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観察者の死角

第1話 第1話

第1話

第1話

教室の隅、窓から二つ目の席。机の天板に頬杖をついていると、四月の風がカーテンを膨らませて、塩素の匂いを運んできた。隣の校舎で水泳部が朝練をしている。プールの水と、誰かのリップクリームと、配られたばかりのプリントのインク。匂いの層を順番に剥がしていけば、教室が今日どんな顔をしているか、僕には大体わかる。

僕、佐倉柊は、観察者だ。

シャープペンの芯を二回ノックして、黒板の日付を書き写すふりをする。本当はノートの隅に、今朝の教室の見取り図を描いている。三班の田中が遅刻した。窓際の鈴木は昨日泣いた跡がまだ瞼に残っている。最後列の男子三人は、昨夜のオンラインゲームの話を、今朝も声を潜めずに続けている。前髪を切った女子。新しい靴下を降ろした男子。誰のことも見ていないふりをして、全員を見ている。

それが楽だった。教室は完璧な舞台装置で、僕はその客席にいる。中学までは違った。声をかけられるたびに、何かを期待されている気がして、その期待を外すたびに、自分の輪郭が少しずつ薄くなっていった。高校に上がってからの一年、僕は喋らないことを徹底した。それだけで、世界はずいぶん住みやすくなった。誰にも輪郭を確かめられないなら、輪郭は薄いままで構わない。むしろ、薄ければ薄いほど、誰の視線にも引っかからずに済む。

「ねえ、聞いた? 『Q』の新作」

前の席の女子が、振り返って隣に話しかけた。心臓が一度だけ、内側を強く叩いた。僕はシャープペンの先で、ノートの上に意味のない丸を描いた。線が震えないように、いつもより少しだけ強く、芯を押し付けながら。

「昨日上がったやつでしょ。再生数もう百万超えてんの、信じらんない」 「『沈黙の経済学』ってタイトル、超かっこよくない? あの声、何回聞いても飽きない」 「でしょ。私、寝る前に絶対聞いてんの。Qに添い寝されてる気分」

くすくすと笑い声が広がる。僕は俯いたまま、口の端だけを、ほんの少しだけ持ち上げた。誰にも気づかれない角度で。

心臓は、まだうるさかった。教室のざわめきの底で、自分だけが二重に存在しているような感覚。机に肘をついた佐倉柊と、彼女たちの口にされた『Q』の二人。同じ身体の中で、二人の輪郭が静かに並んだまま、互いに知らんふりを決め込んでいる。前の席の二人は、それから声優の話題に移り、好きな曲のサビをアカペラで小さく口ずさんだ。誰一人として、すぐ後ろの席の少年が、たった今話題の中心人物だなんて、想像もしていない。それが、心地よかった。秘密という言葉では、たぶん、足りない種類の安全。観察者でいられるからこそ、見られていない快楽が成立する。

——その『Q』は、ここにいる。

放課後、図書室の奥、第三閲覧机。誰も来ない場所。僕はノートパソコンを開いて、イヤホンを片耳だけに差した。残った耳には、廊下を遠ざかる吹奏楽部の足音と、窓の外の鳥の声。完全な無音は怖い。誰かの気配が薄く混じっている方が、僕は集中できる。

匿名動画配信「Q」を始めたのは、中学三年の夏だった。理由は単純だ。誰にも顔を見せず、誰にも本名を知られず、それでも自分の言葉が誰かに届く——そんな構造を、自分で作ってみたかった。最初は再生数百回。それが半年で千回になり、一年で十万回になった。

そして昨日、新作『沈黙の経済学——人はなぜ黙るのかについての一考察』が、再生数百万を超えた。

管理画面の数字を見たとき、僕は自分の部屋で天井を見上げて、十秒ほど何も考えなかった。喜びでも怖さでもなく、ただ、現実感が一拍遅れて追いついてくる感じ。今朝、教室の女子が「百万」と口にしたとき、ようやくその数字が他人の声で実在した。

「佐倉くん、これ、後ろに回して」

声をかけられて顔を上げる。担任の声ではなかった。実行委員のプリントを束ねた手が、僕の机の前で止まっている。

椎名陽葵だった。

クラスで一番目立つ女子。化粧をしていなくても光って見える肌、束ねた髪の毛先まで、何かに選ばれている人のかたち。僕は彼女のことをよく知っているけれど、彼女は僕のことをほぼ知らないはずだ。下の名前を呼ばれたことも、上の名前を呼ばれたこともない。教室の中で、たぶん、一度も。

「あ、ごめん」

声がかすれた。プリントを受け取ろうとした指先が、彼女の指先に少しだけ触れた。冷たい、と思った。そして、彼女の指が、ほんの一瞬だけ、止まった気がした。

その一瞬は、たぶん、僕にしか観察できない長さだった。コンマ五秒。長くて一秒。プリントの紙の角が指の腹を撫でて、彼女の塗っていない短い爪が、僕の親指の付け根を通り過ぎた。シャンプーの匂い。たぶん、白い花の名前の。僕は息を吸うのを忘れていて、慌てて、机の天板に視線を落とした。木目の傷が、急に大きく見えた。

「佐倉くんの声って、よく通るね」

椎名陽葵はそう言って、笑った。教室の他の誰にも向けない種類の、まっすぐな笑い方だった。

僕は、何も言えなかった。

椎名はそのまま、後ろの席にプリントを回しに行った。彼女の制服のリボンが、僕の視界の端で揺れて、消えた。教室の音量が、少しだけ戻ってきた。誰かのシャープペンが転がる音。誰かの欠伸。それまで一拍だけ静かになっていた世界が、何事もなかった顔で動き出す。観察対象が、観察者を、たった一行だけ撫でていった。撫でられた場所だけが、まだ熱を持っている。

その日の夜、僕は自分の部屋でマイクの前に座っていた。

二台のディスプレイ。左にスクリプト、右に編集ソフト。机の右端には、ノイズキャンセリングヘッドフォンと、絶対に名前を残さないために中古で買ったオーディオインターフェース。Qを始めてから、僕は誕生日プレゼントもお年玉も、全部この机の上に積んできた。

新作の収録。テーマは決まっていた。『観察者であることのコスト——なぜ見るだけの人間は孤独になるのか』。

一行目を、声に出した。

「今日は、観察するということについて話します」

声が、ほんのわずかに、上ずった。

僕は録音を止めた。喉を触る。乾いてもいない。風邪でもない。それなのに、声が、いつもの場所に置けない。

「佐倉くんの声って、よく通るね」

椎名陽葵の指の冷たさが、まだ右手の人差し指の腹に残っている気がした。彼女は何気なく言ったはずだ。プリントを後ろに回してくれてありがとう、くらいの意味で。

それなのに、僕の中で、何かが軋んでいた。

スマホを伏せて、もう一度マイクの前に座り直す。深呼吸を一つ。観察者は孤独でいい。孤独でなければ、見ることに集中できない。だから僕は、これを今日中に録り終えて、編集して、明日の朝、Qのアカウントから世界に放つ。それで十分だ。それで、十分のはずだ。

「今日は、観察するということについて話します」

二回目の方が、もっと震えた。

三回目を試みた。「今日は、」で止まった。マイクの感度メーターが、僕の息だけを拾って、緑のバーを左右に揺らしていた。普段なら一度で通せる導入のはずだった。原稿の余白に書いてある赤い注釈——ここで一拍、間を置く——を、目で何度もなぞる。間の置き方より先に、声の置き場所がわからない。ヘッドフォンの中で、自分の心拍が、無音の壁にぶつかって反響していた。

机の引き出しを開ける。中には、捨てられないまま入っている去年の文化祭のしおりがある。表紙の右上に、「実行委員募集中」の赤いスタンプ。今年の文化祭実行委員のくじ引きは、来週の月曜日。

クラスの誰と組まされるかは、神様も知らない。

僕はマイクのスイッチを切った。

部屋の電気を消すと、窓の外の街灯が、机の上に薄く長方形を投げた。その光の中に、ノートパソコンの画面だけが青白く浮かんでいる。Qの最新動画のサムネイル。再生数、百二十七万回。コメント欄の一番上に、新しい書き込みが付いていた。

「Qさんの声、どこかで聞いたことある気がする」

短い一文だった。皮肉でも告発でもない、本当に何気ない、誰でも書きそうな感想。だからこそ、心臓の置き場所が、急に高くなった。

投稿時刻は、十五分前。アイコンは、白地に黒い「H」の一文字。

僕は画面を閉じた。閉じてから、もう一度開いた。何度開き直しても、文面は変わらない。窓の外で、誰かの自転車のチェーンが鳴って、遠ざかっていく。

明日、教室で、椎名陽葵に会う。

それまでに僕が何を準備しておくべきなのか、まだ、わからなかった。

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