Novelis
← 目次

後宮薬師と遅効の毒

第1話 第1話

第1話

第1話

夜半の薬房に、私の他には誰もいない。いつものことだ。

銅の乳鉢に乾燥させた黄耆の根を入れ、杵で砕く。繊維が潰れる微かな音だけが、暗い部屋に落ちていく。砕くたびに、土と甘草を混ぜたような青臭い香りが鼻腔の奥に触れる。この匂いを嗅ぐと、いつも冬の終わりの山野を思い出す。師匠に手を引かれ、雪解けの泥に足を取られながら黄耆の自生地を歩いた、遠い記憶だ。燭台の灯りは一本きり。薬草の仕分けに必要な明るさがあれば、それ以上は要らない。

後宮薬房は、帝都の奥まった一画にある。表の華やかさとは無縁の、土壁と薬棚に囲まれた小さな世界。壁には長年の煎じ薬の蒸気が染みつき、どれほど拭いても薄茶色の痕が消えない。天井の梁は煤で黒ずみ、隅には蜘蛛の巣が銀色に光っている。華やかな後宮の中にあって、ここだけが時の流れから取り残されたように古びていた。ここが私の居場所であり、ここだけが私の居場所だった。

棚には百二十種の薬草が並ぶ。配列は師匠が決めたもので、私はそれを一度も変えていない。左端の上段から五行の法則に従い、相生の順に並べる。この配列であれば、暗闇でも指先の触感だけで目当ての薬草を取り出せる。師匠はそう教えた。師匠が亡くなったのは、私が八つの年だった。それから十年、この薬房に私は一人で立っている。一人であることに不満はない。薬草は嘘をつかない。正しく扱えば正しく応え、誤れば即座にそれと知れる。人を相手にするより、余程わかりやすい。

乳鉢の中身を指先で摘み、舌に載せた。苦味の立ち上がりが遅い。乾燥が足りていない。三日前に仕入れた黄耆は、今年の長雨で品質が落ちている。このまま煎じれば効能が二割は減る。配合の比率を変えるか、あるいは——。

「澪殿」

声がした。薬房の入口に、典薬寮の下働きらしき少年が立っていた。息を切らしている。齢は十二、三だろう。額には汗が浮き、薄い単衣の肩が上下するたびに、走ってきた夜気の冷たさが白い息になって口元から漏れていた。

「何か」

「芙蓉様が——茶会の席で、お倒れに」

私は杵を置いた。乳鉢の縁に当たって、小さな金属音が薬房に響いた。

「症状は」

「わ、わかりません。突然苦しみ出して、嘔吐を……。侍医の篠原様がお診えですが、原因が分からないと」

少年の声は裏返りかけていた。目の縁が赤い。泣くのを堪えているのか、あるいは走り続けた疲労のためか。いずれにせよ、少年が嘘を言っている様子はなかった。

茶会は申の刻に始まったはずだ。今は子の刻を過ぎている。発症まで六刻。その時間差が、すでに一つの情報だった。

私は棚から応急の薬包を三種取り、薬箱に入れた。催吐剤、解毒の汎用煎じ薬、そして気付けの嗅ぎ薬。毒の種類が特定できない以上、まずは体内に残る毒素の排出を試みるしかない。

「案内しなさい」

少年の後を追い、薬房を出た。夜気が冷たい。四月の後宮は昼こそ暖かいが、日が落ちれば底冷えがする。渡り廊下の板が素足に冷たく、歩くたびに軋む音が夜の静寂に響いた。遠くで夜番の衛士が拍子木を打つ音が聞こえる。それ以外には虫の声すらない。後宮の夜は、こうも静かだったか。渡り廊下を早足で進みながら、私は頭の中で可能性を並べていた。

食あたりであれば、発症はもっと早い。申の刻の茶会で摂取し、子の刻に発症。六刻の潜伏期間。これに該当する毒物は、私の知る限り三種しかない。

渡り廊下の角を曲がると、芙蓉の居室がある棟に出た。灯りが煌々と漏れている。女官たちが廊下に立ち尽くし、誰もが顔を青ざめさせていた。すすり泣く声がどこからか聞こえ、香の匂いが異様に濃く漂っている。誰かが芙蓉のために焚いたのだろうが、その甘い香りがかえって事態の深刻さを際立たせていた。

襖を開けると、薬湯の匂いと、それを上回る嘔吐物の臭気が押し寄せた。思わず息を止めかけたが、すぐに浅い口呼吸に切り替えた。臭気に怯んでいては診立てができない。侍医の篠原が芙蓉の枕元に座り、脈を取っている。その手が、微かに震えていた。

「篠原殿、容態は」

篠原が振り向いた。額に汗が滲んでいる。普段は穏やかで自信に満ちた顔つきの男が、今は十も老けて見えた。

「……澪殿。助かる。正直なところ、手の打ちようがない。嘔吐が止まらず、瞳孔が散大している。体温は下がる一方だ」

私は芙蓉の傍らに膝をついた。

顔色は蝋のように白い。唇の端に、乾いた嘔吐物がこびりついている。呼吸は浅く、不規則。額に触れると、指先が驚くほどの冷たさを拾った。生きている人間の体温ではなかった。私は芙蓉の瞼をそっと持ち上げた。瞳孔は篠原の言う通り開ききっている。だが、それだけではない。白目にごく薄い黄変が見える。

指先で芙蓉の手首を取った。脈は細く、速い。糸を引くような弱々しい拍動が、指の腹にかろうじて伝わる。爪の色を確かめる。紫がかった暗赤色。末端の血流が著しく低下している。

嘔吐、瞳孔散大、黄疸の兆候、末梢循環不全——。

一つずつは、複数の毒物に共通する症状だ。だが、この組み合わせと、六刻という発症までの時間を合わせると、該当する毒物は急速に絞り込まれる。

「篠原殿。嘔吐物の色は」

「最初は胃の内容物だったが、次第に……緑がかった粘液に変わった」

胆汁の逆流。肝臓への急性の負荷を示している。

私の手が、止まった。

六刻の潜伏期間。嘔吐から始まり、瞳孔散大、黄疸、末梢循環の崩壊。そして胆汁性の嘔吐。この進行パターンに合致する毒物を、私は一つだけ知っている。

鴆蝋。

白霜草の根から抽出した蝋状の毒物。無味無臭で、茶に溶かせば気づかれない。体内で緩やかに肝臓を破壊し、六刻から八刻で致死量に達する。解毒は、発症後では間に合わない。

だが——鴆蝋の調合法は、師匠の秘伝だった。師匠から私へ、口伝で受け継がれたものだ。書物には残していない。少なくとも、私はそう聞いていた。この毒を調合できる人間は、この帝都において、私しかいないはずだった。

「澪殿? 心当たりがあるのか」

篠原の声が遠い。まるで水の底から聞こえてくるようだった。

私は芙蓉の手首から指を離し、薬箱を開けた。解毒の煎じ薬を取り出す。だが、手が動かない。鴆蝋に対する解毒法は存在しない。発症前に投与しなければ意味がない遅効性の毒——それが鴆蝋の本質だ。この薬箱の中に、芙蓉を救えるものは何一つない。

「……手を尽くします」

口にしたのは、嘘だった。薬師として、私は今この瞬間に、芙蓉の死を予見している。それでも声は平坦に保てた。嘘をつくことに、胸は痛まなかった。痛んだのは、もっと別の場所だ。

汎用の解毒煎じ薬を湯に溶かし、芙蓉の唇に含ませた。気休めにすぎない。だが、何もしないという選択は、薬師には許されない。薬湯が芙蓉の唇を濡らし、細い喉を伝う。嚥下できているのかも定かではなかった。

芙蓉の唇が微かに動いた。意識があるのか。私は耳を近づけた。

「……くす、し……の……」

声は途切れ、芙蓉の目が薄く開いた。焦点の合わない瞳が、私の顔をぼんやりと捉える。何かを伝えようとしている。だが言葉にはならなかった。薄く開いた唇がもう一度震え、それきり、芙蓉の目は再び閉じた。その睫毛が、燭台の灯りを受けて淡い影を頬に落としている。まだ二十歳にもならない顔だった。

私は膝の上で拳を握った。爪が掌に食い込む痛みが、思考を引き戻した。

鴆蝋を使った者がいる。私以外に、あの毒の作り方を知る者がいる。

薬房の出入り記録は、私が毎日確認している。不審な出入りはない。鴆蝋の原料である白霜草は、そもそも薬房の棚にない。希少すぎて、通常の在庫には含めていない。

だとすれば、犯人は薬房の外から鴆蝋を入手したことになる。調合法を知り、原料を手に入れ、芙蓉の茶に混入した人間が、この後宮のどこかにいる。

私の知らないところで、師匠の秘伝が漏れている。

その事実が、毒そのものよりも冷たく、胸の奥に落ちた。背筋を這い上がるのは恐怖ではない。もっと静かな、底のない不安だった。師匠が命をかけて守った知識が、誰かの手に渡っている。それは師匠の死後十年、私がこの薬房を守ってきた歳月そのものを揺るがす事実だった。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ

第1話 - 後宮薬師と遅効の毒 | Novelis