第1話
第1話
地下の薬草庫には、季節がない。
春が来ても陽光は届かず、夏の熱気も石壁に阻まれる。あるのは乾いた土の匂いと、棚に並ぶ数百の薬草が放つ、甘く苦い混合臭だけだった。私はその匂いの中で育った。少なくとも、人として扱われるようになってからの記憶は、すべてこの地下から始まっている。
棚番四十二。白朮。健胃に用いる。隣の四十三は蒼朮で、見た目は似ているが効能が異なる。取り違えれば患者の容態を悪化させる。だが後宮の侍女でこの違いを正確に言える者は、私のほかにいない。
私の名は蘇蘭。後宮の薬草庫を管理する下級侍女——というのは体裁のいい言い方で、実態は地下に押し込められた雑用係だった。薬草の仕分け、乾燥、粉砕、帳簿の記録。それが私に与えられた仕事のすべてで、それ以上のものを求められたことはない。求められないということは、期待されていないということだ。期待されていないということは、失望させる心配もないということだ。私にはその距離感が、むしろ心地よかった。
後宮には千人を超える女たちがいる。妃嬪、女官、侍女、下女。華やかな絹の衣擦れ、権謀術数の囁き、夜ごとの宴席。そのすべてが、地上の話だ。地下庫の石段を降りてくる者はほとんどいない。月に二度の薬草納品の日に業者が来て、週に一度、上級侍女が帳簿の確認に顔を出す。それだけだ。
私はこの場所が嫌いではなかった。むしろ、ここでしか息ができなかった。
人の顔色を窺わなくていい。誰かの機嫌を損ねる心配もない。薬草は正直だ。正しく扱えば正しく応え、間違えれば間違いがそのまま返ってくる。人間のように曖昧な笑顔の裏に悪意を隠したりしない。
棚番七十一。附子。猛毒。だが適切に炮製すれば強心剤になる。
棚番七十二。烏頭。附子と同じトリカブトの根だが、こちらは主根ではなく母根にあたる。毒性はより強い。致死量は経口で一から四ミリグラム。慢性的に摂取した場合、特徴的な症状として——
「蘭」
声がした。この地下で私を名前で呼ぶ人間は一人しかいない。
石段を降りてきたのは翠英だった。薬草庫の先輩侍女で、私より三つ年上。彼女だけが、私をただの番号や「おい」ではなく、名前で呼んでくれた。
「また読んでたの。暗いところで目を悪くするわよ」
翠英は手に小さな油灯を持っていた。私が使っている燭台の蝋燭がもう指の長さほどしか残っていないのを見て、眉をひそめる。
「蝋燭の請求、また減らされたでしょう。上の連中は地下庫が暗くても困らないと思ってるから」
「困らない。棚の位置は全部覚えている」
「そういう問題じゃないの」
翠英は呆れたように笑って、持ってきた油灯を棚の端に置いた。地下庫がわずかに明るくなる。冷たい石壁に油灯の暖色が滲み、棚に並ぶ薬草の影が柔らかく揺れた。翠英はいつもこうだった。自分の持ち分を削って、私に分けてくれる。蝋燭も、食事の余りも、時には上級侍女から聞いた宮中の噂話も。
「今日は何を調べてたの」
「烏頭の慢性中毒について」
「また物騒な」
「毒と薬の境界を知らなければ、薬草庫の管理はできない」
翠英は私の隣に腰を下ろした。石の床は冷たいはずだが、翠英は気にしない。衣の裾が薬草の粉で白く汚れるのも、いつものことだった。
「蘭は本当にここが好きなのね」
「好き嫌いではない。ここしか居場所がないだけ」
「……そうね」
翠英の声が一瞬だけ翳った。彼女自身も、地上の華やかな世界から弾かれた人間だった。実家が没落し、後ろ盾を失い、かつては中級侍女だったのが地下庫まで落とされた。だが翠英は私と違って、地上の空気を知っている。知っているからこそ、ここにいることの意味も分かっている。
「ねえ蘭、上で少し騒ぎがあったの。聞いた?」
「聞いていない。ここには何も届かない」
「第三妃さまの宴席があったでしょう。昨夜の」
私は首を振った。妃嬪の宴席など、地下庫の私には関わりのない世界だ。
翠英が声を落とした。油灯の炎が揺れ、彼女の横顔に影を作る。
「侍女が一人、倒れたの。宴席の最中に。泡を吹いて」
手が止まった。烏頭の帳簿を繰っていた指が、紙の上で凍りついた。
「泡を?」
「そう。もう息はなかったって。宮医さまが診て、食あたりだろうと」
食あたり。
私は帳簿から目を上げ、翠英を見た。翠英は私の表情の変化に気づいたのか、わずかに身じろぎした。
「蘭?」
「食あたりで泡を吹くことはある」
私は努めて平静に言った。それは事実だった。激しい嘔吐に伴って泡状の吐瀉物が出ることはある。食あたりという診断が間違いだとは、この情報だけでは言えない。
だが——私の頭の中で、別の可能性が像を結び始めていた。
烏頭中毒の急性症状。口唇と四肢の痺れ、不整脈、呼吸困難、痙攣。重篤な場合、泡沫状の分泌物を伴う。ここまでは食あたりの重症例と区別がつきにくい。
だが慢性中毒の場合は違う。
長期間にわたって微量の烏頭を摂取し続けた場合、特有の身体変化が現れる。爪の変色——黒紫色の、独特の色素沈着。これは他の食中毒では起こらない。烏頭のアコニチンが末梢血管に作用し、爪床の微小循環を障害することで生じる。
「その侍女の爪は」
言いかけて、止めた。
翠英が怪訝そうに私を見ている。私は何を聞こうとしていたのか。倒れた侍女の爪の色を、なぜ地下庫の下級侍女が気にする。仮に烏頭中毒だったとして、それを誰に言う。宮医が食あたりと断じたものを、薬草庫の下女が覆せるはずがない。覆したところで、待っているのは称賛ではない。宮医の面目を潰した報い——それがどんな形で返ってくるか、地下庫にいても想像はつく。
「……何でもない」
「蘭。変な顔してる」
「していない」
翠英は黙って私を見つめていた。彼女は聡い人だった。私が何かを飲み込んだことに、気づいていたはずだ。だが追及はしなかった。代わりに立ち上がり、裾の土を払って言った。
「明日、上に薬湯を届ける用事があるの。第三妃さまの侍女たちが動揺してるから、鎮静用の配合を頼まれてて。蘭、配合は任せていい?」
「分量は」
「酸棗仁二銭、茯苓一銭五分、知母一銭。煎じ方はいつも通りでいいわ」
「分かった」
翠英は石段を上がっていった。足音が一段ごとに遠ざかり、やがて上の扉が軋む音がして、静寂が戻った。油灯だけが残された。
私は再び帳簿に目を落とした。だが文字が頭に入らなかった。
泡を吹いて倒れた。食あたりと診断された。それだけの情報で、何かを断定することはできない。論理的に考えれば、最も確率の高い説明は宮医の診断通り——食あたりだ。
だが「妙だ」という感覚が、胸の奥に小さな棘のように刺さっていた。
薬草庫の帳簿。棚番七十二の烏頭。先月の在庫確認の記録を私は正確に覚えている。乾燥根が十二本。今月の納品はなし。消費記録もなし。だとすれば、今も十二本あるはずだ。
私は燭台を持って立ち上がり、棚番七十二の前に立った。
乾燥した烏頭の根が、整然と並んでいる。一本ずつ数えた。指先で触れるたびに、乾いた根の表面がざらりと皮膚を引っかく。
十二本。
帳簿通りだった。過不足はない。
私は息を吐いた。何を期待していたのか——いや、何を恐れていたのか。地下庫の烏頭が減っていれば、それは誰かが持ち出したことを意味する。だが数は合っている。食あたりは食あたりだ。私の考えすぎだ。
油灯の炎がまた揺れた。地下庫の空気が動いたのだ。石段の上で誰かが扉を開け閉めしたのだろう。湿った風が首筋を撫で、背中にかすかな寒気が走った。
私は棚番七十二の前を離れ、翠英に頼まれた鎮静用の薬湯の配合に取りかかった。酸棗仁、茯苓、知母。量を正確に計り、紙に包む。この作業なら考えなくて済む。手が覚えている。
だが手を動かしながらも、頭の中では一つの問いが消えなかった。
もし——あの侍女の爪が、黒紫色に変色していたとしたら。
それは食あたりでは説明がつかない。
私は目を閉じた。地下庫の湿った空気が肺を満たす。薬草の匂い。土の匂い。ここは安全だ。ここにいれば、何にも巻き込まれない。
——だが、確かめずにはいられない自分がいることを、私は知っていた。