第1話
第1話
給湯室の小さな窓越しに、私は十年、同じ人だけを見ている。
電気ケトルの蒸気がレンズを白く曇らせる。マグカップを胸の前に抱えたまま、磨りガラスの向こう──役員フロアの廊下に目を凝らす。午前十時十二分。氷室透真社長が会議室から自席に戻る、ほぼ定刻。
廊下の奥でエレベーターのチャイムが鳴った。 来た、と思った瞬間、心臓が一拍だけ強く跳ねる。十年経っても、この一拍だけは慣れない。
仕立ての良い濃紺のスーツ。少し伸びた前髪。秘書の女性に短く何か返しながら、長身の影が磨りガラスを横切っていく。声は届かない。それでも、彼が口を開くたびに空気の濃度が変わってしまうことを、私の身体は十年かけて覚え込んでしまった。 ふっ、と低い笑いが廊下の遠くで一瞬だけ零れた気がする。気のせいかもしれない。
それで終わりだ。十秒もない。
息を吐いて、ティーバッグを落としたマグカップに湯を注ぐ。湯気の向こうで、もう彼の姿はない。 「桜井さん、お湯、いいすか」 背中越しに後輩の声が降ってきた。私は慌ててマグを引き寄せ、「あ、ごめんごめん、すぐ空けるね」と、給湯室の隅に身体をずらす。 分厚い黒縁の眼鏡。色のないリップ。膝丈のスカートに、色褪せたベージュのカーディガン。後輩の目に映る私は、たぶん「経理の桜井さん」以外の何者でもないのだろう。三十二歳、経理部主任。地味、と書かれた札を首から下げて歩いているような女。
それでいい、と十年前から決めている。 気づかれない場所から、届かない人を見ている。──恋、と呼ぶには長すぎて、もうこれは習慣に近い。
自席に戻ると、ノートパソコンに未読メールが一通増えていた。差出人、松井あかり。 私はマウスから指を離す。同期で、入社式の翌日に隣の席で泣いていた、あの松井あかり。
『美咲、急にごめんね。来月、入籍することになりました。』
短いメールだった。式場の外観、新郎の名前、これからもよろしく、の絵文字。 心の中で、紙が一枚めくれる音がした。 おめでとう、と打ち込みかけて、指が止まる。同期は十二人いた。あかりが籍を入れたら、独身は私を含めて二人になる。一人はずっと一人を貫くと公言している副部長で、もう一人が、私だ。
頬の内側を軽く噛む。痛むと困るから、強くは噛まない。
窓の外で、銀杏の葉先が黄色く色づきはじめている。空調の隙間から、薄く秋の匂いが入ってきている。九月の終わり。十年前の今頃、私はまだぴかぴかの新人で、研修発表のために役員フロアの大きな机の前に立っていた。震える手元のメモを覗き込みながら、地域密着型の物流支援を、と私は何度も噛んだ。机の向こうに、まだ三十手前の社長がいた。鋭い眼差しの奥に、不思議とやわらかい光があった。──そう、あの日だった。 あの日、噛んでばかりの私の発表が終わったあと、彼は短く「面白い視点だ」と言った。たったそれだけの一言が、十年経った今も、私の背骨のいちばん奥で熱を持っている。
そこまで考えて、私は首を振る。思い出すのは夜にしよう。仕事中はだめだ。 電卓を引き寄せ、月末の仕訳を打っていく。減価償却。経過勘定。借方と貸方が、整然と釣り合っていく。数字は嘘をつかない。私の代わりに私の人生を片づけてくれるみたいに、机の上の数字だけはいつだって正直だった。
「桜井さーん、これお願いできます?」 パートの白川さんが、伝票の束を抱えてやってくる。「はい、置いといてください」と私は反射で笑顔を作る。仕事中の笑顔は、十年でだいぶ上達した。 家族には心配されないだけの笑顔を。 同僚には妙に勘繰られないだけの笑顔を。 胸の内側だけは、いつまでも下手なまま、誰にも見せずにおく。 ──そういうふうに、私はずっと生きてきた。
伝票を片づけ終えた頃、ようやく息をつく。 机の引き出しからスマホを取り出してロックを解く。ホーム画面の壁紙は、無難な水玉。誰に覗かれても、何の感情も持っていないように見える壁紙。 SNSのアプリを開く。検索バーに、もう何百回入れたか分からない四文字を打ち込む。 氷室透真。 業界誌のインタビュー、創業十周年の記事、新規事業のプレスリリース。彼の名前がついた記事を、私はひとつ残らず読んでいる。今日も新しい記事はない。 代わりに、いつかこっそり保存した社内報の写真フォルダから、一枚だけ開いてしまう。三年前の竣工式。まだ少しだけ若い彼が、設計士に向かって何かを説明している横顔。 ──あなたのこの横顔を、私はもう何度見ただろう。 親指でそっと画面を撫で、すぐにアプリを閉じる。
午後の打ち合わせから戻ると、机の上に薄いピンクの封筒が置かれていた。 社の創立記念パーティー、招待状。 今年は十五周年の節目で、本社近くのホテルの大宴会場に、社員と取引先を呼んでの大規模な式典が開かれるらしい。例年の社員総会と違って、今回は全社員に出席が「強く推奨」されているという但し書きまでついている。 封筒の角を、指でなぞる。中には返信用紙が一枚。
行きたくない、と最初に思った。
人が大勢いる場所は苦手だ。グラスを持つ手元に視線が集まる感覚も、話しかけられるたびに笑顔の裏で言葉を探す時間も、全部苦手だ。第一、ドレスらしいドレスなんて持っていない。 それに──あの人がいる。 社員総会では遠い壇上で挨拶をするだけだった彼が、今度はフロアにいる。同じ照明の下で、同じ空気を、もしかしたら数メートルの距離で吸う。 想像しただけで、指先が冷えた。胸の上の方が、ほんの少しだけきゅうっと縮んで、その縮んだ場所の奥で、別の何かがゆっくりと熱を持ちはじめる。怖い、と思う気持ちと、見たい、と思う気持ちが、同じ場所で揉み合っている。
「桜井さん、それ、もう見た?」 振り向くと、隣の課の市村先輩が、コーヒーを片手に立っていた。十二年目、私の三つ上の女性社員で、こうやって時々ふらりと寄ってくる。 「……行くんですか、先輩」 「行くよ。あんたも行きなさい、十五周年だよ」 「私、ああいうの本当に苦手で」 封筒を握り直す。先輩は私の手元を見て、それからふっと目を細めた。 「桜井さん、たまには着飾ってきなさいよ。十年同じカーディガンで生きてる女、見ててちょっとかわいそうになるからさ」 冗談めかした声に、棘はない。だから余計に痛い。
「……同期、結婚するそうです」 私はぽつりと言った。 「松井さん?」 「はい。さっきメールが」 「ああ、それで、その顔か」 「べつに、寂しいとかじゃ」 「じゃないなら、もっとひどいね」 そう言って、先輩はぽん、と私の肩を軽く叩いた。指の腹の温度が、薄いカーディガン越しに、思ったより長く残る。 「逃げ続けるのと、迎え撃つのと、どっちがしんどいかって話よ。たまには自分のために服を買って、ヒール履いて、誰かに見られに行ってきなさい。──十五年に一度なんだから」
冗談のように言い残して、先輩は自分の島へ戻っていく。 私は招待状を表から裏へひっくり返した。挨拶文の末尾に、印刷された署名がある。氷室透真。十二ポイントの、ただの四文字。それを指の腹でなぞる。 ──十五年に一度。 私の十年は、ぴったり十五分の二。 笑ってしまう。会社の人生のうち、たった三分の二の時間を、私はずっと給湯室の窓の向こうから盗み見ていただけだ。
封筒を引き出しの一番上に置く。 出席に丸をつける勇気はない。けれど、捨てる勇気もない。 それはたぶん、十年前から変わっていない。
その夜、私はベッドで眠れずに、招待状をもう一度引っ張り出した。 オレンジのナイトライトに照らされて、薄ピンクの紙が、ほんの少しだけ体温を持って見える。出欠の○印は、まだどちらにもついていない。
胸の奥で、十年分の何かが、ことり、と音を立てて動いた気がした。 ──行ったら、何か変わるだろうか。 変わってほしいと願う自分と、これ以上崩したくないと縋る自分が、同じ重さで揺れている。
スマホの画面が点いて、通知が一件。社内報アプリの今月号。表紙は、パーティー会場の予定写真。シャンデリアの下、一脚だけ置かれたグラス。 私は出席の○に、ペンを当てた。 まだ、書かない。 ペン先を浮かせたまま、私は天井を見上げる。 何かが始まる音は、たぶん、いつだってこんなふうに静かだ。