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十年片想いの社長と、形だけの結婚

第3話 第3話

第3話

第3話

ホテルのエントランスは、想像していたよりずっと明るかった。

回転扉をくぐった瞬間、頬にあたる空調の風が、九月の終わりの夜気とまるで違う温度を含んでいる。胸の奥で、息の浅さがそのまま心拍数に置き換わっていく。受付テーブルに招待状を差し出すと、係の女性が「お疲れさまでございます」と微笑んだ。その声が、不思議と遠くから聞こえた。 胸元に挟まれた銀色のネームカードを、指の先でそっと撫でる。桜井美咲、経理部主任。十年同じ肩書きで生きてきた札が、今夜はやけに薄く軽く感じる。 眼鏡のフレームを押し上げて、私はホールへ続く廊下を歩いた。市村先輩から借りたパンプスは、ほんの三センチ。それでも踵に体重を預けるたび、知らない誰かの脚で歩いているような心許なさがある。床の絨毯に靴の音が吸い込まれ、代わりに、向こうの大宴会場から漏れてくるざわめきだけが、少しずつ大きくなってくる。 両開きの扉の前で、私は一度立ち止まった。 息を吸う。吸いきってから、もう一度吸う。──大丈夫。十五年に一度なのだ、と先輩の声を頭の中で再生する。それでも、扉の取っ手にかけた指は冷たいままだった。

【展開】

中に入った瞬間、視界が金色の粒子で満ちた。

天井から垂れる細長いシャンデリアの光が、円卓に並ぶグラスの縁で何度も反射している。人。人。人。フロアじゅうにスーツとドレスの背中が重なり合って、誰の顔も一瞬では識別できない。声と笑い声と、グラス同士が軽くぶつかる音が、層になって鼓膜を押す。香水と料理の湯気が混ざり合った、甘く重たい空気が、肺の奥までゆっくりと入り込んでくる。背中を反らすほどの広さの天井、磨き上げられた大理石の柱、その柱の根元に置かれた白百合の大ぶりな花束──視線を置く場所が多すぎて、どこを見ていいのか分からなくなる。 「桜井さーん、こっち、こっち」 人垣の隙間から、市村先輩が手を振っている。私はその手を頼りに、人と人のあいだを縫うようにして進んだ。途中で誰かのドレスの裾を踏みそうになって、慌てて足を引く。すみません、と小さく頭を下げた声は、ざわめきに飲まれて誰にも届かなかったかもしれない。 「あんた、ちゃんと来たね」 先輩はにっと笑って、私の肩に軽く触れた。 「眼鏡の奥、見えてる?」 「……見えてます。会場が広すぎて、奥行きが分からないだけです」 「合格」 それだけ言って、先輩は通りすがりのウェイターからグラスを二つ受け取り、片方を私に押しつけた。シャンパンの淡い金色が、グラスの底で細い泡を立てている。泡がひとつずつ水面まで昇って、ぱちん、と弾ける小さな音まで聞こえそうな気がした。 「乾杯くらいは付き合いなさい」 「私、お酒、あんまり」 「あんまり、で十年生きてきたんでしょ。一杯くらいはいいの」 グラスの足を握る指が、わずかに震えた。先輩のグラスの縁が、私のグラスにかちん、と当たる。透明な音が、周囲のざわめきの中で一瞬だけ私の耳に届いた。 口に含んだシャンパンは、想像より乾いた味がした。喉を冷たいものが落ちていって、すぐに胃の上のあたりが、ぽうっと熱くなる。鼻の奥に、青林檎のような香りがふわりと立ちのぼり、舌の付け根に微かな苦みが残った。 「あら、桜井さん? 経理の?」 横から声をかけられて振り向くと、別部署の女性社員が二人、にこにこと近づいてきていた。一人とは年に一度伝票のやりとりをする程度、もう一人は名前すらおぼろげだ。 「そのワンピース、すごく似合うね」 「ありがとうございます」 「あれ、桜井さんって、こんな雰囲気だったっけ。もったいないよ、いつもカーディガンばっかりで」 笑顔を作る。十年で上達したはずの笑顔が、今夜は内側から少しだけ軋む。頬の筋肉が、いつもの位置を覚えていないみたいに、ほんの数ミリだけ強張る。 「これも、先輩に選んでもらって」 「ふうん、いい先輩ねえ」 彼女たちはひとしきり喋って、別の知り合いを見つけて去っていった。グラスの中身を、私は気づけば半分まで減らしていた。喉の渇きが、なかなか引かない。指先で、空になりかけたグラスの結露をなぞる。冷たさが、頬の火照りを少しだけ思い出させた。 ふと、視界の端で空気が動いた気がして、顔を上げた。 人垣の向こう、奥の壇上の手前。濃紺のスーツに身を包んだ長身が、取引先らしい男性たちに囲まれて、低く何か頷いている。 氷室透真。 給湯室の磨りガラス越しではなく、同じ照明、同じ床、同じ空気の中で見るその横顔は、写真の中のどの彼ともすこし違って見えた。少しだけ顎が引かれていて、目尻に微かに疲れの影がある。──私だけが知っている、と思う。十年見てきた者にしか拾えない、影。会議が長引いた日の夕方、書類を取りに来たときの、あの目尻の影と同じだ。 心臓が、肋骨を内側から軽く叩いた。 私は反射的に視線を逸らす。グラスを口に運ぶ。残りを、思ったより一気に飲みきってしまう。喉が鳴る音まで、自分の頭蓋の中で大きく響いた気がした。 「桜井さん、もう一杯どう?」 通りかかったウェイターが、銀のトレイを差し出した。空のグラスを置いて、新しいグラスを取る指は、自分のものとは思えないほど素直に動いた。

【転機】

二杯目は、一杯目より早く減った。

頬の内側がじんわりと温い。耳の奥で、自分の鼓動だけが妙にはっきりと響いている。先輩は途中から取引先の人たちに呼ばれていって、私はいつのまにか壁際の高いテーブルに、ひとりでグラスを置いていた。テーブルクロスの白いひだに、グラスの底が小さな円い影を落としている。 来るんじゃなかった、と一瞬思って、すぐに首を振る。──いや、来てよかった、のだ、たぶん。 だって、見えた。 あの人が、同じ部屋で笑っているのを、見た。見られた。十年分の私の片想いの台帳に、新しい一行が書き足された気がする。誰にも見せられない、自分専用の元帳。借方も貸方も、ずっと私一人で帳尻を合わせ続けてきた、薄い罫線の引かれたノート。 「桜井主任、今日はどうも」 取引先の年配の男性が、グラス片手に近づいてきた。経理担当窓口として、何度か電話で話したことのある人だ。 「ご無沙汰しております」 「今度の請求書の件、ちょっとご相談したいんだが」 「あの、それは、来週の営業時間内で」 「ああ、そうそう、もちろん。今日は飲もう、飲もう」 強引に注がれた赤ワインが、グラスの中で揺れた。私は反射でそれを口に運ぶ。シャンパンと違う、重たい甘さが舌に絡む。鉄錆のような余韻が喉の奥にしばらく残って、胃の底に小さな火を灯す。視界の中で、シャンデリアの光が、ほんの少しだけ滲み始めていた。 何を話したのか、よく覚えていない。相づちを打って、笑って、また相づちを打って。男性が別の取引先に呼ばれて去ったあと、テーブルの上に残されたグラスは、もう三つになっていた。誰がいつ置いていったのかも、追いきれない。 頬が、熱い。 眼鏡のレンズの内側がうっすら曇っている気がして、フレームの端に触れる。指先が、思ったより自分のものではないように動く。胸の奥で、十年溜め込んだ何かが、すこしずつ位置をずらして、上へ上へと押し上がってきている。喉のすぐ下まで来て、せき止めるものがもう何もない。 泣きたい、わけではない。笑いたい、わけでもない。ただ、ここに立っているのが、急に難しくなった。膝の裏が、借り物のパンプスの中で、頼りなく揺れる。 人の声が遠ざかる。シャンデリアの光が、内側から滲んで、輪郭を失っていく。 誰かに見つかる前に、と思った。こんな顔で、まちがって、あの人の視界に入ってしまう前に。 壁伝いに後ろへ下がる。背中で、ぶ厚いカーテンの感触に行き当たった。その奥に、外気を取り込むためのテラスがあるのを、案内図でちらりと見ていた。 カーテンの隙間に指を差し込む。冷たい夜気が、頬にひと筋触れた。

【引き】

テラスは、思ったより暗かった。

腰までの石の手すりの向こうに、ホテル前庭の植え込みと、遠くの街の灯りが低く滲んでいる。シャンデリアの金色から逃げ出してきた目には、その暗さがやけに優しい。 手すりに両手をかけて、私は深く息を吸った。九月の終わりの夜風が、頬の熱をそっと撫でる。 「……ばかみたい」 誰にも聞こえない声で呟いた。十年、給湯室の窓ひとつ越しに見ていればよかった人。今夜は、その同じ部屋にいるというだけで、私はこんなにも酒を飲んでしまった。 眼鏡を外して、フレームを胸元のクラッチに挟む。視界の輪郭が、ふんわりと溶ける。 そのときだった。 背後で、ガラス戸の開く小さな音がした。 カーテンが、誰かの肩で内側からそっと押し戻される気配。 革靴の踵が、石床の上に、低く一度だけ落ちた。 振り返らずとも分かる、あの空気の変わり方を、私の身体は十年かけて覚え込んでいる。

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