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七つの怪談と視える少女

第1話 第1話

第1話

第1話

視えるようになったのは、六歳の夏だった。

 祖母の葬儀の日、棺の横に祖母が立っていた。白い着物を着て、泣いている母の頭をそっと撫でていた。その手は母の髪をすり抜けているのに、指先だけが微かに光っていた。私がそれを口にしたとき、親戚たちの顔が一斉にこわばったのを、今でも覚えている。伯父の湯呑みを持つ手が震えて、茶托に陶器がぶつかる乾いた音がした。あの音を聞くたびに、私は自分が何か取り返しのつかないことを言ったのだと理解した。

 霧島よる。十七歳。県立桐ヶ丘高校三年二組、出席番号十二番。趣味は読書。特技は——人に言えない。

 教室にいるとき、私はいつも窓際の最後列にいた。誰が決めたわけでもない。席替えのたびに自然とそうなる。隣の席の子が消しゴムを落としても、私には拾ってほしくないらしかった。目が合いそうになると、わずかに顔を背けられる。もう慣れた。慣れたと思うことにしていた。

 四月の風が窓から入ってきて、プリントの端がめくれた。桜の花びらが一枚、風に乗って教室に入り込み、私の机の上に落ちた。薄桃色の、まだ湿り気の残る花びら。指で摘まもうとしたら、前の席の女子が振り返りかけて、やめた。その一連の動作が、空気の壁をいっそう厚くする。教壇では担任の守谷先生がホームルームの連絡事項を読み上げている。来週の卒業遠足について。行き先は隣町の旧・黒羽中学校。肝試し。

「えー、マジでー?」

 後ろの方で誰かが笑った。黄色い声。楽しそうな声。そういう声を聞くたびに、私は自分と教室の間にある透明な壁を意識する。

 守谷先生の視線が一瞬だけ私をかすめた。気のせいかもしれない。でもあの目は知っている。事情を知っていて、それでも何もしない人間の目だ。

 放課後、私は旧校舎に向かった。

 渡り廊下を抜けると空気が変わる。新校舎の人工的な冷暖房の匂いが消えて、古い木材と紙の匂いが鼻をくすぐる。埃っぽいけれど、嫌いじゃない。ここだけが、息をしていい場所だった。

 旧校舎二階の図書室。もう誰も使わない蔵書が、壁一面のスチール棚に並んでいる。背表紙が日に焼けて、タイトルが読めなくなった本もある。窓から差し込む西日が、埃の粒子を金色に光らせていた。

 いつもの席に座る。窓際の、一人掛けの机。ここに座ると、校庭の向こうに山の稜線が見える。稜線は夕日を受けて濃紺に沈み始めていて、空との境目がにじんでいた。この景色を見るたびに、世界の果てはあのあたりにあるのかもしれないと、馬鹿なことを考える。

 鞄から文庫本を取り出して、栞を挟んだページを開いた。

 でも今日は、活字が頭に入ってこなかった。

 先週、教頭先生から聞かされたのだ。旧校舎は来月から取り壊し工事に入る、と。耐震基準を満たしていない。予算がついた。もう決まったことだ。教頭先生は申し訳なさそうに眼鏡を外して、レンズを拭きながら言った。「霧島さんには早めに伝えておこうと思って」。私がここに通っていることを、知っている人は知っていたのだ。

 ——ここも、なくなるのか。

 本を閉じて、天井を見上げた。染みだらけのボード天井。蛍光灯は三本のうち一本が切れていて、部屋の隅が薄暗い。その暗がりの中に、何かが揺れた気がして、目を凝らした。

 何もいない。今日は、何もいない。

 安堵したのか、落胆したのか、自分でもわからなかった。

「よるちゃんさ、」

 声がして振り返ると、図書室の入口に柊がいた。隣のクラスの柊瑞希。図書委員をやっているから、ときどきここで顔を合わせる。クラスが違うせいか、私の噂をあまり気にしていないようで、普通に話しかけてくる数少ない人間の一人だった。

「来週の遠足、バス何号車?」

「……二号車」

「あ、一緒だ。隣座っていい?」

 一瞬、言葉に詰まった。冗談かと思ったからだ。でも柊の目は笑っていなかった。笑っていないのに、温かかった。夕日の色を映した瞳が、まっすぐこちらを見ている。

「……別にいいけど」

「じゃあ決まり」

 柊はそれだけ言って、返却本の整理に戻っていった。スチール棚の前でしゃがみ込んで、背表紙を確かめながら一冊ずつ棚に差していく。その手つきが丁寧で、本が好きな人間の動作だった。

 図書室に西日が傾いて、私の影が長く伸びた。来月にはこの部屋ごと消える影だ。本を開き直したけれど、やっぱり読めなかった。胸の奥に、言葉にならないものが溜まっていく。居場所がなくなるという予感。それは霊を視るよりずっと、怖い。

 遠足の朝は、曇っていた。

 バスの乗車口に並ぶクラスメイトたちの列に、私は最後尾で加わった。ステップを上がり、通路を歩く。二人掛けの座席がずらりと並んでいる。窓際に座った生徒たちが、隣の席に鞄を置いている。私が近づくと、さりげなく——本当にさりげなく——イヤホンをつけたり、スマートフォンに目を落としたりする。

 空いている席を探しながら通路を進む。この数秒間が、いつも一番長い。

 最後列の手前で、柊が手を振った。隣の席に鞄はなかった。

「おはよ。ここここ」

 座った。それだけのことなのに、少しだけ体の力が抜けた。

 バスが発車した。窓の外を灰色の空が流れていく。柊はイヤホンの片方を差し出してきたけれど、私は首を振った。音楽を聴くと、聞こえるべきものが聞こえなくなることがある。習慣というより、防衛本能に近い。

 柊は「そっか」とだけ言って、イヤホンを戻した。理由を聞かないところが、この子の良いところだと思う。聞かれたら答えられない。答えたら、きっとこの距離も終わる。

「黒羽中学校って、結構有名な心霊スポットらしいよ」

 前の席から声が漏れてきた。瀬川の声だ。クラスの中心にいる男子で、話がうまくて、教師にも好かれている。

「三年前に廃校になってから、夜中に音楽室からピアノの音が聞こえるとか」

「うわ、やめてよ」

 笑い声。楽しそうな怖がり方。私には、その楽しさがわからない。怖いものは怖いのだ。楽しくなんかない。

 バスが山道に入ると、霧が出始めた。四月にしては濃い。フロントガラスの向こうが白く霞んで、運転手がワイパーを動かした。ワイパーが霧を拭っても、すぐにまた白く曇る。

 窓ガラスに額をつけると、冷たさが肌に染みた。霧の中に木々の輪郭がぼんやり浮かんでは消える。まるで、こちら側とあちら側の境目が溶けていくようだった。指先が少しだけ痺れる。この感覚を、私は知っている。近くに、何かがいるときの感覚だ。

 一時間ほど走って、バスが止まった。

「着いたぞー、降りろー」

 守谷先生の間延びした声。生徒たちがざわめきながら立ち上がる。

 バスを降りた瞬間、空気が変わった。

 肌に貼りつくような湿気。四月の山間にしては重すぎる空気。土と苔と、かすかに——錆びた鉄のような匂い。

 目の前に、旧・黒羽中学校がそびえていた。

 三階建てのコンクリート校舎。外壁は灰色というより、黒ずんだ象牙色。窓ガラスは大半が残っていて、曇った表面に霧が映っている。正門の鉄柵は錆びて半開きのまま固まっていた。門柱に掲げられた校名板の文字は苔に侵食されて、「黒」と「校」しか読めない。

 ——廃校、三年。たった三年で、建物はこんなに老いるものだろうか。

 違和感が喉の奥にひっかかった。

 クラスメイトたちは写真を撮ったり、わざと怖がる声を上げたりしている。守谷先生が人数を確認している。二十三名。全員いる。

 柊が隣に来て、「寒くない?」と聞いた。私は寒かった。でもそれは気温のせいじゃない。指先の痺れが手首まで広がっている。この校舎の中に、何かがいる。一つではない。重なり合うように、いくつもの気配が澱んでいる。

 正門をくぐる列に加わりながら、私はふと顔を上げた。

 校舎を見上げた。

 二階の、左から三番目の窓。

 誰かが、こちらを見ていた。

 カーテンの隙間から——いや、カーテンなんかない。曇ったガラスの向こうに、黒い影が立っている。人の形をしている。頭があり、肩があり、こちらをまっすぐに見下ろしている。

 足が止まった。

「どうしたの?」

 柊の声が遠い。

 影は動かない。ただ、見ている。私を。私だけを。周りの生徒たちは誰も気づいていない。賑やかな声と笑い声が、別の世界の音のように聞こえる。

 ——視える。今日も、視えてしまう。

 列が進む。私の背中を、後ろの生徒が軽く押した。足が動く。でも視線は外せなかった。

 二十四人の生徒と一人の教師が、校舎へ向かって歩いていく。

 二階の影は、微動だにしなかった。まるで、待っていたかのように。

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