第2話
第2話
国家が追ってくる。
その認識が脳の奥に刻まれた瞬間、神崎の思考は逆に冷えた。恐怖は後だ。今は一秒後の路面と、三秒後の車線だけを見ろ。感情を切り離す技術。公安時代に叩き込まれた訓練が、三年の空白を飛び越えて脊髄に火を入れる。瞳孔が開き、視界の解像度が上がるのを感じた。街灯の光が一つ一つ粒になって見える。
速度計が百三十を指す。レヴォーグのエンジンが高回転域で吠えている。振動がステアリングを通じて掌に伝わり、路面の継ぎ目を一つずつ数えていく。首都高四号線、外苑付近。片側二車線。深夜の交通量は少ないが、それは追手にとっても同じ条件だった。防音壁の向こうに並ぶマンションの灯りが、等間隔に流れては消える。あの窓の向こうで眠っている誰かは、今この車線で人間狩りが行われていることを知らない。
バックミラー。SUV二台。距離七十メートルまで詰めてきている。左車線と右車線に一台ずつ。こちらがどちらに逃げても、片方が並走して押し込む配置。教科書通りの挟撃フォーメーション。ナンバーは白。見かけ上は一般車両だが、エンジン音が違う。排気量を上げている。おそらくランクルの特装モデル。車体重量でぶつければ、レヴォーグなど紙屑だ。
前方に合流。三号線からの流入路が右側から伸びてくる。——その合流車線に、三台目のヘッドライトが現れた。
「封じたか」
呟きが唇から漏れる。合流地点の封鎖。後ろの二台で逃げ道を塞ぎ、横から三台目をぶつける。時速百三十キロでの側面衝突。フレームが耐えられるわけがない。ガラスが砕け、鉄が折れ、肉体が潰される。そこまでの映像が一瞬で脳裏を走り抜けた。
三秒。合流までの猶予は三秒。
神崎はブレーキを踏まなかった。逆だ。アクセルを床まで踏み抜く。回転数が跳ね上がり、レヴォーグが咆哮する。百四十。百四十五。シートに体が押しつけられる。背骨にGがかかり、ジャケットの内ポケットに入れた防水ポーチが肋骨を圧迫した。あの中に入っているものが、この追跡のすべての原因だ。
合流車線の三台目が加速してくる。タイミングを合わせている。あと二秒で車線が重なる——
ハンドルを左に切った。壁際ぎりぎり。ガードレールとの隙間が三十センチもない。火花が散る。左のサイドミラーが吹き飛んだ。耳元で金属の悲鳴。鋼と鋼が擦れる甲高い音が鼓膜を刺し、焦げた塗料の匂いがエアコンの吹き出し口から流れ込んだ。だがボディは抜けた。三台目のSUVが合流車線に飛び込んだ瞬間、神崎は既にその前方にいた。
背後でブレーキ音。三台目が後続のSUVと接触しかけ、隊列が一瞬崩れる。稼いだ距離は五十メートル。十秒分。
十秒あれば考えられる。
首都高の構造を頭の中に描く。この先、外苑トンネルを抜ければ谷町ジャンクション。分岐が三方向。だが追手が公安のプロトコルを使っているなら、ジャンクションの先にも別動隊を配置できる。首都高の全出口をカバーすることさえ可能だ。かつて自分が所属していた組織の資源の厚みを、今は敵として突きつけられている。皮肉だった。自分がマニュアルを書いた追跡プロトコルに、自分が追われている。
正攻法では降りられない。
前方に光が見えた。トンネルの入口。天井の照明がオレンジ色の帯となって流れていく。壁が迫り、空間が狭まる。排気ガスとアスファルトの匂いが濃くなり、エンジン音が壁に反射して二重三重に重なった。トンネル内は二車線。追い越しは困難——だが逃げる方も同じだ。
トンネルに突入した直後、対向車線から何かが飛び出した。
ヘッドライトではない。もっと小さい。バイクだ。逆走している。黒いボックスを背負ったライダー——バイク便。深夜の首都高でインターを間違えたか、それとも常習的な違反者か。どちらでもいい。問題は、百三十キロの相対速度でこちらに向かってきていることだ。
反射的にハンドルを右に切る。が、右車線には壁がある。切れる角度は限られている。バイクが左車線に避ける動きを見せた——同じ方向だ。正面衝突まで一秒を切った。ヘルメットのバイザーに反射した自分のヘッドライトが、白い点になって膨らんでくる。
「逆だ——」
ハンドルを戻す。左に振る。タイヤが路面を削る音。車体が横滑りし、リアが流れた。遠心力で体が右に引っ張られ、シートベルトが鎖骨に食い込む。バイクが右に避けた。金属とゴムの匂いが窓の隙間から流れ込む。バイクのハンドルがレヴォーグのボディを掠め、火花が一瞬だけ尾灯の赤に混じった。
通過。
心臓が跳ねている。だが手は震えていなかった。三年のブランクが嘘のように、体が動く。これは訓練の記憶ではない。もっと深い場所にある何か——追い詰められた人間が最後に頼る、生存本能の回路だ。口の中に血の味がした。いつの間にか舌の内側を噛んでいたらしい。
バックミラーを確認する。逆走バイクが追手の隊列に突っ込んだ。先頭のSUVが急制動をかけ、後続が車間を詰められずに蛇行している。トンネルの壁面にテールランプの赤が乱反射して、まるで非常灯が点滅しているように見えた。距離が百メートル以上に開いた。
今だ。
トンネルを抜ける。夜空が広がった。四月の冷えた空気が割れたサイドミラーの穴から吹き込み、汗ばんだ首筋を撫でていく。谷町ジャンクションの分岐標識が頭上を流れていく。都心環状線方面、三号線方面、四号線直進。三つの選択肢。どれを選んでも、追手はすべてのルートに人員を割り当ててくるだろう。
だが、ジャンクションの構造には一つだけ盲点がある。分岐の手前、側壁が途切れるポイント。保守用の退避帯。車一台がかろうじて入れる幅。通常走行では見落とす場所だが、公安時代に高速道路上の張り込みで何度も使った。あの薄暗い凹みで、ターゲットの車が通過するのを何時間も待ったことがある。今度は自分が獲物の側で、その穴に潜る。
速度を落とす。百二十、百、八十。タイヤのロードノイズが静まり、代わりにエンジンの低い鼓動が腹に響く。分岐レーンが広がり始める。追手との距離はまだ百メートル以上。直線区間に入る前に——
ハンドルを右に切り、退避帯に滑り込んだ。ヘッドライトを消す。エンジンはアイドリング。暗闇の中で、自分の呼吸だけが耳に届く。吸って、吐いて。心拍が耳の奥で脈打っている。ダッシュボードの時計の緑色の光だけが、車内にかすかな輪郭を与えていた。
三秒後、SUV二台が轟音とともに通過した。都心環状線方面に直進していく。排気の風圧がレヴォーグの車体を揺らし、退避帯のコンクリート壁に跳ね返った。テールランプが曲線の向こうに消える。三台目は——来ない。合流時の接触で脱落したか。
神崎は額の汗を拭った。指先が冷たい。アドレナリンが切れ始めている。ジャケットの内側で、防水ポーチの角がまだ肋骨に食い込んでいる。Loss-7。この紙の束のために、国家が人を殺す。
レヴォーグのボディは左側面が大きく抉れ、サイドミラーを失い、右リアフェンダーにバイクとの接触痕が走っていた。目立つ。この車では長く動けない。
退避帯からゆっくりと本線に復帰する。三号線方面を選び、速度を法定に落とした。追手は環状線方向に流れた。猶予は長くて十五分。彼らが戻ってくる前に首都高を降り、車を乗り捨てなければならない。
携帯電話を取り出す。依頼人の番号。三年前に突然連絡をよこし、Loss-7の存在を匂わせた男。あの封筒を送ってきたのは——おそらく、この男だ。画面の光が暗順応した目を刺し、番号の数字列が滲んで見えた。
コール音が三回。繋がった。
「無事か」
依頼人の声は、銃声の直後にしては落ち着きすぎていた。まるで結果を知っていたかのように。
「追手は公安だ。知っていたな」
沈黙。一拍の間があり、依頼人が言った。
「知っていた。だから車を用意した」
「最初から囮か。俺を使って——」
「違う。あんたでなきゃ生き延びられなかった。そしてあのファイルは、生きている人間が持っていなきゃ意味がない」
神崎は唇を噛んだ。使われた。だが依頼人の言葉の裏に、切迫した何かがあった。計算だけではない響き。声の底に、恐怖に似た震えが一瞬だけ混じっていた。この男もまた、何かに追われている。
「一つだけ教えろ。お前は何者だ」
依頼人は答えなかった。代わりに、一つの名前を口にした。
「白石遼。テトラファーマの元研究員。この名前を覚えておけ」
通話が切れた。耳に残ったのは電子音だけだった。白石遼。知らない名前だ。だがその五文字が、喉に刺さった骨のように意識から離れなかった。
バックミラーには、追手の姿はまだなかった。だが夜の首都高はどこまでも続いていて、この暗闘が今夜だけで終わらないことを、神崎の直感が告げていた。白石遼。その名前が、次の戦場の座標を示している。