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後宮薬師と遅効の毒

第2話 第2話

第2話

第2話

芙蓉が死んだのは、翌朝の卯の刻だった。

私は一晩中、芙蓉の枕元を離れなかった。解毒の煎じ薬を三度替え、体温の低下を遅らせるために腹部に温石を当て続けた。すべて無意味だと知りながら。鴆蝋が肝臓を蝕む速度は一定で、人の手で覆せるものではない。それでも手を止められなかったのは、薬師としての矜持か、あるいは単なる往生際の悪さか。

最後の呼吸は、驚くほど静かだった。浅く、浅く、やがて消えた。まるで水面に落ちた波紋が端に届く前に消えるように、芙蓉の命は音もなく途絶えた。私は芙蓉の手首に指を当て、脈が完全に失われたことを確認した。皮膚はすでに冷たく、蝋のような質感に変わっていた。

「——御臨終です」

自分の声が、やけに事務的に聞こえた。

周囲の女官たちの泣き声が大きくなった。私はその輪から一歩退き、薬箱を閉じた。使わなかった薬包が、箱の中で乾いた音を立てた。

篠原が検屍を行ったのは、その二刻後のことだ。

私は立ち会いを求められた。薬物による死であれば、薬師の見解が必要になる。当然のことだ。だが、検屍の場に立ったとき、篠原の目が一瞬こちらを探るように動いたのを、私は見逃さなかった。

「肝臓の壊死が著しい。脾臓にも変色が見られる」

篠原が淡々と所見を述べる。声は落ち着いていたが、昨夜の動揺がまだ指先に残っているのか、筆を持つ手がわずかに揺れていた。

「毒物は鴆蝋と断定してよいか、澪殿」

「症状の進行と臓器の所見から、鴆蝋以外は考えにくい」

私は事実だけを答えた。それ以上の言葉を足す気にはなれなかった。鴆蝋だと断定することが、自分の首に縄をかけることと同義だと分かっていたからだ。

篠原は黙って頷き、検屍書に筆を走らせた。その筆跡は几帳面で、乱れがなかった。

報告は昼前に典薬頭の宗近を経て、後宮の管理を司る尚侍のもとへ上がった。私が薬房に戻って一刻と経たないうちに、尚侍付きの女官二人が薬房を訪れた。

「澪殿。尚侍様より、いくつかお尋ねしたきことがございます」

尋問だった。言葉は丁寧だが、女官の目に浮かぶ色は明らかだった。

「鴆蝋の調合法をご存知なのは、澪殿のみと伺っております」

「はい」

「他に知る者はおりませんか」

「私の知る限りでは」

「薬房の出入り記録を確認したところ、ここ数日、不審な出入りは見当たりません。薬房の管理は澪殿がお一人でなさっているとのこと」

「その通りです」

女官は帳面に目を落とした。もう一人の女官が一歩前に出た。こちらは年嵩で、口元が薄く引き結ばれている。

「率直にお聞きします。芙蓉様の茶に毒を入れることは、澪殿には可能でしたか」

「鴆蝋の調合は可能です。ただし、原料の白霜草は薬房に在庫がありません。調合法を知っていることと、実際に毒を作れることは別です」

「白霜草がなければ作れない、と」

「そうです」

女官たちは顔を見合わせた。だが、その表情に安堵の色はなかった。調合法を知る唯一の人間であるという事実は、白霜草の有無とは無関係に、私を最も疑わしい位置に置き続ける。

薬の知識が、初めて自分に刃を向けていた。

夕刻、薬房の前に衛士が二人立った。監視だった。拘束とは言わないが、実質的に軟禁に等しい。薬房から出ることは許されるが、後宮の敷地を離れることはできない。

私は薬棚の前に座り、いつものように薬草の仕分けを始めた。手を動かしていなければ、思考が同じ場所を回り続ける。鴆蝋。白霜草。師匠の秘伝。調合法を知る者が他にいるはずがない。だが、現に鴆蝋は使われた。この矛盾の答えを見つけなければ、私はこのまま毒殺の罪を着ることになる。

棚の黄耆を手に取った。昨夜、砕きかけて中断したものだ。乾燥が不十分だった黄耆。あの時の青臭い匂いが、もう遠い昔のことのように感じられた。

衛士の一人が咳払いをした。その音で、私は自分が黄耆を握ったまま動きを止めていたことに気づいた。

日が暮れた。

燭台に火を入れ、煎じ薬の調合に戻ろうとしたとき、薬房の戸が叩かれた。衛士が誰かと言葉を交わしている。低い声。女の声。しばらく押し問答があり、やがて戸が開いた。

入ってきたのは、見覚えのある侍女だった。芙蓉付きの侍女——名は確か、千鶴。昨夜、芙蓉の居室の廊下で、泣き崩れる女官たちの中に立っていた女だ。泣いてはいなかった。青白い顔で、唇を噛んで立っていた。その姿が妙に印象に残っていた。

「夜分に申し訳ございません」

千鶴は深く頭を下げた。声は落ち着いていたが、目の下に濃い隈があった。一睡もしていないのだろう。

「何の用ですか」

「お伝えしなければならないことがございます。尚侍様にはすでに申し上げましたが、澪殿にも直接」

千鶴は薬房の中を見回した。衛士の視線を気にしているのかと思ったが、そうではなかった。薬棚を眺め、乳鉢を眺め、壁に染みついた煎じ薬の痕を眺めていた。まるで、この部屋そのものを確かめるように。

「芙蓉様は、お亡くなりになる前に言葉を遺されました」

私の手が止まった。昨夜、芙蓉の唇が動いたのを思い出した。聞き取れなかった、あの言葉。

「意識が戻られた折に、私にだけ仰いました。——『薬師の子を守れ』と」

薬師の子。

「……それは、私のことですか」

「芙蓉様が他の薬師をご存知であったとは思えません」

千鶴の声は淡々としていた。感情を押し殺しているのではなく、事実を正確に伝えることだけに意識を集中しているように見えた。

「この証言により、澪殿の即時拘束は見送られました。被害者自身が庇った人物を、証拠なく処断することは尚侍様もお避けになりたいご様子です」

私は千鶴の顔を見た。なぜこの女はわざわざ私に伝えに来たのか。尚侍に報告すれば、それで事足りるはずだ。

「なぜ」

「芙蓉様のお言葉だからです」

千鶴は真っ直ぐにこちらを見た。その目には涙はなかったが、赤く充血していた。

「芙蓉様は、澪殿が犯人ではないと信じておられた。毒に倒れ、死の間際にあって、なお澪殿を案じておられた。その遺志を、侍女である私が軽んじることはできません」

胸の奥で、何かが軋んだ。

庇われる、ということの意味が分からなかった。師匠が亡くなってから十年、私を守ろうとした人間はいなかった。必要もなかった。一人で立ち、一人で薬を作り、一人で生きてきた。それで十分だった。

芙蓉とは、数えるほどしか言葉を交わしたことがない。季節の変わり目に調合した養生の煎じ薬を届けたとき、「いつもありがとう」と微笑んだ顔を覚えている。後宮の側室の中では珍しく、薬師にも丁寧な言葉を使う人だった。それだけの縁だ。

その人が、死の際に私の名を呼んだ。

「……千鶴殿」

「はい」

「芙蓉様は、なぜ私を庇ったのだと思いますか」

千鶴は少し黙った。

「分かりません。ですが、芙蓉様は人を見る目のある方でした。澪殿が毒を盛るような人間ではないと、あの方なりに確信しておられたのだと思います」

根拠のない信頼だった。薬師としての私は、そういうものを信じない。人の善意も悪意も、証拠がなければ判断の材料にはならない。

だが、今この瞬間、その根拠のない信頼が、私の命を繋いでいた。

千鶴が頭を下げ、薬房を出ていった。衛士が戸を閉める音がして、再び静寂が戻った。

私は乳鉢の前に座り直した。両手を膝の上に置く。指先が微かに震えていた。寒さのためではない。

芙蓉は殺された。鴆蝋で。そして死の直前に、容疑者である私を守る言葉を遺した。

だとすれば。芙蓉は犯人を知っていたのではないか。犯人が私ではないと断言できたということは、真犯人に心当たりがあったということだ。

あの途切れた言葉——「くすしの」の後に続くはずだった音。あれは遺言の断片だったのか。千鶴に伝えた「薬師の子を守れ」と、私の耳元で途切れた言葉。同じことを言おうとしていたのか、それとも、別の何かを伝えようとしていたのか。

燭台の炎が揺れた。夜風が、どこかの隙間から忍び込んでいる。

私は立ち上がり、薬棚に向かった。師匠の配列のまま並ぶ百二十種の薬草。その中に白霜草はない。だが、かつてはあったはずだ。師匠が生きていた頃には。

犯人を見つけなければならない。芙蓉の遺言に報いるためではない。この疑いを晴らさなければ、私は薬師として終わる。この薬房を失う。師匠から受け継いだすべてを失う。

それだけは、許容できない。

薬棚の白霜草があったはずの位置——上段の右から七番目——に、私は指先を伸ばした。空の棚板に触れる。埃すら積もっていない。十年間、私が毎日拭いてきた場所だ。

白霜草は、今この後宮にはない。では、犯人はどこから手に入れたのか。

その問いの先に、答えがある。

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