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帳簿外――公安を追われた男

第3話 第3話

第3話

第3話

三号線を西に流す。法定速度。右手でステアリングを握り、左手は膝の上のグロック19に添えている。指先が銃身の冷たさを拾うたびに、意識が現実に繋ぎ止められた。工業用の鉄塊のような無機質な冷たさ。それが今、自分の生命線になっている。

バックミラー。追手の影はない。だが、ないことが安全を意味しない。公安の追跡プロトコルでは、対象をロストした場合、即座にフェーズを切り替える。走行追尾から面の包囲へ。高速の全出口に人員を配置し、料金所のカメラ映像をリアルタイムで監視する。猶予は十五分と見積もったが、楽観的すぎたかもしれない。すでに八分が経過している。

レヴォーグの左側面は深く抉れ、走行風が傷口から車内に吹き込んでいた。四月の夜気が首筋を舐める。湿度を含んだ風が、額の汗を冷やし、こめかみをじんと痺れさせた。ボディの損傷だけではない。左サイドミラーを失った状態では死角が広すぎる。車線変更のたびに首を回して目視する。その一瞬の隙が致命傷になりうる距離に、追手がいないという保証はどこにもない。この車を一分でも早く捨てなければ、動く棺桶に乗っているのと変わらなかった。

前方に用賀料金所の照明が浮かんだ。オレンジ色の光が天蓋のように広がり、レーンを照らしている。ETCゲートが四列。深夜でも監視カメラは生きている。ここを通過すれば、ナンバーと運転席の顔がデータベースに記録される。公安がアクセス権を持つデータベースに。

通過するわけにはいかない。だが料金所の手前で停車すれば、それ自体が異常行動として検知される。

二択ではない。第三の選択肢を作れ。頭の中で訓練時代の教官の声が蘇った。状況を与えられた条件で受け入れるな。条件そのものを書き換えろ。あの低い、感情を削ぎ落とした声。何度聞いても慣れなかった声が、今は唯一の道標になっている。

神崎は速度を落とさず、ETCレーンに進入した。バーが上がる。通過——した瞬間、ハザードランプを点灯させ、路肩に寄せた。エンジントラブルを装う動作。料金所を抜けた直後の路肩停車は、故障車として処理される。監視員の注意を引くが、即座に通報はされない。対応マニュアルでは、まず巡回車両の派遣を検討する。それには三分から五分かかる。

レヴォーグを降りた。アスファルトに足を着いた瞬間、左膝に鈍い痛みが走った。さっきの衝突の衝撃が、今になって神経に届いている。歯を食いしばる。痛みを意識の外縁に押しやり、身体の動作確認に切り替えた。左膝——荷重をかけると軋む。走れるが、全力疾走は三十秒が限度。右肩——可動域に問題なし。両手——震えていない。まだ戦える。ジャケットの内側で防水ポーチが肋骨を圧迫している。Loss-7の重み。紙の束が、自分の命と等価になった夜だ。

料金所の裏手。保守用のフェンスが暗がりの中に続いていた。フェンスの継ぎ目に手をかける。錆びた金属が掌に食い込み、微かに血の匂いがした。乗り越える。着地した先は側道——首都高の下を走る一般道だ。

環八通りの歩道に出る。深夜の幹線道路。タクシーが数台、信号待ちの列を作っている。排気ガスとアスファルトの匂いが混じった都市の夜気を吸い込む。高速道路の上の世界から、地上の日常に降りてきた。ここからは徒歩と電車の人間になる。

神崎は歩きながら、頭の中で地図を広げた。

ファイルの原本は手元にある。だがこれ一つでは脆すぎる。自分が消されれば、ファイルも消える。公安時代の基本原則。証拠は分散させろ。単一障害点を作るな。

コンビニに入った。自動ドアが開いた瞬間、蛍光灯の光が網膜を刺した。深夜の暗闇に慣れた目には暴力的な明るさだった。コピー機の前に立つ。A4の束を一枚ずつガラス面に置き、ボタンを押す。機械音が店内に響くたびに、背中の緊張が走った。入口のドアが開けば、三秒で右手をジャケットの中に入れられる位置取り。店員は奥のバックヤードにいる。客は自分だけ。蛍光灯の白い光が、コピー用紙に複製されていくLoss-7の文字列を容赦なく照らしていた。

三部。原本を含めて四セット。一つは身体に残す。残り三つを、都内三か所に分散する。

用賀駅から東急田園都市線に乗った。深夜帯の車両は空いている。シートに座ると、緊張で硬直していた背中の筋肉がようやく軋みを訴え始めた。肩甲骨の間に鉛を流し込まれたような重さ。窓ガラスに映る自分の顔。目の下に隈。頬がこけている。三年前に辞めた男の顔ではなかった。追われる者の顔だ。

渋谷で降りる。駅構内のコインロッカー。中段の一つを開け、コピーの一部を封筒に入れて押し込んだ。鍵を抜く。百円玉サイズの金属片が、掌の中で冷たく光る。

半蔵門線に乗り換え、大手町。丸の内の地下通路は深夜でも完全には閉まらない。オフィスビルの地下に連なるロッカーエリアに二つ目を預ける。鍵をジーンズの裏ポケットに滑り込ませた。

最後の一つは東京駅の八重洲口。新幹線改札脇のロッカーに入れる。三か所。渋谷、大手町、東京。それぞれ異なる路線、異なる管轄区域。一か所が押さえられても、残り二か所が生き残る。

原本だけは手放さない。

八重洲口の男子トイレに入り、個室の鍵を閉めた。ジャケットを脱ぐ。防水ポーチからLoss-7の原本を取り出す。二十枚の紙束。コンビニで買った養生テープを腹に巻き、紙束を腹部に固定した。テープの粘着が肌を引っ張り、動くたびに微かな痛みが走る。だが服の上からはわからない。

ジャケットを羽織り直す。鏡の前に立つ。腹部の膨らみは目立たない。深夜のサラリーマンが一人、疲れた顔でトイレから出てくる。それだけの光景に見えるはずだ。

鏡の中の自分と目が合った。三年前に辞職届を書いた夜、同じように鏡を見た。あのときは空っぽだった。何も残っていなかった。今は違う。腹にテープで巻きつけた紙の束が、自分をこの戦場に縛りつけている。

東京駅の地下通路を歩く。深夜三時を過ぎた構内に人影はまばらだ。清掃員のモップが床を擦る音が、天井の高い空間に反響している。自分の足音がタイルに跳ね返り、二重に聞こえる。まるで誰かがぴたりと歩調を合わせてついてきているかのように。神崎は歩きながら、追手の動きを逆算していた。

あの連携。料金所封鎖の速度。通信プロトコル。どれも公安の標準装備と手順に合致する。だが公安の通常業務として元職員を射殺しにくる案件は存在しない。正規の指揮系統では承認されない。ならば——指揮系統の外にある何かが、あの部隊を動かしている。

公安の装備を使い、公安の訓練を受けた人間が、公安の命令系統の外で動いている。矛盾した命題。だがLoss-7の中身——治験改竄、高官失踪、情報提供者の「事故死」——それらすべてを整合させる答えは一つしかない。

国家機構の中に、もう一つの国家がある。

表の組織図には載らない意思決定ライン。予算は「帳簿外」で処理される。人員は既存の機関から引き抜かれ、元の所属に籍を残したまま別の命令系統で動く。自分が公安を追われたのも、牧村が事故死したのも、七人の高官が消されたのも、すべて同じ手が動かした結果だ。

見えてきた。敵の輪郭が。

だが輪郭が見えただけでは勝てない。証拠を持っているだけでは生き残れない。必要なのは、この輪郭に名前と顔を与えること。そしてそのための鍵が——

白石遼。

依頼人が最後に残した名前。テトラファーマの元研究員。治験データの改竄を直接知る人間。生きているなら、物証と証言の両方が揃う。生きているなら。だが「生きているなら」という仮定そのものが、すでに楽観に過ぎるかもしれなかった。Loss-7に名前が載った人間で、今も無事でいられる確率は高くない。それでも——可能性がゼロでない限り、動く理由にはなる。

神崎はジャケットのポケットに手を入れた。依頼人のレヴォーグの鍵が指先に触れる。もう使えない鍵。だが捨てなかった。金属の角が指の腹に食い込む感触を確かめる。この鍵を渡した人間の意図を、まだ読み切れていない。

地下通路の端、終夜営業のネットカフェの看板が見えた。ここで夜を明かす。Loss-7の原本を読み直す。白石遼の名前が、あの二十枚のどこかに埋まっているはずだ。

自動ドアをくぐる瞬間、首筋に視線を感じた。振り返る。通路には誰もいない。清掃員のモップの音だけが、遠くで反響していた。

誰もいない。

だが神崎の背筋を走った冷たい感覚は、訓練が刻んだ警報だった。三年のブランクでも錆びない種類の——獣が天敵の気配を嗅ぎ取る、あの原始的な感覚。

見られている。

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