第2話
第2話
翌朝、私は薬湯の包みを持って石段を上がった。
地下庫を出るのは月に数えるほどしかない。石段の途中で空気が変わる。湿った土の匂いが薄れ、代わりに白粉と沈香の混じった、甘ったるい匂いが鼻腔に忍び込んでくる。地上の匂いだ。後宮の匂いだ。
翠英に頼まれた鎮静用の薬湯は、第三妃の侍女棟に届ける手筈になっていた。だが翠英は朝の点呼に出ており、棟まで持っていくのは私の役目になった。ついでに、薬草の定期納品の受領印を医官房からもらってくるよう言い添えられた。
医官房。遺体安置所は、その裏手にある。
偶然だ。少なくとも、翠英にそう思わせる程度には自然な経路だった。私は薬湯の包みを抱え、中庭を横切った。朝の光が眩しい。地下に慣れた目には、春の陽射しでさえ過剰だった。
侍女棟に薬湯を届け、受取の署名をもらう。次に医官房へ向かう。その途中で安置所の前を通る。通るだけだ。立ち止まる必要はない。覗き込む必要もない。
だが私の足は、安置所の前で止まった。
扉は半開きだった。中から線香の煙が細く漏れ出ている。後宮では死者を長く留め置かない。遺族への引き渡しか、身寄りがなければ城外の共同墓地へ運ばれる。昨夜倒れた侍女がまだここにいるとすれば、今日中に運び出されるはずだ。
私は周囲を見回した。回廊に人影はない。朝餉の支度で皆が忙しい時間帯だった。
扉の隙間から中を覗いた。
薄暗い室内に、台が一つ。白い布がかけられた人の形。顔は布で覆われていたが、両手だけが布の外に出ていた。胸の上で組まれた手——いや、組まされた手。昨夜の死を悼む作法として、誰かが整えたのだろう。
私が見たいのは、その手だ。
息を詰めて室内に半歩だけ入った。線香の匂いが濃くなる。安置所特有の、甘い腐臭の気配はまだない。死後それほど時間が経っていないということだ。
右手の爪に目を凝らした。
薄暗い中でも、それは見えた。
爪の根元から先端にかけて、黒紫色の変色。十指すべてではない。両手の薬指と小指、計四本の爪に、紫がかった暗い色素沈着が帯状に走っている。
食あたりでは、こうはならない。
急性の食中毒で爪が変色することはある。だがそれはチアノーゼによる一時的な青白さであり、死後は消失する。この色素沈着は違う。皮膚の深層に蓄積した色だ。爪の成長線に沿って帯状に分布している。これは数週間から数ヶ月にわたって、微量の毒素が継続的に体内に入り続けたことを示している。
烏頭のアコニチンが末梢循環を障害し、爪床の毛細血管に不可逆的な変性を起こした痕跡。私が昨夜、帳簿を前にして思い描いていた通りの所見だった。
足音が聞こえた。
私は反射的に安置所を出た。扉の前を何食わぬ顔で通り過ぎ、医官房の方へ歩く。背後から下級宦官が二人、担架を持って安置所に入っていくのが聞こえた。遺体の搬出だ。あと少し遅ければ見つかっていた。
医官房で受領印をもらい、地下庫への帰路についた。手は震えていなかった。だが心臓が、肋骨の内側で硬く脈打っていた。
あの爪の色は、食あたりではない。
宮医はなぜ見落としたのか。見落としたのではなく、見なかったのか。あるいは——見ても、食あたりと書いたのか。
考えてはいけない。考えれば、次に何をすべきかという問いが生まれる。問いが生まれれば、答えを求めずにはいられない。答えを求めれば、地下庫の安全な暗がりから出なければならなくなる。
「蘭、遅かったわね。受領印は?」
地下庫に戻ると、翠英がいた。帳簿の整理をしながら私を待っていたらしい。私は黙って受領印の押された書類を渡した。
「ありがとう。——どうしたの、顔が白い」
「地上の光に当たったせいだ」
「嘘。蘭が嘘をつくときは、説明が短すぎるの」
翠英は帳簿を閉じ、私の顔をまっすぐに見た。油灯の光の中で、翠英の目は琥珀色に見える。かつて中級侍女だった頃の聡明さが、その目にはまだ残っていた。
私は迷った。迷って、それでも口を開いた。翠英にだけは、嘘をつき通せる気がしなかった。
「安置所の前を通った。遺体の手が見えた」
翠英の表情が固くなった。
「見に行ったの」
「通りがかっただけだ」
「蘭」
「——爪が変色していた。黒紫色に。薬指と小指、両手とも。帯状の色素沈着だった」
翠英は黙った。彼女は薬学の専門知識を持たないが、私がここ数ヶ月、毒と薬の境界について何を学んでいたかは知っている。私が「帯状の色素沈着」という言葉を使う意味も、理解しているはずだった。
「それは——食あたりでは」
「起こらない。慢性的な烏頭中毒の特徴的所見だ」
声に出して言うと、それは仮説ではなく事実のように響いた。私は自分の断定の強さに少し驚いた。だが撤回する気にはならなかった。あの爪を見た。あの色は、見間違えようがない。
翠英がゆっくりと立ち上がった。私の前に来て、両肩に手を置いた。
「蘭。聞いて」
翠英の声は穏やかだったが、指先に力がこもっていた。
「それが本当だとしても、あなたが口にしていいことじゃない。宮医さまが食あたりと診断を下した。それが後宮の公式な見解よ。下級侍女がそれを覆そうとすれば何が起こるか、分かるでしょう」
分かっている。宮医の診断を否定することは、宮医の権威を否定することだ。宮医は第二妃の後ろ盾を持つ。第二妃の不興を買えば、地下庫どころか後宮に居場所がなくなる。下級侍女一人が消えたところで、誰も気にしない。
「でも、もしあの侍女が毒殺されたのなら——」
「だから余計に危ないの」
翠英の声が鋭くなった。油灯の炎が揺れ、二人の影が壁の上で大きく震えた。
「食あたりなら事故で済む。でも毒殺なら、殺した人間がいる。その人間は今もこの後宮のどこかにいて、真相が露見することを恐れている。そこに下級侍女が首を突っ込めばどうなる? 次に消されるのはあなたよ」
翠英の論理は正しかった。感情ではなく、状況の分析として正しかった。だからこそ反論が難しい。
「……分かった」
「本当に?」
「黙っている。誰にも言わない」
翠英はしばらく私の目を見つめていたが、やがて手を離した。信じたというより、信じることにした、という顔だった。
「蘭。あなたは頭がいい。でも頭がいいことと、生き延びることは違うの。ここでは愚かなふりができる人間が一番長生きする」
翠英は石段を上がっていった。今度は油灯を置いていかなかった。彼女なりの、怒りの表現だったのかもしれない。
地下庫に静寂が戻った。
私は翠英に嘘をついた。
正確には、嘘をつくことを決めた。「黙っている」とは言った。誰にも言わないとも言った。だが、調べないとは言っていない。
棚の前に座り、帳簿を開いた。薬草庫の帳簿は三種類ある。入庫帳、出庫帳、そして棚卸帳。入庫帳には納品業者からの受入記録、出庫帳には各部署への払出記録、棚卸帳には月次の実地棚卸の結果が記されている。
私が昨夜確認したのは棚卸帳だけだ。棚番七十二の烏頭は十二本。帳簿通り、実物も十二本。だが棚卸帳が正しいことは、入庫帳と出庫帳が正しいことを意味しない。
出庫帳を遡る。烏頭の出庫記録。過去半年分を一行ずつ確認する。烏頭は猛毒に分類されるため、出庫には上級侍女の承認印が必要だ。記録は少ない。三ヶ月前に炮製用として二本、宮医の処方箋付きで出庫。それ以外には——
ない。
次に入庫帳。半年前の大量納品で二十本入庫。三ヶ月前に二本出庫。残りは十八本のはずだ。
だが棚卸帳では十二本。
差は六本。
私は帳簿を閉じ、もう一度開いた。数字を指でなぞり、計算を繰り返した。入庫二十、出庫二、残十八。棚卸十二。差引六本。
六本の烏頭が、帳簿の上から消えている。
棚卸帳には毎月の数が記録されている。遡って確認する。四ヶ月前:十八本。三ヶ月前:出庫二本で十六本。二ヶ月前:十四本。先月:十二本。
毎月二本ずつ、減っている。出庫記録なしに。
棚卸帳を記入しているのは、上級侍女だ。彼女は毎月の減少に気づいていたはずだ。気づいていて、何も記していない。報告もしていない。帳簿には単に数字が並んでいるだけで、減少の理由を示す注記は一切ない。
これは誤差ではない。
毎月二本ずつ、正確に同じ数が消える。それは偶然の紛失ではなく、定期的な持ち出しを意味する。誰かが、この薬草庫から烏頭を計画的に抜き取っている。
私は帳簿を元の場所に戻した。表面上は何も変わっていない。帳簿の位置も、棚の薬草も、昨日と同じ。ただ私の中で、一つの問いが確信に変わりつつあった。
あの侍女は、食あたりで死んだのではない。
そして犯人は、まだ烏頭を必要としている。毎月二本ずつ。次の一手のために。
私は油灯の芯を短く切り、明かりを落とした。暗い地下庫の中で、帳簿の数字だけが瞼の裏に残っていた。十八、十六、十四、十二。規則正しい減少。
来月になれば、棚番七十二の烏頭は十本になる。
——あるいは、次の犠牲者が出る。