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密室の先にある赤いバツ印

第1話 第1話

第1話

第1話

電話が鳴ったのは、事務所の蛍光灯が三回目の点滅をした直後だった。

 壁掛け時計は午後十一時十二分を指している。デスクの上には未払いの請求書が三枚、冷めたコーヒーが一杯、そして今月の依頼件数を記録するノートが開いたまま放置されている。白紙だ。先月も、その前の月も白紙だった。開業三年目にして、八神遼の探偵事務所に舞い込んだ依頼の総数は両手で足りる。そのうち半分は浮気調査で、残り半分は猫探しだった。密室殺人はもちろん、殺人事件そのものに関わったことすらない。

 蛍光灯がまた明滅した。管を替える金も惜しい。月末の家賃を払えば、口座の残高は五桁を切る。元警察官だった父が遺したこの事務所は、今や八神にとって実績のない看板と、重すぎる家賃だけを意味していた。

 液晶に表示された名前を見て、八神は少しだけ眉を動かした。戸塚省吾。所轄の刑事で、父の元同僚だ。年に数回、思い出したように連絡をよこす。大抵は飲みの誘いか、あるいは——

「よう、八神。起きてたか」

 受話器の向こうで、戸塚の声はどこか楽しげだった。

「起きてます。何か」

「面白い現場があるんだが、見に来るか。勉強になるぞ」

 面白い現場。戸塚がその言い方をするときは、厄介な事件という意味だ。そしてわざわざ八神を呼ぶのは、善意半分、父の後輩への情け半分、そして——正直に言えば——見世物のように見せてやろうという気分が混じっている。八神にはそれが分かっていたが、断る理由もなかった。蛍光灯の下で請求書を数えるよりはましだ。

「行きます」

「早いな。住所送る。タワーマンションの最上階だ。派手だぞ」

 電話を切り、八神はコーヒーの残りを一息に飲み干した。ぬるく、苦かった。

 現場は城南エリアに建つ三十二階建てのタワーマンションの最上階、三二〇一号室だった。

 エレベーターを降りた瞬間、廊下に漂う空気の質が変わった。厚い絨毯が足音を吸い込み、間接照明が壁面を柔らかく照らしている。一フロアに二戸。八神が月々苦しんでいる家賃の、おそらく十倍以上の世界だった。

 玄関先で戸塚が待っていた。五十代半ば、がっしりとした体格に、くたびれたスーツ。その後ろで鑑識がすでに作業を始めている。

「早かったな」

「暇でしたから」

 戸塚は鼻で笑ったが、すぐに表情を引き締めた。

「被害者は桐谷誠一、五十七歳。不動産会社の社長だ。第一発見者はマンションの管理人。風呂場で見つかった」

 案内されたバスルームは広かった。独立した洗面室を抜けた先に、大人が二人は入れる大型の浴槽が据えられている。天井にはダウンライト。窓はない。換気口は天井に一箇所あるが、目視でも分かるほどしっかりとコーキングで密封されている。そして扉は——八神はドアノブを確認した。サムターン式の鍵。内側から回さなければ施錠できない構造だ。

「施錠されていたんですか」

「管理人がマスターキーで開けた。内側からサムターンが回っていた。完全な密室だ」

 八神はバスルームの中を見回した。白い大理石の壁面に、鑑識のルミノール反応の痕跡が点々と残っている。空気には微かに塩素系洗剤の匂いが漂っていた。清掃が入った形跡があるのか、それとも元々こういう匂いなのか。床のタイルは乾いているが、浴槽の縁にはうっすらと水垢の輪郭が残っている。最後に湯が張られていた水位の名残だ。

 浴槽の中にはすでに湯はなく、遺体は搬出された後だった。だが鑑識の写真が残されている。戸塚がタブレットでそれを見せた。

 桐谷誠一は浴槽の中で仰向けに沈んでいた。服は着たまま——スラックスにワイシャツ。入浴中の事故ではない。両目は閉じ、表情は穏やかに見える。

「自殺と判断した根拠は」

「密室だからだ。物理的に誰も入れない。遺書はないが、最近業績が悪化していたらしい。動機としては十分だろう」

 八神は鑑識写真を一枚ずつ送っていった。浴槽の縁。タイルの目地。排水口の金属カバー。そして——

「この写真、拡大できますか」

 戸塚が画面をピンチした。右手首の接写だった。皮膚の表面に、うっすらと赤い線状の痕跡がある。直線的で、幅は均一。何かで縛られた、あるいは強く圧迫された跡に見える。

「これ、報告書にはどう記載されてますか」

「入浴時の擦過傷、だったかな。大した所見じゃないと法医が言ってた」

 八神は黙ったまま、写真を凝視した。タブレットの画面に映る痕跡を、指で何度も拡大し、戻し、また拡大した。線の端が均一に途切れている。人体が何かに擦れたときの傷なら、圧力のかかり方に偏りが出るはずだ。始点と終点で太さが変わり、方向性を持つ。だがこの痕跡にはそれがない。始まりも終わりも同じ幅で、まるで定規で引いたように均質だった。

 痕跡は右手首にある。

 だが、八神は戸塚から渡された被害者のプロフィールを思い出していた。桐谷誠一のゴルフクラブの会員登録。利き手の欄には「左」と書かれている。

 自殺に見せかけるなら、通常は利き手の反対側に傷をつける。左利きの人間が自分で右手首を傷つけるのは自然だ。だが、この痕跡は擦過傷ではない。均一な幅と直線性は、外部から加えられた圧迫を示唆している。そしてもし——もし他者が自殺に見せかけようとして痕跡を偽装したなら、被害者の利き手を正しく把握していなければ、間違えることがある。右利きの人間の感覚で処理すれば、左手首に痕をつけるはずだ。ところが痕跡は右手首にある。つまり偽装者は桐谷を右利きだと思い込んでいた可能性がある。

 だとすれば、これは——

「八神、そろそろ引き上げるぞ。鑑識が嫌がってる」

 戸塚の声で思考が中断された。八神は口を開きかけた。「この手首の痕跡は不自然だ」と言おうとした。だが、言葉が喉で止まった。

 根拠が足りない。利き手の情報とゴルフクラブの登録書類を照合しただけだ。法医学的な分析もしていない。痕跡の成因についての専門的見解もない。この場で「他殺ではないか」と主張しても、依頼ゼロの駆け出し探偵の見立てなど、誰も聞かない。戸塚に鼻で笑われ、鑑識に煙たがられ、それで終わりだ。

 何より——八神自身にも確信がなかった。密室だ。サムターンは内側から回されていた。窓はない。換気口は密封されている。物理的に他者が侵入し、退出し、施錠する方法が八神には思いつかない。

 だが、手首の痕跡は——

「……ありがとうございました」

 八神は一礼して、バスルームを後にした。エレベーターで一階に降りる間、脳裏に浮かんでいたのは鑑識写真の右手首だった。均一な幅。直線的なライン。利き手との矛盾。

 マンションのエントランスを出ると、四月の夜風が頬に触れた。冷たく、湿っていた。

 事務所への帰り道、八神は二度立ち止まった。一度目はコンビニの前で、缶コーヒーを買おうとしてやめた時。二度目は信号待ちの交差点で、マンションの方角を振り返った時だ。三十二階の窓にはまだ明かりが灯っていた。鑑識の投光器だろう。あの光の下で、自分が気づいた違和感は報告書の一行に埋もれ、やがて忘れられていく。そう思うと、胸の奥にざらついた感触が残った。

 あの右手首の痕跡は、擦過傷ではない。

 八神にはまだそれを証明する術がなかった。自分の見立てが正しいのか、それとも経験の浅さゆえの見当違いなのかも判断がつかない。けれど、一つだけ確かなことがある。もしあの痕跡が他者によるものだとすれば——内側から施錠された密室の中で、誰かが桐谷誠一を殺し、そして不可能な方法で部屋を出たことになる。

 事務所に戻った八神は、蛍光灯の点滅する部屋で上着も脱がずに椅子に座り込んだ。デスクの上の白紙のノートが目に入る。

 そのとき、ポケットの中のスマートフォンが震えた。非通知ではない。知らない番号だった。時刻は午前一時を回っている。こんな時間に探偵事務所に電話をかけてくる人間は、よほど切羽詰まっているか、よほど常識がないかのどちらかだ。

 八神は三コール目で通話ボタンに指を置き、四コール目で押した。

「——八神探偵事務所です」

「突然すみません。桐谷、凛と申します。父のことで、相談したいことがあるんです」

 桐谷。その名前を聞いた瞬間、八神の背筋がわずかに伸びた。蛍光灯が、また一度明滅した。

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