第1話
第1話
鮭の皮を、指先で塩を落としてからほぐした。 コンビニの廃棄弁当の、脂の浮いた鮭の皮。塩が効きすぎている気がして、一度流しで水にくぐらせてから、指先に小さく乗せた。目の前には、コインランドリー帰りのいちばん清潔なタオル。その上に、親指と人差し指で輪を作ったくらいの、黒い毛の塊がうずくまっている。 これが、深夜二時十七分に俺が拾ってきた猫の、とりあえずの最初の食事だった。 そいつは匂いを嗅いで、ひと舐めして、それから、ふにゃりと俺の指にもたれかかって寝た。片手に乗るかどうかの重みだ。ただ、その重みの中の体温が、俺の予想より二度くらい高い気がした。猫の平熱が何度なのかを、俺はまだ知らなかった。後で調べようと思って、そのまま忘れた。
拾ったのは、バイト帰りの自販機の横だった。 コンビニのレジ締めを終えて深夜二時十七分、バックヤードで給与明細をポケットに突っ込んで、家計簿アプリを開いたら残高が十二万九千四百八十二円だった。振込額は八万六千円。家賃と電気と水道とガスを引いて残りが二万七千円。大家には来月から家賃を千円上げたいと先週言われたばかりだった。頭の中の電卓は、毎月この時間に動き始める。 裏口から出ると雨は上がっていた。アパートまで徒歩八分。その八分の、最後の一分のところに、自販機がある。湿った古新聞の束の上に、毛の塊がうずくまっていた。よくある話の段ボールは、現実にはあまり落ちていない。 俺は一度通り過ぎて、三歩戻った。拾う癖がある。子どもの頃からずっと、道端の生き物と目が合うと、もう体の方が止まる。美大に行ったのも、たぶんその延長だ。筋の入り方、骨格の歪み、関節の角度、勝手に目がなぞる。中退した理由も同じで、人間の描き方がどうしてもよくわからなかった。人間は骨の上に嘘を何層も重ねているから難しい。犬や猫は嘘がない。 しゃがみ込むと、毛の塊は呼吸していた。指先を近づけると、一瞬だけ目を開けた。琥珀色ではなかった。琥珀にわずかに青みが混じった、俺の知らない色。一瞬で閉じた。 ウィンドブレーカーの前を開けて、内側のポケットに押し込んだ。歩き出したら、また雨が降り始めた。それが連れ帰った理由だ。
築四十年、家賃四万二千円、ペット可ではない六畳一間。 中野駅北口から徒歩十二分、同じ階に住んでいるのは大家の婆さんと、ほとんど部屋にいない大学院生と、あと幽霊だけだ、と俺は勝手に決めている。婆さんは猫一匹くらいは見て見ぬふりをしてくれる。先月も廊下の野良を見て「あら、あんたの友達?」と言って、惣菜のいなり寿司を一個くれた。 鮭の皮を食わせて、三十分悩んでクロと名付けた。 悩んだ時間のほとんどは、家計簿アプリを開いて飼えるのか飼えないのかを確認していた時間だった。アプリは赤い文字で二万七千円を出す。初診と血液検査とワクチンで一万五千円から二万円、飼育初期費用の平均は四万から六万円、と検索結果に書いてあった。画面を消した。今月はもう、食費と光熱費を残り七千円で二週間やりくりすることになる。 それでも、雨の自販機の横に戻すという選択肢は、もうなかった。選択肢じゃないものを検討するふりをしてしまう癖が、俺にはある。拾う癖の裏返しだ。拾った後に、拾わなかった自分を無理やり想像してみる癖。想像は、いつも途中で止まる。 タオルの中で眠るクロをデッサンするつもりで、スケッチブックを引っ張り出した。中退する前に描きかけていたブルータスの鼻のあたりで、線は止まっていた。あの頃の俺はブルータスの鼻を二十回描き直して、二十一回目で筆を折った。
鉛筆を削りながら、クロを見た。 前肢の筋の入り方が、猫じゃなかった。 最初に違和感が来たのは肩甲骨の位置だった。猫の肩甲骨は、前肢の運動範囲を稼ぐために、体の側面よりやや背側に寄ってついている。クロのそれは、明らかに上にずれていた。肩甲骨の上端が、僧帽筋の厚みの上に、本来あるはずのない角度で乗っていた。 次に肘の可動域。丸めて眠っている今の姿勢から、肘の関節が体に沿ってどう曲がるかを目で追った。猫の前肢は、立位で肘がほとんど胴体と平行になる。クロは、それより十五度ばかり後ろまで引けそうに見えた。十五度の差は、跳ぶ動物と、歩く動物の差だ。 指の第二関節の畳み方もおかしかった。普通の猫は肉球を下にして丸める。クロは第二関節を半分しか畳んでいなくて、そこにわずかに牽引の名残があった。獲物を引っ掛けるための関節の使い方だ。 前肢の重心が、猫より少し前にある。跳ぶために進化した生き物の重心だ、と、頭の隅で誰かが言った。美大の授業で動物解剖学を一学期だけ取ったあの時のテキストには、載っていないプロポーションだった。 気のせいだと思うことにした。衰弱で体の向きが歪んで見えているだけだ。鉛筆を握り直して一本目の線を引いた。描き始めれば、線の方が勝手に正解を教えてくれる、はずだった。 一本目の線を引き終えた瞬間に、クロが喉を鳴らし始めた。 ゴロゴロという音自体は普通の猫のそれだった。ただ、裸電球の切れかけのフィラメントが、その音に合わせて、ちりっ、ちりっ、と二回、小さく震えた。震えたというか、光が呼吸した。俺は顔を上げて電球を見た。電球は黙っていた。目を戻すと、スケッチブックの紙の端が、ごく薄く、紙一枚の重みだけ、めくれようとしていた。窓は閉まっていた。風はなかった。 俺は鉛筆を置いた。置いた鉛筆の芯の先が、わずかに机の上で転がった。机は水平なはずだった。 スケッチブックの一本目の線を、もう一度よく見た。線そのものは悪くなかった。ただ、その線の終点の位置が、俺の知っている猫の肩のラインより、二ミリ上にあった。二ミリというのは、デッサンではほとんど誤差の範囲だ。ただ、俺の手は、誤差を拾わない方の手のはずだった。美大の講評で先生に褒められたのは、そこだけだった。「三ツ谷は、手が嘘をつかない」。そう言われた俺の手が、クロを描いた線の終点を、二ミリ上に置いていた。 クロは、まだ俺の指の横で丸まったまま、喉の奥でゴロゴロを続けていた。フィラメントはもう震えていない。ただ、部屋の空気の密度が、拾う前と少しだけ違っている気がした。具体的にどう違うのかは、言葉にできなかった。
翌朝、俺はクロを連れて早稲田通りの方に歩いていた。 動物病院は九時から開く。アパートから徒歩十五分、早稲田通り沿いの古い一軒家の病院だ。クロはバスタオルにくるまれて、俺の左腕の中で、また薄く目を開けていた。青みの混じった瞳は、朝の光の下で見ると、昨夜よりも少しだけ、奥の方が明るい気がした。 財布には千円札が四枚と百円玉が六つ。初診だけならたぶん足りる。血液検査までやられたらシフトを一枚増やしてもらう。店長に頭を下げる練習を、頭の中で一回だけやった。店長は頭を下げる相手には必ず、「三ツ谷くんは真面目だから」と先に言う。それが褒め言葉なのか断り文句の前置きなのか、俺はまだ見分けがつかない。 その途中に、ダンジョンの入口がある。 「特別異空間管理事務所/早稲田通り第四」。元は銭湯だった建物の一階部分を協会が借り上げて、地下への階段だけを残した場所だ。のぼりと、バリケードと、自販機が一台。どこから見ても古い地下鉄の入口にしか見えない。二年前に出現した。近所の人たちは最初の三ヶ月だけ騒いで、今は誰も足を止めない。俺も、一度も入ったことがない。Fランクの見学証さえ持っていない。 前を素通りするつもりだった。 入口の横に、紺色のウィンドブレーカーを着た女の人が立っていた。胸元の名札に「灰谷」。三十前後、後ろで結んだ髪の先から、まだ寝起きの気配が抜けきっていない。朝の掃き掃除みたいな格好で、ほうきを一本持っていた。 すれ違いかけて、彼女が足を止めた。 最初、俺を見たんだと思った。違った。俺の腕の中を見ていた。バスタオルの隙間から、クロの頭が半分だけ出ていた。青みの混じった瞳が、朝の光の中で、まっすぐ灰谷さんの方を向いていた。 灰谷さんのほうきが、音もなくアスファルトに落ちた。カラン、という乾いた音が、早稲田通りの朝の車の音に一瞬だけ混じって、すぐに消えた。 俺は立ち止まるしかなかった。灰谷さんの顔から、血の気が、絵の具を水で薄めていくみたいに、端の方から引いていくのが見えた。石膏像よりも白い顔だった。口の端が一度、笑おうとして、笑えずに止まった。職業的な愛想笑いを引き出そうとして、筋肉がついていかなかった、という顔だった。 彼女はほうきを拾わなかった。代わりに、ウィンドブレーカーのポケットから、震える指でスマホを取り出して、画面をろくに見ずに耳に当てた。 「……灰谷です。早稲田通り第四。至急、確認してほしい個体がいます」 声が上ずっていた。俺は、何も言えなかった。左腕の中で、クロが小さく身じろぎをして、バスタオルを前肢でほんの少しだけ押しのけた。青みの混じった瞳が、今度は俺を見上げた。 そして、一度だけ、小さく、にゃー、と鳴いた。 灰谷さんが、スマホを耳に当てたまま、一歩、後ずさった。