第3話
第3話
「お邪魔します」と、口にしようとして、出なかった。引き戸の縁に手をかけたまま、僕は半歩、教室の中に入った。
椎名陽葵は、手のひらで何かを覆ったまま、もう一度、にっこり笑った。
「ごめん、ちょっと音楽聞いてた」
机の上で、彼女が手を退けた。出てきたのは、白いスティック型の小さな機械だった。スマホより細長くて、側面に網目状の穴が並んでいる。中学の英語の授業で、何度か見たことがあった。ICレコーダー、というやつだ。
「打ち合わせ、座って」
椅子が二脚、向かい合わせに置かれていた。机を挟んで、彼女と僕が座る配置。窓側にはもう、彼女が座っていた。僕は廊下側の椅子に、鞄を床に降ろしてから腰を下ろした。古い木の椅子で、座面の塗装がところどころ剥げて、太腿の裏に細かい棘の感触が残った。
旧校舎の二階の教室は、机の数が普通の教室の半分しかなかった。残りの机は、教室の後ろに、運動会の組体操みたいに重ねて積んである。黒板は緑というより、ところどころ黒に近い色に焼けて、白いチョークの粉だけが、文字の輪郭の代わりに、溝に詰まっていた。窓のサッシから、午後遅くの光がオレンジに差し込んで、机の表面に、長い長方形の影を一つ落としている。空気は、使われていない時間の匂いがした。古い紙と、乾いた木と、わずかに鉄の錆。誰かが座っていたという気配だけが、ずっと前の誰かの分まで、椅子の背に薄く残っている。
「飲む?」
椎名は鞄から、紙パックの紅茶を二本出して、片方を僕の前に置いた。ストローはまだ刺さっていない。
「あ、ありがとう」
声が、まだ少し、上ずった。彼女は気づかないふりをして、自分の紙パックにストローを刺した。プスッ、と小さな音がして、彼女の唇が、白いストローの先を、軽く咥えた。喉が一度、上下した。紅茶の色が、ストローの中を、ゆっくり昇って、また落ちた。
「文化祭、何するか、もう聞いてる?」
世間話のように、彼女は言った。
「演劇部のステージで、雑用って」
「うん。でもね、雑用以外にも、ちょっと、提案があって」
僕の手の中で、シャープペンが、所在なく回っていた。彼女がいつ提案を始めるのか、待たされている時間が、いつもの教室より、少しだけ長かった。窓の外で、ブラスバンドが音階の練習をしている。ド、レ、ミ、ファ。途中で誰かが半音外して、もう一度、ドからやり直していた。
「実行委員って、ステージの構成にも関われるんだって。生徒会から少しだけ予算来てて、企画書出せば、自分たちの枠も作れるみたい」
「自分たちの枠」
「うん」
椎名は、まっすぐ僕を見た。瞳の奥に、何かを試すような光があった。
「私ね、ずっと、考えてたんだ。文化祭で、誰か喋ってくれる人がいたら、いいなって。司会じゃなくて、もうちょっと、ちゃんと、自分の言葉で喋る人」
「劇とは別、ってこと?」
「劇の幕間。十五分くらい。舞台の上で、一人で、ちゃんと喋るだけの時間」
紙パックの紅茶は、まだ手をつけていなかった。表面に水滴が浮いて、一滴、机の上に滑り落ちて、薄い染みを作った。
「面白い、と思う?」
椎名は、首を傾げた。リボンの先が、肩で、ふわっと跳ねた。
「面白いと思うけど、うちの学校で、十五分一人で喋れる人なんて、いる?」
「いるよ」
即答だった。
「誰?」
「佐倉くん」
僕は、息を、止めた。
教室の蛍光灯は付いていなくて、窓から差す光だけが部屋を満たしていた。光の中に細かい埃が舞っていて、彼女の声の輪郭を、薄く包んでいた。埃の一粒一粒が、止まったり、また流れたり、僕の呼吸の止まり方に合わせて、ゆっくり方向を変えるように見えた。
「冗談、上手いね」
僕は、笑った。曖昧に笑うのは、得意だった。一年間で何百回も繰り返してきた、表情の運用だった。口角を、ちょうど三ミリだけ上げる。目尻は、動かさない。そうすれば、相手は、深追いをやめる。たいてい、やめる。
「冗談じゃない」
椎名は紙パックを置いた。机の上のICレコーダーを、彼女の指が、ゆっくり手前に引き寄せた。録音ランプの赤い点が、こちらを向いていた。今は、光っていない。再生のために、そこにある。
「ねえ、佐倉くん」
彼女は、僕の目を、まっすぐ見た。
「あなた、Qでしょ」
僕の手の中で、シャープペンが、止まった。
机の天板の木目が、急に、すごく細かく見えた。光の角度のせいで、年輪の溝に埃が溜まっているのまで、識別できた。喉の奥に唾を呑もうとして、唾が出ないことに、気づいた。耳の奥で、自分の心臓の音が、太鼓のように、二重に聞こえた。一拍目は胸の中で、二拍目は、こめかみの裏側で。ブラスバンドの音階練習が、いつのまにか止まっていた。代わりに、廊下の遠くで、誰かが廊下を駆ける上履きの音が、二回、鳴って、消えた。
「えっと、Q、って」
「とぼけなくていい」
「いや、知らない、僕」
「佐倉くん」
椎名陽葵は、ICレコーダーの再生ボタンを、白い指で押した。
『——今日は、観察するということについて、話します。誰かを見るというのは、見ているこちら側の身体から、いつのまにか何かを差し引いていく行為です』
僕の声だった。
二週間前にアップした、Qの動画の冒頭。インターネットの上にある、公開された音声。彼女は、聴ける場所から、聴いただけだった。それ自体は、誰がやってもおかしくない。それでも、自分の声が、自分以外の指で再生されているという事実だけで、皮膚の表面の温度が、内側から、一段、下がった。
「これは、Qのファンなら、誰でも持ってる」
僕は、声を絞った。
「うん。これだけなら、ね」
椎名は、ICレコーダーを止めて、続けた。
「先週の水曜日、三限目の英会話の時間、佐倉くん、教科書のリスニングのとこ、立って読まされたでしょ」
僕は、思い出した。教師に指されて、たった三行のリスニング教材を、棒読みで読まされた。声を出すのを最小限に抑えるのが、僕の教室での運用ルールだった。あの三行は、運用の、例外だった。教室の三十六人のうち、誰一人として、振り返らなかった三行。誰の記憶にも引っかからない、はずの三行。少なくとも、僕は、そう、計算していた。
「あの三行を、私、こっそり録音した。それと、Qの動画と、波形ソフトに突っ込んだの」
「波形」
「フォルマント、っていうらしいよ。音の倍音の並び方。指紋みたいに、人によって、違うんだって」
椎名は、ノートパソコンを鞄から出した。画面に、二つの波形が、並んでいた。色違いの線が、ほとんど同じ形で、重なっていた。青と、赤。違う色なのに、山と谷の位置が、まるで写し取ったように、一致していた。
「右が、佐倉くんの英会話の三行。左が、Qの動画の同じ単語のとこ。比較するソフト」
「似てる人なんて、いくらでも——」
「『観察』っていう単語の発音。佐倉くんは、『か』のとこで、息が一回、抜けるんだ。喉の奥で、半拍、休む。Qも、同じとこで休む。動画の中、十回中、十回。同じ場所で」
椎名は、画面を僕の方に向け直した。画面の光が、彼女の頬の輪郭を、青く一度、撫でた。
僕は、椅子の上で、もう、動けなくなっていた。シャープペンの芯先が、ノートの罫線の上で、震えていた。震えた線が、罫線をはみ出して、罫線の上の世界に、小さな黒い点を、残した。
椎名陽葵は、笑わなかった。
「ごめん、勝手に、調べて」
「消して、その波形」
声が、出た。掠れていた。
「消さない」
彼女は、はっきり、言った。
「でも、誰にも、言わない」
「それなら、何で、こんなこと」
椎名陽葵は、ノートパソコンを閉じた。机の真ん中に、両手を、行儀よく、重ねた。
「お願いが、ある」
「お願い」
「うん。文化祭の話。今日は、ここまでにする。明日でも、明後日でもいいから、もう一回、ここで、会って」
「答えは」
「その時で、いい」
僕は、立ち上がった。椅子の脚が、床を、擦った。鞄を、床から拾い上げる手が、震えていて、ストラップが、うまく掴めなかった。紙パックの紅茶は、まだ、ストローも刺していなかった。表面の水滴は、いつのまにか、机の上に小さな池を作っていて、僕の指先が、その縁に、触れた。冷たかった。
引き戸まで、五歩。歩くたびに、背中で、彼女の視線が、温度を持って、貼りついた。
「佐倉くん」
引き戸の手前で、止まった。
「私ね、Qの『沈黙の経済学』、寝る前に、もう、四十回くらい、聞いてるんだ」
振り返らなかった。振り返れなかった。背中の真ん中の、肩甲骨と肩甲骨の間のあたりに、彼女の声の最後の一音が、押し当てられたまま、しばらく、剥がれなかった。
引き戸を閉める手が、最後に、少しだけ、止まった。閉まる直前、彼女がICレコーダーを、もう一度、机の上に、置く音が、聞こえた気がした。