動くことで恐怖を紛らわせようとしている。
柊が私の隣に残っていた。
「ねえ、よるちゃん」
声をひそめて。
「——何か、視える?」
初めてだった。柊にそう聞かれたのは。これまでは噂を気にしていない素振りで、霊感のことには触れなかった。それが今、まっすぐに聞いてきた。怖がっている目ではなかった。頼りにしている目だった。
私は正直に答えた。
「わからない。さっきまで視えていたものが、入った途端に消えた。全部隠れたみたいに。でも——いる。たくさん、いる。気配だけが、建物全体に染みてる」
柊は頷いた。信じたのか、信じていないのか、わからない。でも否定はしなかった。
「行こう。じっとしてるよりまし」
二人で一階の廊下を奥へ歩き始めた。教室が左右に並んでいる。引き戸は閉まっているが、すりガラスの向こうは暗い。通り過ぎるたびに、すりガラスに自分たちの影が映って、一瞬だけ誰かが中にいるように見える。
廊下の突き当たりが近づいたとき、私は足を止めた。
聞こえる。
遠い——とても遠い場所から。でも確かに、この校舎の中から。
きい。
きい。きい。
黒板を爪で引っ掻く音。規則正しく、等間隔で、繰り返されている。三回掻いて、間を置いて、また三回。まるで何かの合図のように。
振り返った。廊下の向こうに柊がいて、その後ろに昇降口の光がある。他の生徒たちの声が聞こえる。用具室を見つけたらしい。普通の、日常的な声。
——私にしか、聞こえていない。
「柊」
「ん?」
「……何も聞こえない?」
柊は耳を澄ませた。数秒。首を傾げた。
「何が?」
きい。きい。きい。
廊下の最奥、暗がりの向こうから、爪が黒板を引っ掻き続けている。三回ずつ。正確に。誰かが——いや、何かが——私に向けて信号を送っている。
気づいてほしいのだ。私だけに。