第2話
第2話
朝、目覚ましが鳴る五分前に目が覚めた。枕の下でスマホが熱を持っていて、画面を点けるたびに、昨夜のコメントがまだそこにある。「Qさんの声、どこかで聞いたことある気がする」。アイコンの白地に黒い「H」が、薄く網膜に焼き付いている。寝起きの口の中は、何も飲んでいないのに鉄の味がした。
朝食のトーストはバターが偏っていて、左半分だけ甘かった。母が「今日、傘いらないって」と言ったのにも、僕は曖昧に頷くだけだった。家を出るとき、玄関の鏡で前髪を直した。普段はしないことだ。直してから、何のためにそんなことをしたのか、わからなくなって、もう一度乱した。
通学路の桜は、もうほとんど葉桜だった。アスファルトに張り付いた花びらが、朝の通行人の靴底に粉砕されて、薄い茶色の染みに変わっている。春は、終わるときに匂いだけ残していく。土と、花の死骸と、少しだけ甘酸っぱい何か。鞄の中で、今日提出する課題プリントの角が、教科書に押されてくしゃっと折れる音がした。
教室に入ると、月曜の朝特有の、半分の眠気と半分の浮ついた声が、いつもより少しだけ高い周波数で鳴っていた。今日は、文化祭実行委員のくじ引きの日だ。
「ねえ、誰と組みたい?」 「えー、私は誰でもいいや」 「絶対いいやじゃないやつでしょ、それ」
僕は自分の席に座って、鞄から教科書を出すふりをした。視界の右斜め前、窓際の二列目に、椎名陽葵がいる。今朝も、彼女の周りには三人の女子が立っていて、何かを笑い合っている。陽葵は笑うとき、口の端を一度だけ細く絞ってから、ゆっくりと開く癖がある。観察者だった一年間で、僕は彼女の笑い方の手順を、ほぼ全部覚えてしまった。
机の上で、シャープペンを一度ノックする。芯が出すぎた。ノックボタンを反対方向には押せないから、出すぎた芯は、もう折るしかない。
一限目が終わって、二限目の前のホームルーム。担任が黒板に「文化祭実行委員くじ引き」と書いた。
「はい、毎年恒例ですけどね。男女ペアで二組決めます。出席番号順に、この箱から」
担任が、お菓子の空き箱に「くじ」と書いただけの代物をテーブルに置いた。中で何かが軽く揺れる音がした。教室がざわつく。
「やっば、私当たったらどうしよ」 「いや、私、絶対やりたくないんだけど」 「文化祭って、何やんの今年」 「演劇部とコラボでステージらしいよ。一年は雑用じゃない?」
雑用、と僕は心の中で繰り返した。それなら、構わない。むしろ、看板を運んだり、リハーサルの椅子を並べたり、観察に専念できる役割があるなら、それは僕の領分だ。目立たないこと、気配を消すこと、誰の物語の主役にもならないこと。それは僕にとって、防具であり、同時に、住所のようなものだった。
出席番号一番が引き、二番が引き、三番が引いた。男子の組が決まり、女子の組が決まり、教室の空気が一度緩んだ。
「次、十二番、佐倉」
僕は立ち上がった。指の関節が、思ったより冷たかった。教壇まで五歩。歩くたびに、椎名陽葵の席を視界の隅で意識しないように努めたけれど、そういう意識ほど、視線をその方向に引っ張る。彼女は窓の外を見ているふりをしていた。ふりをしている、と僕にわかったのは、一年間の観察のおかげだった。彼女の瞳孔は、外の景色ではなく、もっと近い距離の、おそらくこの教壇の上に焦点を合わせていた。
くじを引く。折りたたまれた紙を開く。「○」と書いてある。当選、ということになる。紙の繊維が、指先で湿った汗を吸い取って、わずかに重くなった気がした。
教室がざわついた。担任が頷いて、黒板に「佐倉柊」と書いた。チョークの粉が、黒板の溝にぱらぱらと落ちる音まで、やけにはっきり聞こえた。
「相方、引いて」
僕の代わりに、担任がもう一つの箱を差し出した。出席番号の女子の中から、一人を引く形式らしい。僕は箱に手を入れた。指先が、紙をいくつか撫でた。一番下のものを、特に意味もなく、つかんだ。
開く前に、教室の音量が一段、低くなったのがわかった。
「えーと、椎名」
担任が読み上げた。
教室が、わざと作ったような歓声と、わざと作ったような落胆の声で、同時に揺れた。誰かが「マジかー、佐倉くん、勝ち組」と言って、別の誰かが「逆じゃない?」と返した。逆、というのが、僕にとっての可哀想なのか、椎名にとっての可哀想なのか、僕にはわからなかった。たぶん、両方だった。
僕は俯いて自分の席に戻った。鼓動が、首の後ろの皮膚で叩いている。座って、椅子の脚を一度床に擦った。視界に、椎名陽葵の上履きの白いゴム部分が、静かに近づいてきた。
「佐倉くん、よろしくね」
声がした。普段の彼女の声より、ほんの半音だけ低かった。普通の女子なら、こういうとき、もう少し高く弾ませる。観察者の僕は、その半音の差を聞き分ける。
顔を上げる。彼女は笑っていた。けれど、目だけが、笑っていなかった。教室の他の誰にも見せていない種類の、まっすぐな視線が、僕を捉えていた。逃げ道のない見つめ方だった。瞳の奥で、何かを確かめるように、僕の輪郭を一度なぞって、それから声の出る喉のあたりに、もう一度視線を落とした。
「最初の打ち合わせ、今日の放課後でいい? 旧校舎の二階、空いてる教室あるから」
椎名はそう言った。声を潜めるのでもなく、わざと響かせるのでもなく、ただ事務的に。けれど、僕の耳はその「旧校舎」という単語に、半秒だけ引っかかった。
旧校舎は、来年取り壊しが決まっている。今は美術部と書道部の予備倉庫として使われているだけで、平日の放課後、人がほとんど行かない場所だ。普通、文化祭の打ち合わせなら、空いている教室を担任に申請して、本校舎の一室を借りる。
「あの、教室、本校舎じゃないと——」 「先生にはもう言ってある。書道部の顧問の先生に鍵借りるから」
彼女はもう答えを用意していた。即答だった。打ち合わせのために即答できる答えではなかった。
「四時で大丈夫?」
僕は頷くしかなかった。
「じゃ、待ってる」
彼女はそう言って、自分の席に戻っていった。リボンが揺れて、視界から消えた。教室の喧騒が戻ってきた。男子の誰かが「佐倉、一人で大丈夫?」と冗談めかして声をかけてきて、僕は曖昧に笑った。曖昧に笑うことは、得意だった。観察者の防具のひとつだった。
しかし、心臓の置き場所が、また高くなっていた。
放課後まで、五時限分の授業があった。僕はその全てを、ほとんど聞いていなかった。ノートに数式を写しているふりをしながら、ノートの隅に、椎名陽葵の昨日の声を、文字で再現しようとしていた。「佐倉くんの声って、よく通るね」と、彼女は言った。
通るね、ではなく、よく通るね。「よく」が、付いていた。
たまたまかもしれない。世間話の一語に、いちいち意味を読み込むのは、観察者の悪い癖だ。けれど、もし彼女が、僕の声をどこかで「よく」聞いていたとしたら——たとえば、寝る前のルーティンとして、イヤホンの中で——。
シャープペンの芯が、ノートの上で折れた。黒い粒が、罫線の上を一瞬転がって、止まった。
「佐倉くん」
担任の声で、現実に戻された。
「次の問題、答えて」
僕は立ち上がった。黒板の問題を読まないまま、適当な数字を答えた。担任は不思議そうな顔をしてから、「まあ、惜しいな」と言って、僕を座らせた。教室の何人かが笑った。椎名陽葵は笑わなかった。彼女は窓の外を見ていた。窓の外の何を見ているのか、僕には、もう、わからなかった。
四時、五分前。僕は鞄を担いで、本校舎の一階を抜け、渡り廊下を渡った。渡り廊下のサッシは半分外れかけていて、風が通るたびに、金属の細い悲鳴のような音を立てた。
旧校舎の昇降口は、午後の光がほとんど届かなくて、靴箱の上の蛍光灯だけが、ジジ、と低く鳴っていた。上履きの音が、誰もいない廊下で、自分のものとして返ってくる。湿った木の匂いと、古いワックスの匂いが、足元から立ちのぼってきた。階段を上がると、二階の左手の一番奥の教室の引き戸が、半分だけ開いていた。
中から、電子機器を操作する音が、ピッ、と短く鳴った。
僕は、立ち止まった。
引き戸の隙間から、椎名陽葵の横顔が見えた。彼女は窓を背にして、机の上に、何か小さな機械を置いている。イヤホンを片耳だけに差して、何かを聞いていた。彼女の唇が、僕の知らない言葉を、小さく繰り返している。
ノートパソコンを開いている時の、僕自身の姿に、よく、似ていた。
僕の足音に気づいて、彼女は顔を上げた。イヤホンを外しながら、にっこりと笑った。
「来てくれて、ありがとう」
そう言いながら、机の上の小さな機械を、手のひらで覆った。