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十年片想いの社長と、形だけの結婚

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の地下鉄は、いつもと同じ匂いがした。 鞄のいちばん奥で、薄ピンクの招待状が、私の体温で少しだけ温まっている。出席の丸印を結局ペンで囲えないまま、もう三日が経っていた。 オフィスに着いて、いちばんに給湯室へ寄る。ケトルのスイッチを入れて、磨りガラスの向こう──役員フロアの廊下に視線を投げる。今朝、社長は外出だ。──それを私が知っているのは、入社二年目の頃から、月初めに掲示される役員スケジュールを、こっそり手帳に書き写しているからだった。 誰にも言ったことのない、たぶん、これからも誰にも言わない習慣。 自席に戻ってメールを開く。松井あかりへの返信は、下書きフォルダに四つ並んだまま、どれも途中で止まっている。「おめでとう」のあとが、続かない。 社内報アプリの通知が、画面の下から滑り出てきた。 今月号。表紙は、創立十五周年式典のリハーサル風景。 私は息を浅くして、ページをめくった。 十一ページ目の特集記事で、指が止まる。 「氷室透真社長 創立十五周年に寄せて」。インタビューの見開きの右下に、スーツの袖口を整える彼の手元の写真。視線は左下のやや遠く。記事の文字よりも先に、私は写真ばかり追っている。 左上のメニューから、画像を長押し。「写真に保存」。指が勝手に動く。 端末のフォルダの中に、こうして積み上げてきた写真が、もう何十枚あるだろう。どれも公式に発行された、誰でも見られるはずの写真だ。なのに私は、それを自分の手のひらの中だけにそっと並べていく。 病気みたいだな、と思う。──病気でいい、と思う。

「桜井さーん、ちょっと貸出表、確認してもらっていいですか」 パートの白川さんの声で、画面を伏せる。慌てて立ち上がりながら、頬の温度を手の甲で確かめた。 「はい、すぐ行きます」 書庫の前で貸出表を一枚ずつめくっていると、背中越しに島の電話が鳴った。聞き慣れた市村先輩の声が、ワンテンポ高く受話器に向かっている。 「お疲れさまです、市村です。あ、はい、その件でしたら──」 電話を切る音がして、すぐに足音が近づいてきた。 「桜井さん、ちょっと」 振り向くと、先輩が腕組みをして立っていた。 「総務から内線。出欠の集計、月曜が締め切りなんだって。あんたの分、まだ届いてないよって、わざわざ私のところに言ってきた」 「あの、まだ……決めかねていて」 「決めかねるって、何を」 「服とか、その」 「服のせいか」 先輩は、ふっ、と短く笑った。からかうのではなく、ほんの少しだけ呆れている笑い方だった。 「桜井さん、お昼、空いてる?」 「え」 「百貨店、付き合いなさい。私、来週用のスカートが行方不明になっててさ。ついでに、あんたの一着、見繕ってあげるから」 「いえ、そんな、悪いです」 「悪くない。私が見たいの」 有無を言わさない口調だった。返事をする前に、先輩はもう自分の島へ戻っていく。私は貸出表を抱えたまま、しばらくその背中を見ていた。

昼、二人で会社を出て、隣駅の百貨店までゆっくり歩く。 「松井さんの式、いつだっけ」 「来月の最終週です」 「行くの」 「行きます。スピーチも頼まれてしまって」 「桜井さん、スピーチ、得意だっけ」 「ぜんぜんです。三日前から胃が痛くなるタイプです」 先輩はけらけらと笑って、横断歩道の手前でこちらを振り返った。 「ねえ、十年前の研修発表のとき、あんた、社長の前でちゃんと最後まで喋りきってたじゃない」 え、と短く声が漏れる。 「先輩、あの場にいましたっけ」 「いたよ。あの年の若手研修、私もまだ三年目で、あんたの一個下の代の指導役で出てた。あんたが地域物流の話をしてたとき、社長の目の色が変わったの、私、覚えてる」 信号が青に変わる。先輩は私の腕を軽く引いて、横断歩道を渡らせた。 「あの社長、人の話、聞いてるようで聞いてないことが多いの。でも、あの日のあんたの話は、本当に最後まで、ちゃんと聞いてた。隣にいた人事部長と、あとでこっそり話したくらいだから」 声が、出なかった。 心臓のいちばん奥のところで、何かが一度だけ、軽く跳ねる。 「だからね、桜井さんが行かない理由、私はあんまりないと思うんだよ」 先輩はそれだけ言って、百貨店の入口の自動ドアをくぐる。私はその背中を追いかけながら、十年前の自分の声を、ほんの少しだけ思い出していた。震えていた。震えていたけれど、確かにあの日、私は最後まで、机の向こうの彼に向かって話したのだった。

ウィメンズフロアの照明は、やわらかな黄味がかった色をしていた。 こういう場所に来ると、私は背中が固くなる。値札を見る前に、目のほうが先に泳ぐ。 「ほら、これとか」 先輩がハンガーから一枚、ふわっと引き出して、私の肩にあてがう。深い藍色のワンピースだった。襟元は控えめなボートネック。袖は七分丈で、裾はほんの少しだけ広がっている。 「派手じゃないですか」 「派手じゃないよ。地味って言うほどでもないけど。──桜井さん、地味じゃない服、着てもいいんだよ」 鏡の前に立たされる。 分厚い眼鏡の奥で、私の顔が知らない人みたいに見えた。襟元から覗く鎖骨が、いつもより少しだけ華奢に見えて、そのことに、自分でも驚く。 「眼鏡、ちょっと外してみて」 「先輩、見えなくなります」 「一瞬でいいから」 逆らえなくて、フレームに指をかける。視界がぼやけて、鏡の中の輪郭が、やさしく溶けた。──自分のことをこんなふうに、ぼんやりとだけ見たことが、ここ何年あっただろう。 「うん、これでいい」 先輩が、深く頷いた。 「これにしなさい」 「でも、私、こういうのに合う靴も鞄も」 「靴は私のを貸す。鞄も貸す。──ほら、そういう言い訳、もうやめなさい」 レジで支払いを済ませて、紙袋を抱えて店を出る。持ち手を握る指に、いつもより少しだけ力が入っていた。 「先輩」 「ん」 「なんで今日、私のこと連れ出してくれたんですか」 歩きながら、私はそう尋ねた。 先輩はしばらく前を見て歩いていたが、やがてぽつりと言った。 「松井さんから、メールが来たの。私のところにも」 「え」 「『美咲のこと、よかったら気にかけてあげて』って。──同期って、強いね、ああいうところ」 胸の奥で、お湯がこぼれたような、あたたかくて、少し痛いものが広がる。 「あの子、私のこと、ずっと心配してたんですね」 「あんたが心配されたくないようにしてただけで、心配する側はずっと心配してたよ」 歩道の縁石で立ち止まって、先輩は紙袋の角を指で軽く叩いた。 「桜井さん。十年って、十分に長いよ。これ以上十年積んでも、たぶん同じ給湯室から、同じ景色が見えるだけ。──嫌じゃなければ、当日、ちょっとだけ違う場所に、立ってみたら」 私は紙袋の持ち手をきつく握り直す。手のひらに、ワンピースの軽さがほのかに伝わってきた。十年同じカーディガンで生きてきた腕には、その軽さが、思いがけずずしりと感じられる。

パーティー当日の朝、私はいつもより一時間早く起きた。 クローゼットを開けると、藍色のワンピースが、ハンガーの先で身じろぎもせずにこちらを見ている。手を伸ばして、生地の表面に指先を滑らせると、なめらかで、ほんの少しだけひんやりしていた。 洗面所の鏡の前で、いつもの黒縁眼鏡を、ためらいながら一度、外す。 頬に触れる指が、少しだけ震えていた。 鏡の中の私は、まだ知らない人の顔をしている。 この顔で、あの人と同じ照明の下に立つのだと思うと、心臓のいちばん古い場所が、ことり、と動いた。 寝室の窓を細く開けると、九月の終わりの朝の風が、薄手のカーテンを一度だけ膨らませる。紙袋の中で眠っていた靴を、私はそっと取り出した。 玄関で鍵を握り直す。 今日、十年立ち続けていた給湯室の窓から、私はほんの少しだけ離れた場所に立とうとしている。 ドアを閉める音が、廊下に小さく落ちた。 紙袋の中の藍色が、私の体温で、もうほんの少しだけ温まりはじめている。 今夜の照明の下、自分がどんな顔をしているのか──まだ、想像もつかない。

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